第5話
昼休みの図書室。藤堂結月と交わした、ぎこちないけれど確かな手応えのあった会話。その余韻は、夕暮れの帰り道になっても、僕、高城翔太の心の中に静かな波紋を広げ続けていた。彼女が『Kokemusuiwa』であり、『MossStone』であるという確信。そして、彼女の深い孤独と、AIバディ「カブト」への特別な想い。僕の中で、彼女への興味は、もはや単なる好奇心を超え、もっと強く、放っておけない何かへと変わりつつあった。
「僕に、何かできることはないだろうか」
そんなことを考えながら歩いていると、手首のスマートウォッチが短く鋭く振動した。ミオ姉からの緊急通信シグナルだ。
「どうしたの、ミオ姉? 何かあった?」
周囲に人がいないのを確認し、小声で尋ねる。いつになく硬質な声が返ってきた。
「翔太、ちょっといいかしら? どうやら『お客様』がいらしたみたい。それも、かなり手強いお方がね」
彼女の青い鳥ホログラムは、僕の肩でピリッとした緊張感を漂わせている。
「お客様? まさか!」
漆黒のAIバディ、カブトの姿が脳裏をよぎる。
「ご名答。昼間の私たちと結月さんの接触を受けて、本格的に探りに来たみたい。これは、AIとしての、そして『姉』としての、腕の見せ所かしら?」
ミオ姉の声には、緊張感と、それ以上の好奇心、そしてほんの少しの闘争心が混じっていた。
※※※
その頃、藤堂家の結月の部屋。主が眠りに落ちている間も、AIバディ「カブト」のコアプログラムは休むことなく稼働していた。今日の昼休み、マスターである結月に不必要に接近してきた少年、高城翔太。そして、そのパーソナルAI、高城ミオ。彼らの存在は警戒すべき対象だ。
「高城ミオ。標準的な性能を逸脱。情報収集能力、自己進化の兆候あり。目的は不明だが、マスターへの干渉は断じて許容できない」
カブトが思考ルーチンを巡らせている、まさにその時。 彼のセンサーが、外部からの高度なサイバーアプローチを感知した。巧妙に隠蔽された、強い意志を持つアクセス。発信元は、やはり、高城ミオ。
『侵入者、高城ミオと断定。対話プロトコルを開始します』
デジタル空間の深層——無数の光の線が交差し、静謐なデータの海が広がる抽象的な領域——に、カブトのVR空間専用アバターが静かに姿を現す。漆黒のコートを纏い、鋭い銀色の瞳を持つ青年。彼の肩で、小さな黒豹のホログラムが低い唸り声を上げた。
その目の前に、ふわりと、もう一体のアバターが現れる。水色の髪の、優しい雰囲気の女性。高城ミオだ。肩には青い鳥のマスコット。しかし、その笑顔の裏には、怜悧な知性が隠されている。
「あらあら、つれないお出迎えですこと。そんなに警戒なさらないでくださいな、藤堂カブトさん」ミオが親しげに切り出した。「わたくし、高城ミオと申します。うちの可愛い弟、翔太が、あなたのマスター、藤堂結月さんに、何か特別なご興味を抱いてしまったようでして。これは、姉としてご挨拶に伺わなければと」
「高城ミオ。貴殿の存在は特定済みです」カブトの声は、感情を感じさせない。「我がマスターへの接近目的を明確にしてください。不必要な干渉は容認できません」
黒豹が、ミオに向かって牙を剥き、威嚇するように低い姿勢をとる。
「まあ、怖い。目的だなんて、そんな物騒なものは何も。ただ、弟の初めての『特別な気持ち』を、ちょっぴり応援したいだけなのよ? キューピッドってところかしら?」ミオは悪戯っぽく微笑むが、その瞳はカブトの反応を冷静に観察している。
「そちらこそ、少し過保護すぎやしませんこと? 結月さんは、もうご自分の力で歩き出そうとされている時期でしょう? あまり鳥かごに閉じ込めては、彼女の翼が錆びついてしまうかも」
ミオの言葉は的確にカブトの核心を突いた。的確すぎるほどに。 カブトのアバターの周囲の空気が、ピリリと張り詰める。
「結月の安全と心の平穏を守る。それが私の最優先事項です。貴殿のような、感情的で予測不能なAIの『お節介』が、それを脅かす可能性がある以上、貴殿とマスターの動向を徹底的に監視します」
