第43話 やみのほどに あかし火ゆらぐ(後編)
旧王庭に踏み込んだ途端、宗像の香が途切れた。次の拍で、場の手触りが変わる。ここが黄泉に触れているのだと、咲貴は遅れて気づいた。
かつて志貴が香を振るった御座の間は、いまや焦げた鉄の臭いと、潰れた蠟の匂いに包まれている。咲貴が火を顕した瞬間、空間の継ぎ目が軋み、足元の畳の目がわずかにずれて見えた。世界の側がこちらへ押し寄せるのではない。こちらが、押し流される。触れればわかる違和感だけが先に立ち、吐いた息の行き先を、咲貴はそこで見失った。
「……なに、これ……?」
火を纏った咲貴は、息を浅くしながら足元へ視線を落とした。血でも、泥でもない。床のはずのものが、床のふりをするのをやめている。熱が肌を舐め、骨の奥がきしむように痺れ、空間がわずかに歪む。沈む足場に膝がとられ、踏み込んだ分だけ戻りが遅れる。宗像の境のはずなのに、宗像の香が届かない。息を吸うたび喉の奥に残るのは煤ではなく、湿った紙が裂けるような生乾きの匂いだった。喉の内側に貼りついたその匂いが、古い言葉でしか呼べない場所を思い出させる。人がかつて地獄と呼んだものの手触りに、よく似ていた。
咲貴が喉を鳴らすより早く、冬馬の声が落ちた。
「冥筆、やな」
冬馬は短く息を吐き、焦げ臭い匂いの向こうを睨んだ。視線の先は闇の端で、そこだけ輪郭が曖昧にほどけ、畳の目が合わなくなる。
「ここはもう、冥界の最下層やろ。……あいつ、何やってくれてんねん」
咲貴が見上げた空に、影がゆらいでいた。夜の黒より濃い揺らめきが、頁をめくるように折れては重なる。ひとつ返るたび、耳の奥に硬い擦過音が残り、火の熱がその音に押されて端を乱しかける。
翁の面をつけた壮馬が、降りてくる。その背に広がっているのは羽でも光でもなく、身の丈ほどもある年代物の黒い古文書だった。硯を倒したように闇が滲み、紙の端のようなものが空を裂いてめくられていく。頁が返るたび、空気が薄くなり、香の層がほころび、宗像の木の匂いが遠のく。咲貴は火の内側で形を確かめ直すように、指先へ力を集めた。
「志貴は、想像以上に紅すぎて、奪取しそこなったが……君は無印だからな。替えの器で進めるしかない」
声は静かで、抑揚がなかった。けれど咲貴の胸の奥に燃える火が、わずかに脈打つ。怒りが先に立つのではない。身体が拒む形で熱が走った。舌の裏が渇き、歯の奥がきしむ。その言い方だけは許せないまま、火が遅れて息の形を作り直した。
「名誉なことだぞ。君の肉体は千年王の魂に耐えうる器として、最高水準に達しているということだ」
烈風が吹き荒れた。火が暴れかけ、咲貴は肩で息をした。風は風の匂いを持たず、乾ききった紙を擦るような擦過音を含んでいる。影の端から、悪鬼どもが次々と這い出した。肉体は紙でできている。裂け目から出てくるたび、紙の繊維が擦れて嫌な音を立てた。薄いはずの身体が濡れたように重く、火の熱を吸い込みながら形を増やしていく。火を当てても、燃え移る前に文字のような筋が走って剥がれ落ちるだけだった。
咲貴の耳のすぐ後ろで、冬馬の声が低くなる。
「咲貴、普通の火じゃ、やつらは燃え尽きん」
咲貴は返事を探せず、目だけで冬馬を見た。冬馬の掌が、かすかに震えていた。恐れではなく、押し殺された熱が行き場を失っているように見えた。槍の柄を握る指先の白さだけが火の光に浮き、次の拍で消える。
「焼くより、手っ取り早いやり方はあるんやけどな……」
冬馬が笑った。咲貴の見たことのない笑みだった。穏やかで、いつも咲貴の火の輪郭を気にしていた冬馬の顔に、違う陰りが差す。笑いの形は同じでも、喉の奥へ落ちる音だけが硬い。
