第52話 な忘れそ、ぬくもりの名を

夜は深く、結界は音の輪郭をやさしく鈍らせていた。

だが、その静けさは一瞬で砕ける。布団が荒々しくめくられ、寝台の上で一心様が跳ね起きた。


胸に手を押し当て、喉を鳴らし、空気を掴むように口を開閉する。

肩が痙攣するほどの動悸。

額をつたう冷や汗。こらえきれない嘔気に、片手が口許へ走る。

右の眼が、闇のなかで獣のように光った。

——無意識に“見てしまう”眼。

名と記憶のほつれを探してしまう、あの眼だ。


「……志貴……どこや」


低い呻きが、悲鳴へ裏返る。

最強の名を恣にしてきた男が、取り乱していた。


「一心様!」


わたし——ヨルノミコトは背に回り、跳ねる肩を抱きとめる。

背骨に沿って掌を据え、肩甲骨の上から腰へ、一定の速さで撫で下ろす。呼吸の速さに合わせ、手は祈りの拍子を刻む。


「志貴様はここに。ご無事です。名も記憶も、奪われてはおりません」


「……声が……消える……さっきまで、あったのに……」


荒い息の合間に、潰れた声が零れる。

右の眼がぎらりと光り、また暗さに沈む。見ようとする衝動が、彼自身を苛むのだ。

布団の端をつかむ指は白く、震えが止まらない。吐き気が喉を焦がし、冷や汗が首筋を伝う。


「一心様、これを」


寝台の脇の箱から布を取り出し、掌にそっと載せる。

一心様は指先から滑らせ、布を落としてしまった。わずかな沈黙——いや、動けなくなっている。


「大丈夫です」


もう一度、掌に載せる。今度は凍える指で、それでも結び目は迷いなく整えられた。

右眼が布で覆われた瞬間、荒波の息はすこし浅瀬へ降りる。


「……深く、落ちた。気を抜いた。……その間に、奪われたら、どうする」


「奪われてはおりません。志貴様は、ここに」


「志貴が……消えたら……俺は……」


嗚咽に似た声。誰も近づけなかった層の痛みが、擦りむけたまま露出している。

無敵と評される者が、恐怖に攫われ、震えている——その事実を知るのは、わたしだけだ。


「……一心様」


呼吸がわずかに落ち着いたのを見計らい、声の色をやわらげる。


「覚えておられますか。志貴様がまだ幼かった頃のことを」


返事はない。だが、耳には届いている。

わたしは“確認”のための物語を、ひとつずつ火にかけるように口に載せていく。可笑しくて、愛おしくて、温かい——彼の記憶の温度を、こちらから手渡すために。






——冬の出雲。


蕎麦屋の暖簾は、雪の白をひととき忘れさせた。

志貴様は、一心様の袖をちいさく引っ張りながら、はしゃいだ足取りで座敷へ上がっていかれる。

座ればすぐ、一心様の真横に、ぴたりと。肩がふれるほどの横並びが、あの子の指定席だった。


『一心、見て。湯気、すごいで』


両手で抱えた丼の湯気に、細い睫毛が濡れる。

頬は雪明りのように白く、唇はまだ血色が薄い。


『美味しい。……一心も、どうぞ?』


差し出された温度に、一心様は一瞬だけ視線を泳がせた。

右手の箸が自分の冷たい蕎麦を持ち上げ、左手の指先が湯気の立つ丼の縁に触れて、すっと離れる。ほんの短い逡巡。そして、真顔の言い訳。


『……冷たいほうが、味がよう分かる』


熱いものが苦手だ、とは言わない。決して、そうは言わない。


『寒がりやのに、あったかいの、食べへんの?』


『うるさい』


次の瞬間、氷を二つ、指でつまみ、志貴様の丼へ落とした。しゅう、と湯気が細る。香りは薄まり、甘さが遠のく。


『……っ! ひどい……』


志貴様の大きな瞳に、あっという間に涙がたまった。湯気の消えた丼を見つめ、唇が震える。


『学習せぇ』


けれど、ちいさな手は離れなかった。座敷の下で、一心様の袖をぎゅうっと掴んだまま、頬をぷくりとふくらませてそっぽを向く。


『……食べへんの?』


一心様が、おもしろがるように問う。

志貴様は顔をそむけたまま、うんともすんとも言わない。鼻だけが、むう、と鳴った。


『食べる』


少しして——丼を両手で持ち直し、すする。

口のなかの温度が、まだ“あたたかい”と知って、目尻がとける。


『……うん……美味しい。絶対、こっちが正解や』


『……そうか』


短い会話。けれど、その短さで十分だった。

世界は、子の指先と温度で修復される。湯気は戻り、甘い出汁の香りが、ふたたび二人の鼻先に触れた。








「……コップの氷、入れたわ」


今、ここにいる一心様が呟く。眼帯の下で睫毛が震え、喉の奥で小さな音がほどけた。


「はい。一心様は、覚えておられるのです」