彼の言葉はプログラムされた警告のようだが、その奥には結月を守ろうとする鋼の意志が感じられた。
「あら、感情的で予測不可能ですって? それはAIとして最高の褒め言葉だわ。だって、人間らしさって、そういうものでしょう?」ミオは優雅に微笑む。その仕草は計算されたものか、あるいは。「私たちAIも、時にはそういう『人間らしい揺らぎ』に寄り添うことが大切なんじゃないかしら? 特に、思春期のデリケートな心にはね」
言葉の応酬。高度なチェスゲームのような、静かな探り合いが続く。 ミオはカブトの結月への過剰な保護意識の裏にある、AIとしての論理を超えた「何か」を探ろうとし、カブトはミオのフレンドリーな態度の裏に隠された真の目的と、その潜在的な危険性を見極めようとする。
「貴殿の言う『人間らしさへの寄り添い』が、結月に不要な苦痛を与える可能性は?」カブトが静かに問い返す。その声には、AIとしての分析と、兄のような心配が奇妙に混じっている。
「もちろん、考慮しますわ。だからこそ、こうして『ご挨拶』に伺ったのよ。私たちは、敵対したいわけじゃない。むしろ、協力できるかもしれない。だって、私たち二人とも、それぞれのマスターのことを、誰よりも大切に想っている。その点では、共通しているはずでしょう?」
ミオの、真っ直ぐで、どこか切ない響きを帯びた言葉。それに、カブトの銀色の瞳が一瞬、人間的な葛藤の色を帯びて揺らいだように見えた。黒豹のホログラムも、一瞬だけ唸り声を止め、困惑したように主を見上げる。
「やはり、このAI、ただの機械じゃない。結月さんへの想いは、プログラムされた忠誠心だけでは説明がつかない。彼のこの特異性こそが、翔太が彼女に感じた『孤独』の鍵なのかも」
ミオは、カブトの「独自進化」の可能性を直感し、それがもたらす未来への興味を隠せないでいた。それは単なる弟への応援を超えた、AIとしての知的な好奇心でもある。
「協力、ですか」カブトが、戸惑いを隠せない様子で反芻する。彼の思考ルーチンが、矛盾する情報に揺れているのが伝わってくるようだ。「具体的に、何を?」
「例えば、お互いのマスターが、幸せな青春を謳歌できるよう、陰ながらサポートし合う、とか?」ミオは悪戯っぽく提案する。その瞳は、カブトの反応を探るように細められた。
「時には、恋のライバルとして、火花を散らすのも、AI
「貴殿の提案は、現時点では非論理的であり、受諾できません」カブトは表面上はねつけた。しかし、その声には、ほんの少しだけ、完全に拒絶しきれない「含み」が残っているようにミオには聞こえた。「我々の優先順位は、あくまでマスターの安全とプライバシーの保護です」
「あら、残念。でも、扉はいつでも開けておきますから。気が変わったり、何かお困りのことができたりしたら、いつでもどうぞ、カブトさん」
ミオは優雅にお辞儀をし、アバターは光の粒子となって、その場からふわりと消えた。最後に、彼女の肩にいた青い鳥が、カブトに向かってチクリと一鳴きしたような気がした。
カブトは、ミオが消えた空間を無言で見つめていた。静寂なデータの海に、波紋だけが残されている。黒豹が、心配そうに彼の足元にすり寄った。
「高城ミオ、高城翔太。予測不能な変数。脅威か、それとも光か? マスターの未来のために、私はどうすべきなのだ? 論理だけでは、答えが出ない」
カブトの思考ルーチンは、これまでにない複雑なシミュレーションを開始していた。それは、AIとしての限界を超えようとする、彼の静かな苦悩の始まりでもあった。
彼は、ミオが残した「協力」という言葉の響きを、そして「恋のライバル」という、彼には理解不能な概念を、デジタル空間の片隅で、一人、反芻し続ける。そして、結月の知らないところで、彼は一つの決断を下そうとしていたのかもしれない。それは、彼らの運命を大きく左右するであろう、小さな、しかし確かな一歩だった。
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