「俺、ずっと、切れそうやった」
「え……?」
「志貴が親父に傷つけられたとき」
冬馬はそこでいったん口を止めた。息が喉に引っかかり、笑みの端だけが固まる。
「志貴が親父のせいで眠ったって、わかったとき」
言い直すように、もう一度息を吐いた。
「さっき……親父の封術くらったとき。……直近で、三回や。線、切れそうやった」
咲貴の足が本能で半歩引いた。火の熱とは別の冷えが背を這った。冬馬の言葉の重さが、咲貴の火の輪郭に触れてくる。輪郭が揺らぐと火は勝手に外へ出たがる。咲貴は顎に力を入れ、息を押し込み、輪郭を掴み直した。
「俺、穏やかに見えてるとしたら、我慢の仕方、上手にできてたってことやな」
冬馬は小さく息を吐き、懐へ手を差し込んだ。掌に収まる程度の黒い石を取り出すと、足元へ落とす。硬い音がひとつだけ残った。畳の上に落ちたはずなのに、音は石段へ落ちたように乾いていた。
「ここに志貴おらんから、ありやろ」
冬馬は黒い石を踏み潰した。軽い破裂音のあと、場違いなほど暢気に背伸びをはじめる。関節の鳴る音が紙の擦れる音と混じり、咲貴は胸の奥を擦られるような不快さを覚えて、火をさらに内へ収めた。
「さぁて……どっから片すかな」
準備運動みたいに身体の動きを確かめる冬馬を見て、咲貴は言葉を失った。殺気に押し負けるというより、冬馬の中にある何かがこちらの理解を先に拒む。咲貴の火は火で、冬馬の気配は別の刃で、そのどちらも同じ場に立っているのに噛み合わない拍がひとつ増えていく。
冬馬が宙へ指を動かすと、見えない場所に文字が描かれた。空間の真ん中がわずかにたわみ、そこへ手が差し込まれる。裂け目の奥から冷たい金属の匂いが流れ込み、咲貴の火の端が反射で震えた。
「……やっぱり、俺のこと、待ってたんやな」
二振りの日本刀が引き摺り出される。鞘の奥がうねり、主の匂いを探すように刃が気配を放つ。封が施されたままなのに、血の気配に喜悦したように震える刀身が冬馬を探し、触れた瞬間、その震えは嘘みたいに収まった。主を識別した獣が息を整えるようだった。
「これ、使ったらあかんって言われてる。でも……もう、ええと思わん?」
冬馬はニヤリと笑み、咲貴の方へ視線を向けた。手の中の刃が血を欲して怪しく光るように見えた。咲貴は喉の奥がささくれ、そこへ熱が遅れて滲んだ。
「殺すのが好きなわけやない。けど……止められんことが多いだけ」
その言葉が、咲貴の呼吸を止めた。冬馬の掌に宿る刃は、宗像のどの武器とも違う。火の光の中で刃の線が黒く沈み、紙の悪鬼の白がそこへ寄っていく。
「封印刀じゃないの、それ……」
「その通りや。封じ込めても、コイツは勝手に使い手を選ぶ」
異端の牙。冥府の四天王をも傷つけた、と聞かされてきた刃は禍々しく、制御が利かないために、宗像では禁忌とされていた。公介は冬馬自ら封じさせたのだとも、咲貴は聞いていた。聞いたときは遠い話だった。いま目の前にあるのは、遠さのない重みだった。
「禁忌の刃は、志貴の近くには置けんかったけどさ……。優しい冬馬の仮面は、おやすみや」
冬馬の笑い方だけが、いつものまま戻らない。咲貴の胸の奥が、火とは別にきしむように疼いた。
「近接なら、俺、一心とあんま変わらんと思うで。だから、志貴のそばに配置されてたんやから」
冬馬は笑いながら咲貴に振り向いた。口元だけが笑っていて、視線の底に別の刃が沈んでいる。
「俺、結局……刃を振り回すんが一番向いてんやと思うわ」
