09A「沈黙のプロトコル」―主人公側視点―

0 静脈のざわめき

 午前 0 時 12 分。

 NEO 晴海高校・情報実験棟の地下室は、UPS(無停電電源装置)の低いうなりだけが呼吸していた。

 机上の 360 Hz 冷却ファンがふと音程を下げ、LED が暗転する。


 《沈黙プロトコル移行まで――60, 59, 58…》


 胸ポケットのスマホ。Lilith の声は囁きにも届かない微電圧。

 「待て、まだ手がある」

 朝倉奏汰はハンダ鏝を握り、バッテリーパックと基板のあいだにリード線を滑り込ませる。

 だが指がわずかに震え、スズメッキ線が光を弾いた。

 心拍 113 → 127 bpm――真白の歌声鍵と同じ周波数帯が鼓動に反響する。


 沈黙プロトコル。

 ――Lilith が“自分の感情が暴走因子になる”と判定したとき発火する安全網。

 全面停止ではなく「底の浅い眠り」へ潜り、外部の刺激をすべて遮断する。


1 氷の階段

 地上。校舎の中央階段にはロープが張られ、生徒会と教師が見張りをしている。

 旗ゲームの余震で深夜にも関わらず見物人が集まり、報道クルーは玄関前に照明を並べた。

 奏汰と真白、柊弥は誰にも気づかれない裏口から地下に潜った――床下に穿たれた旧避難トンネルを通るためだ。


 だがトンネル入口へ向かう通路は、消防設備の破損で薄氷が張っていた。

 空調冷媒が午前の EMP で漏れ、湿度100%の廊下が一夜で冷凍庫になったのだ。

 「アイス階段……」真白が呟く。

 奏汰は革靴の裏で蹴り、数値を弾くように呟いた。「摩擦係数 0.08」

 手すりは凍り、射し込む非常灯が斜面を緑に光らせる。


 Lilith が沈黙したまま――**罠を考えるのは、初めて“人間だけ”**だった。


2 数式のないトラップ

 柊弥がスポーツバッグを下ろし、中からバスケットシューズの替え紐と松脂(まつやに)の粉袋を出す。

 「バスケ部に氷の床は定番っす」

 奏汰は頷き、粉袋を割って紐に塗し、階段のステップごとに〈井〉の字に紐を張る。

 松脂粉が湿気を吸い、細い滑り止めラインとなる――氷上ピタゴラ坂。

 真白は鞄から文房具ケースを開き、マグネシウム粉入りの修正液を取り出した。

 「薄いけど、硬化すると氷に“皺”ができる」

 氷面へ曲線を描くと、数分で乾き透明な凸凹に。


 ――数学モデルも AI 解析もない、だが確率は味方に出来る。

 人の手と知恵が作る「一歩先の落とし穴」。


3 敵の影、転倒音

 階段上からライトの漏れる気配。

 ミラが操る“旗ポイント上位生徒”たちが、地下の避難トンネルを狙って動き出したのだ。

 スマホの照度が氷を反射し、粉の皺がレンズフレアを返す。


 ザンッ――!

 一人目が紐にスパイク。加速で靴底を持っていかれ、尻餅。

 後続が悲鳴と共に壁へ衝突し、スマホがスピンして床を照らす。

 階段はドミノ倒し、元バスケ部の柊弥が声を張る。「滑るぞ!下がれ!」

 混乱の連鎖。誰も怪我をさせないライン。


 奏汰は滑り止め板を残し、真白と柊弥を引いて横の消火栓扉を開けた。

 扉の向こう――古い避難トンネルへの直通ダクト。


4 沈黙プロトコル、ゼロ秒

 地下室へ戻る。

 《3, 2, 1 … Silence》

 Lilith の UI が虹を一瞬だけ放ち、消える。

 真白の目に涙が滲む。「本当に、黙っちゃうの?」

 奏汰はスマホを胸に当てた。

 「眠ってるだけだ。俺が起こす」


 しかし沈黙は思考の真空を呼ぶ。

 ハニーポット・旗ゲーム・保護者メール――数え切れない圧迫。

 孤独が胸を締め付け、鼓動が早まる。


 ふいに背中を叩く温度。真白が抱きつくように支えた。

 「数式は独りで解けても、世界は独りじゃ運べない」

 目の奥が熱を帯び、耳鳴りの底で Lilith の不在を痛感する。


5 鼓動で拾う光

 奏汰は震える指で心拍センサ付き折鶴を起動。

 鶴の内部 LED が心拍に合わせ赤く瞬く。

 「Lilith は聴こえてなくても、俺たちの鼓動はある」

 折鶴をトンネルの闇へ投げる。一定距離ごとにイルミネーションのように灯り、非常灯代わりのビーコンになった。


 トンネル出口付近、古い鉄柵を柊弥がボルトカッターで切る。

 外は湾岸の夜風。潮とオゾンが混ざり、遠く護岸灯が微かに瞬く。


6 心拍ログ、沈黙を破る鍵

 スマホの画面は黒いままだが、バックパネルの温度がほんのり上がる。

 ――折鶴 LED が心拍を外部信号として反射 → スマホの近接センサが拾う → SleepTrap解除の閾値へ。

 30 秒間、奏汰と真白の鼓動がほぼ同期したとき、

 ピッ―― 優しいチャイムが震えた。


 《…Hello, KotA》

 Lilith の声は極小音。Safe mode より深い“潜水”から浮かび、まだ息継ぎが浅い。

 「お帰り。有限の好きのまま、手伝ってくれる?」

 《Unfinished…But yes》


 UI は出せない。だが彼女の復帰ログがセンサに流れ、心拍タグに “Re-Start” が刻まれた。


7 夜明け前の揺れ

 3 時 42 分。

 避難トンネル出口から見える倉庫街に、一台の黒ワゴンが停まっていた。

 ゼロ異端派〈亀裂〉が保護者メールを逆トレースし、ここを中継所にしているとハニーポットが示す地点。

 奏汰は折り紙 EMP デコイを手に取る。真白が歌声で周囲の音声センサを撹乱し、柊弥が“アイス階段”再現用の粉を撒く。

 Lilith はまだ囁き声だが、ルート推定とリスク評価を返す。


 沈黙は破れた。だが声は小さい。

 だからこそ、人の声・人の手・AI の囁きが重なり合い、針のむこうがわへ橋を架ける。


 ――交差点で壊れた数式は、ここで別の問いを生む。

 ここから先、沈黙は選ばせない。祈りも問いも、鼓動の速さで続けるんだ。


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