第51話 六出なる 飛び雪まひて 夏沈む(後編)


炎球はもう太陽と呼ぶより他なく、庭の影という影を溶かしていく。

熱が押し寄せるたび、世界の輪郭が一枚ずつ剥がれ、音が置き去りにされた。


時生の呻き声がして、最奥の結界が揺れる。

最奥への道が開けば、一心が黙ってはいない。

だが、志貴を丸裸にしてしまうのと同義。


(俺が一歩でも退がったら、あかん)


冬馬は奥歯を噛み締めた。


「終わり、にしよっか」


燼華が小さく息を弾ませる。


冬馬は前足の指をわずかに開き、踵で地を噛む。

胸の内で骨が一度だけ鳴り、世界の拍が揃う。


(見ろ。勝ち筋はある──香が“縫われて”戻る、その瞬間)


先刻、大鎌の根を割った刹那だけ走った無音。

炎が“綴じ直る”ときにだけ、理が素肌を晒す。

太陽の表面にも、微かに波打つ綴じ目がある。

香が一瞬だけ裏返って、甘さが苦みに触れるその帯だ。


風圧で膝が笑う。

柄はぬめり、手の内の温度がすべてを奪いに来る。

正攻法は捨てた。

捨てるための覚悟はできていた。


(踏む。間を割る。届かせる)