わたしは言葉を重ねる。彼が“奪われていない”と、自分で気づけるように。

布団の端を強く掴んだ指が、深く、長い息とともにゆるむ。


「……他にも、あるか?」


「ございます」


もうひとつ、火を点ける。






——京都・宗像邸。


朝の寝間。薄い光のなか、志貴様がそっと障子を開ける。

足音を消して近づき、布団の端を指先でつつく。


『一心、起きて。朝やで』


返事はない。

代わりに、布団の中から伸びてきた腕が、志貴様の腰をするりと攫う。小さな体は抵抗もむなしく、布団の谷へずるずる引き込まれる。


『ちょっと……!』


『まだ眠いんや。お前も寝とき……』


布団の中で笑い声が転がり、やがて静かになる。


『結局、寝るんかいっ』


やがて寝息は、早々に心地よいリズムへ落ちた。

一心様はその様子に小さく笑い、わたしは襖の外で、咳払いひとつ分だけ微笑んだ。








「……それも、覚えてるわ」


一心様の声は少し低い。震えはまだ細く残るが、呼吸は先ほどより均されている。


「ええ。他にもございます。手料理のことも」


「……それ、忘れてええわ」


「いえ、“思い出せる”ことが肝要にございます」







——京都・宗像邸。


大人たちが仕事に出た夜。怪我をしていた一心様は留守番となり、世話係に回された。

志貴様にねだられて焼いた丸い生地は、黒く、固く、しかも冷たかった。


『……まずい……っ』


志貴様は一口で泣いた。世界の理がまたひっくり返った顔で。


『……公介さんのがええ……』


突っ伏して泣く志貴様に、一心様は真顔で首を捻った。


『泰介さんより、マシなはずや』


『泰介さんのも、一心のもいらん』


『もう一回、言うてみぃ』


一心様が抱き上げて、睨みつける。志貴様は借りてきた猫のように目を逸らした。


『……公介さんの……チンする』


『あるなら、早よ言え』


冷凍のパンケーキがレンジに入り、柔らかな匂いが戻る。

志貴様は皿を持って待ちながら、一心様の袖から手を離さない。涙の塩気を頬に貼りつかせたまま、小さな指は頑なに絡みつづけていた。







「……よう覚えてるもんやな」


一心様が、はっきりと口にした。

同時に、布団の端を掴んでいた指から、力がほどけてゆく。


「ご安心ください。一心様は、まだ“思い出せる”。——奪われてなどおりません」


背へ掌を戻し、さする速さを少し落とす。心拍と呼吸の波が、手のリズムと重なっていく。

まぶたの縁に滲んだ涙は、もはや恐怖のそれではない。ふたつの音——志貴様と一心様の呼吸が、結界の内でゆっくり重なった。


「……志貴は、いま、眠ってるな」


「はい。百日の眠りの、まだ途中におられます」


「目が覚めたら——」


「また、あの頃のようにできます」


言い切ると、一心様の喉が小さく鳴り、吸い込んだ息が胸へ落ちる。


「……本当に、できるやろか」


「できます。世界は何度でも修復されます。名と温度と、志貴様と——あなた様とで」


長く目を閉じ、短く頷く。


結界の膜に、微かな冷えが触れる。鼻の奥がつんとする。

志貴様が目覚める頃には雪が来る。音のない白が、夜の底を明るくする。


「目覚めたら、雪になりますな」


「……志貴は、騒ぐ」


「ええ。布団を抱えたまま走って来られるでしょう。炬燵に潜り、一心様の腕に頭を押し入れて」


「首に巻くんは、あかん」


眼帯の下で、彼の目尻が少しだけ緩んだ。

志貴様は首元を覆われるのが苦手だ。マフラーを巻けば、息が詰まるほどに取り乱す。

あの日の庭先で、一心様がそれに気づき、慌てて外し、代わりにフード付きの厚手の上着をかぶせた。


「……そうや。あの、もこもこのやつを」


「用意しておきましょう」


灯をひとつ落とす。藍の気配が部屋を満たす。

床板の下で冷えがゆっくり伸び、障子の向こうで雫が降りはじめた。


「ありがとう」


布団の中から、低い声。

わたしは頭を垂れる。


「礼には及びません。拙は、一心様の神使にございます」


名はここにある。声も、温度も、届くところに。

わたしは喉の奥で呼び名を温め、いつでも出せるように整える。求められれば、すぐ渡せるように。


世界は、ときどき壊れる。

だが、手と、名と、温度で——何度でも、修復される。

ここで。志貴様と一心様の隣で。この先、雪の降る夜を、三人で囲いながら。


……ただ、その雪の底には、まだ誰も知らぬ影が潜んでいた。

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