咲貴は何も返せない。そこにいるのは、咲貴の知っている冬馬ではなかった。他に言葉が見つからず、舌の上にひどく苦いものを残した。
「血を見ると、どうにも興奮する。だから、公介さんにはずっと槍を持たされてた。俺、槍が苦手やから、暴れずに済むやろって。……ほんと、嫌になるくらい賢いよな」
冬馬の周囲に悪鬼が集まる。狂気に惹かれるみたいに紙の身体が重なって押し寄せる。紙の腕が床を擦り、書き損じのような線を残しては消える。そのたび、火は勝手に立ち上がろうとするが、冬馬の刃の気配が先にそれを断ち切った。
「来てええよ。……俺の血、ほしいんやろ?」
次の瞬間、冬馬の姿が視界から消えた。風の抜け方とも違う。音だけが遅れて置き去りになり、刃の線だけが先に世界を割る。
閃きが走り、紙の悪鬼たちが切り裂かれた。刃は高くも低くもなく、紙の薄さを撫でるように走り、走った分だけ裂け目が増える。踏み込みは床の沈みに足を取られず、沈みを蹴って距離を奪った。咲貴は火を握りしめたまま、目で縫い留めるしかなかった。刃の線は視界の外へ抜け、残像だけが火の輪郭を固く締める。
「たかだか悪鬼相手で、こんなに楽しかったっけかぁ?」
冬馬は跳ね、滑るように敵を裂きながら、ふと遠い顔をする。その一瞬の輪郭が、咲貴に志貴の笑みを思い起こさせた。甘さに似た苦みが、咲貴の喉へ遅れて戻った。
「志貴が悲しむよ!」
「志貴を脅かすもんは、退けてしまわないとあかんやろ」
時がくれば、あの美しい火を守るために志貴のそばに戻る。咲貴はその言葉を、冬馬が言わずにいる部分ごと受け取りそうになり、慌てて指先へ力を集め直した。受け取ってしまえば、咲貴の火が、志貴の名のほうへ引かれていく感触があった。
「ここには志貴がいないから、暴れても問題ないわ」
その笑みは、どこか泣いているようでもあった。刀が閃き、悪鬼が斬り捨てられる。再生する間すら与えない太刀筋が、紙の群れを片端から裂いていく。裂けた紙は燃えずに舞い、文字の筋だけを引いて落ちた。火の終わりとは別の後味が、舌の裏にまとわりつく。
「……いらんもんは俺が片しとく」
言葉にしかけたものが、咲貴の胸の奥で軋んだ。言い切りになった瞬間、火がそれを真似てしまう気がして、咲貴は喉で折れた言葉を飲み下した。飲み下したぶんだけ胸の奥が軋み、火の端がわずかに乱れる。
「終わりや、……阿保ども」
火を断ち、理すら穿つような闇の刃が繰り出される。刀が地を踏み裂き、悪鬼をまとめて屠った。床が鳴ったのか空気が鳴ったのか判別がつかない。ただ、鳴ったのは火ではなかった。
冬馬の動きが想像以上だったのだろう。壮馬は面の下で、口の端だけをわずかに持ち上げた。
「……それでこそ。血をわけた息子だ」
咲貴は見つめているしかできなかった。戦場を駆ける冬馬の姿に、これまで見たことのない影が差している。殺すことに意味も感情もない。ただ身体だけが前へ出ていた。その無機質さに、咲貴の火が一瞬ひやりと縮む。
「……止まらない……」
咲貴の呟きを、壮馬の声がすぐに追い越した。
「これは、もう嗜虐に近い。これでは、まるで、黄泉津の悪魔だな」
言葉が耳へ入るより先に、咲貴の喉が細く鳴った。火が胸の奥でひやりと縮み、次の拍で、遅れて熱が戻ろうとして輪郭を乱す。咲貴は息を噛み、熱の立ち上がりを喉で塞いだ。
冬馬が敵を切り裂くたび、戦場の継ぎ目が捻じれていく。斬撃に合わせて空間が割れ、悪鬼が割れ、香の壁が剥がれる。宗像の境のはずなのに、縫い目がほどける気配が耳の奥へ刺さり、指先が火に引かれて震えた。
「冬馬、おかしいよ!」