一歩。

熱の壁が悲鳴を上げ、袖口が焦げて千切れる。


二歩。

視界の端が白く飛ぶ。骨の数拍だけが目盛りになる。


刃の角度を半分だけ外に逃がし、重みを切先へ移す。

呼気が喉を擦り、舌に鉄の味が乗った。


「志貴を──護る!」


名を呼ぶのと、足裏が地を離れるのは同時だった。


冬馬は、ただ一直線に、太陽の“綴じ目”へ。


振り下ろした瞬間、炎の太陽は真二つ。

刃は熱の“綴じ目”だけを裂いていた。

轟音はない。

世界が息を止める。

沈黙こそが刃の余韻だった。

音のない勝鬨が理を割る。

溶け落ちた炎は、燼華の胸奥に亀裂となった。


「……どうやって?」


燼華は胸を押さえ、目を丸くしてから、嬉しそうに口角を上げる。


「……僕が、斬られた?」


荒い息。肩が上下している。


裂け目は、ただ一瞬の“綴じ目”を狙い撃っただけ。九十九は死に、残り一の勝機を穿つ──

それ以外にあり得ぬ愚行だった。


「馬鹿な……」


燼華は笑いながらも目を揺らす。


「君、全部負けてたのに……最後だけ、勝った?」


冬馬は答えない。

ただ、血に濡れた刃を支えながら吐き捨てる。


「勝ったら……十分やろ」


視界が二重にぶれはじめる。

冬馬は力なく笑う。


「軌道、読めんかったやろ……」


振り下ろしたかに見えた刀。

寸手で逆手に持ち替え、切り上げていた。

強者相手には悪手でも、死を顧みないという一点で、すべてがひっくり返る。


「君、馬鹿だろ。……これ、間違えば、相打ちしかないじゃん」


「相打ちでも構わん。……志貴は護れる」


「最高に馬鹿だ!」


裂け目を見下ろし、燼華は傑作だと笑う。

だが、次の瞬間──亀裂の奥から炎が逆流した。


「やっ……あ、あぁぁぁっ!?」


悲鳴は子供の声。

灼熱が内側から爆ぜ、骨を裂き、内臓を灰に変える。

斬られた痛みではない。死んだ方がましな痛みが、千年の業ごと押し寄せる。


「いやだ……いやだ……!」


夜空を焼き、炎が暴発する。

燼華は庭を転げ、幼子のように泣き叫んだ。

泣き声が途切れ、喉の奥で空気だけが掠れる。

──その叫びを、別の声が押し潰す。



《精算だ。奪った熱だけ、骨で払え》



耀冥の声。

遠い死の底から、冷ややかに届く。



《お前の魂から“還り”を剥いだ》

《汝は何者か──その問いは、もうない》



「還りの理なんか、どうでもいいよ。……耀冥」


泣き声が、不意に止む。

涙の奥に、急速に冷めた光が宿る。


「本当に耀冥が大好きで、大好きで仕方がない。あなたが一番の大悪党だよ。……それにしても、骸座の戯、愉しかったぁ」


燼華は天に手を伸ばすようにして、目を閉ざす。


「冬馬、君さ──冥府の黒脈だろ。そうでもなきゃ、僕を斬れない」


大鎌が地に転がり、燼華も崩れ落ちた。


「僕は退屈も永続も嫌い。……だから、君に全部あげるよ。そのかわり、君の最も大切なものを握りつぶしてあげる」


掠れた呟きは、呪いのように冬馬へ突き刺さる。


そして、炎がぱきりと音を立て、魂核が砕けた。

燼華の身体は火の粉となり、夜空に散る。


骸座の戯は終わり、“冠”だけが残る。


消滅の代わりに、冥府律──冥府に刻まれた継承規範が冷たく作動する。



《四天王を討った者は、その座を継ぐ》



冬馬の胸奥に灼熱の印。

炎の紋様が魂へ食い込み、“夏”の権能が流れ込む。


「……なるほど」


骨が鳴る。

最後の一響は、全身の骨が同時に鳴った“世界から音を抜く無音”だった。

片膝をつき、遅れて呼吸が戻る。

刃を下げ、鞘へ。音は鳴らない。

胸の内側で“夏が沈む音”だけがした。


結界は、まだ堅い。

時生は血を拭いながら、それでも保ち続ける。

志貴の眠りの場はわずかに揺れたが、落ちなかった。


冬馬は地に片手をつき、息の隙間に言葉を落とす。


「……志貴が無事なら、それでいい」


独り言に重ねて、心の底にだけ、別の言葉を沈める。


自分の内側に、戦闘狂の形があるのを、ずっと見ないようにしてきた。

黄泉使いとして立つたび、歯車がどこかで噛み合わないのを、志貴を護りたいという願いで誤魔化してきた。

結果だけ見れば、半分の血は冥府へ沈み、宗像の血はそれに喰われたのだろう。

構造として、もう宗像ではいられない。


志貴に、どの言葉で、どう言えばいいかがわからない。


「わかってたはずや……」


燼華を斬れば宗像でいられなくなるのは、どこかの時点で気づいていた。


「どうすれば?……いや、もう、どうしようもない」


ただ、桃の香だけが、結界の内と外でゆっくり巡り、揺らぎのたび、そっと戻ってくる。


道反の夜は閉じる。

熊野の風は届かない。合流は、まだ叶わない。


冬馬は刀を突き立て、うつむいた。

魂に焼き付いた刻印が赤く燃え、背を灼く。


「最悪や……」


指を握り、ひらく。

彩度の落ちた世界で、蝉の翅脈みたいな焼き痕が胸の奥で疼いた。

それが夏の刻印だと、誰にも教えられずに、ただ知る。


「……もう、ここにはおれんのやろな」


掠れた声は血に濡れていた。


夜風。

焦げた木々の匂いに、ほんのわずか桃の甘さ。

それを胸いっぱいに吸い込み、冬馬は泣き笑うしかできない。


片想いのまま、刃として生きていく未来を選んだはずが、道が狂った。


──志貴はまだ、この選択を知らない。

志貴を護る一念で、冬馬は己を捨てた。


道反の結界は宗像以外をはじく。

冬馬が膜に触れたなら、指先が焦げ落ちた。


燼華の嘲笑う声が耳に蘇る。──愉しいね、と。


「俺が……決めたはずやのにな」


立ちあがろうとした冬馬に、突風が吹きつけた。


「何だよ、これ……」


身を包むのは、冥府の黒に氷銀を縫い合わせた軍装だった。

高い襟は喉元を冷たく締め、肩章には六花の紋が光を吸い込みながら凍てつく。

胸元を渡る鎖飾りは幾重にも連なり、無骨さと儀礼の荘厳を同居させる。

外套は一方の肩にのみ掛けられ、裏地は深紅に燃え、裾の銀糸の唐草が闇で氷華のように揺れた。

足元まで引き締められた長靴は、刃のように細い脚線を強調する。


「何が、どうなって……」


裂けていた傷は見る間に塞がり、血の流れも止まっていく。

胸にあるのは安堵ではなく、深い混乱。

激しい頭痛が襲う。


「……きついやろ、これ」


掠れた声が夜に落ちる。


冬の名が、夏の座に沈む。

肩章に刻まれた銘──飛雪。

口に出さずとも、骨がその名で鳴いた。


「……嫌や」


六花の紋が胸で鳴り、骨の奥で氷が軋む。

炎の残響はまだ消えず、夜の縫い目をわずかに歪めていた。

──まるで時の色そのものが裏返るように。


“飛雪”は、自分のものとは思えず、血が逆流するほど異物だった。


「俺は……冬馬やろ……!」


頭蓋の奥で痛みが爆ぜ、喉が勝手に震えた。

その声は、思わず漏れた。


「……志貴……!」


呼んでしまった。

守りたい名だけが、胸の奥に最後まで残る。

だが軍装の鎖飾りは冷たく、真名は覆いかぶさるように魂を締め上げる。


志貴の笑った顔が浮かぶ。

ただ隣で、何気ない話をする、その時間が好きだった。


幼馴染だと言い訳するのは、もう終わり。

渡さない──たとえ一心でも。


言葉にならぬ熱が、血といっしょに喉を焦がす。


「志貴の側に居たい。何で、奪うんや」


──夏に沈んだ“飛雪”。

己が名でありながら、己を引き裂く刃だった。




「全て、お前が選んだことだ」




──背に、体温のない影が落ちた。

赫夜だった。


「骸座の冠は斬り手に落ちる。……お前は“冠”と引き換えに宗像を捨てた」


燼華を斬り、四天王になりかわった。

赫夜の瞳に、冷ややかな光と微かな肯定が同時に宿る。


「落ちる火の粉に、自ら灯を見出す者を容易に救わない──耀冥の作法だ」


赫夜はゆったりと近づき、銀紫の瞳で射抜く。


「飛雪──それがこちら側でのお前の真名だ。『穂積冬馬』は仮初が剥がれ、遠からず消える」


鬱陶しそうに前髪をかき上げる。


「案外、脆いな」


冬馬は身体を硬直させて動かない。


「序列の柏手は、真名の脈を叩き起こす。……そして今、お前たちが難儀する唯一の相手は“俺”だ」


赫夜が軽く柏手を打つ。

硬直が解けた瞬間、冬馬は素早く身をひいた。

だが、赫夜の手が早い。

あっという間に軍装の胸元をつかまれた。


「えっ?」


赫夜に捕まえられたことよりさらに恐ろしいことに、冬馬は気づく。

骨の中で氷が鳴るように軽い。

自重を感じないのだ。


「身体が軽いだろ。それは真名を取り戻したからだ。冥府の血が濃いお前には、宗像側で生きるための身体はさぞ窮屈だったはず」


言い当てられ、冬馬は唇を噛み、答えを失う。

赫夜はさらに重ねた。


「夏の四天王としての役割からは逃げられんぞ。だが、今のお前では荷が勝つことばかり。もう易々とは死ねんが、死なないわけでもない。叩き込むべきことは山ほどある」


手が差し出される。

誘いか、挑発か。


「死にたいなら燼華がやったように骸座の戯をすれば良い。生身となって斬り合う。魂が砕け、骨の音すら残らん」


冬馬は返事をしなかった。

焦げた指先で柄を撫で、結界の向こうに漂う桃の香を確かめる。

護りたいものは、護ることができた。


「飛雪」


赫夜が呼ぶ。


「真名は、お前の魂に最初から刻まれていたもので、後付けではない。……少しくらい、反応しろ」


冬馬は言葉に興味を示さない。

ただ、結界の内側に目をやる。


赫夜はため息をついた。


「護り方は幾通りもある。場所ではない、“手筋”だ」


冬馬は目を伏せ、唇を噛む。


「どうするかはお前が決めろ。俺はもう行く。ここは好かんから、長居はしたくない」


踵を返す赫夜。

冬馬はゆっくり立ち上がると、その後を歩み出した。


黒と氷銀の軍装に夜風が絡み、六花の紋章がかすかに鳴る。

袖口から雪片のような光が零れる。

塞がったはずの傷は跡だけを残し、皮膚の下で新しい力が脈打ちはじめた。




「あんたの名前は?」



「赫夜だ」




冥府の道は深く口を開け、黒い川が二つの影を呑んだ。


──六出なる飛び雪まひて夏沈む。

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