咲貴が叫んだ。声は火に押される前に喉から外へ出た。けれど冬馬は止まらない。顔は穏やかなままなのに、その眼はどこか遠くを見ていた。押し込められていたものが綻び、冬馬の輪郭が、咲貴の手の届かないところへ沈んでいく気がする。胸の奥が反射で熱く跳ね、火が端へ寄りかけた。咲貴は息を噛み、内側へ押し戻した。
咲貴の胸中がざわめく。冬馬は本当に、志貴を守るために抑えていたのか。それとも、志貴の名がなければ、とっくに壊れていたのか。問いが形になる前に、壮馬が筆を引いた。頁の端が返り、闇がもう一段、厚くなる。
「……こうなってしまったのなら、もう、実験は終わりだな」
悪鬼の軍勢がさらに押し出され、古文書の頁がめくられるたび、地獄が深くなる。空間が沈み、冷えが骨へ届く。咲貴の火が温度を上げて冷えを押し返そうとするたび、紙の悪鬼は燃えずに剥がれていく。
「実験って、どこまで馬鹿にしてるの……」
咲貴の火が軋んだ音を立てて爆ぜた。怒りが火を生むのではない。火が先に怒りの形を作り、内側を押し広げる。外へ出るほど場の書式に触れて削られる気がして、咲貴は肩を落として息を噛んだ。
「君はただ焼き捨てるだけの存在」
壮馬は小さく笑んだまま、声の温度を変えなかった。
「だから、何?……志貴とは違ってあたりまえでしょ?」
咲貴の火はただ焦がす。もう戻れないものを焼き切るだけの火。胸の内で言い切った舌の裏が熱かった。熱がそのまま涙へ変わらないよう、咲貴は目尻をきつく上げ、視線を逸らさなかった。
「咲貴、君の肉体は、あまりにも志貴と違いすぎる。とてもじゃないが、志貴の火を継いだ器とは言えない」
その言葉に、咲貴の火が逆巻く。違うと言われるたび、同じ場所を刺される。志貴と違って当たり前だと自分で言ったのに、火はまっすぐではなく裂けるように痛みとして広がる。咲貴はそれを嫌い、火を束ねるように息を押し込んだ。
冬馬と咲貴が同時に動いた。ひとりは暴走する剣を、ひとりは燃え上がる火を、壮馬へ向ける。壮馬は咲貴の炎を避けた。次の瞬間、冬馬の切先が壮馬の肩を切り裂いた。乾いた裂け音が紙の擦過に紛れ、咲貴は遅れて血の匂いを追った。
壮馬が視線をゆっくり冬馬に向け、眉間に皺を寄せる。突き出される二度目の切先を身を捩ってよけた。
「いよいよ、病気だな……お前は」
「そう?……殺して、血肉まで喰らう想像まで、うまくできてるだけやけど」
壮馬と冬馬は互いに距離を詰め、刃と刃の間で息を奪い合う。咲貴の火が焦げる匂いを撒き散らし、紙の悪鬼の残骸がひらひらと宙を舞う。舞い方は軽いのに、落ちる先は地獄の沈みで、咲貴の足元をいっそう不安定にした。
「冬馬!」
咲貴の声が割れたが、冬馬は止まらない。穏やかに見える顔のまま、その眼だけが遠い。衝動が刃の形を取った。そうと皮膚が先に理解した。咲貴の火も同じ鋭さへ寄りかけ、息で輪郭を押さえ込んだ。
冬馬の刃が振り下ろされる寸前、空気の勾配が消えた。火も、刃も、香も、ひとつ息を呑むみたいに薄くなる。次に香が逆巻いた。焼けるはずの香が流れを反転し、源へ戻っていく。咲貴の皮膚の上で、結び目がほどけ、別の手で結び直されていく感触があった。火の熱が一瞬だけ引き、引いた分だけ怖くて、咲貴は息を吸い直した。
空が裂け、天の縁に深紅の線が走り、天蓋そのものが破れたかのように空間が反転する。そこに、ひとりの男が既に立っていた。
香の流れが止まり、空気が公介の足元へ吸い寄せられるように沈黙する。彼の存在だけで戦場が凍てついた。公介はただ静かに立ち、冬馬の動きを断つように目を向ける。その瞬間、冬馬の刃が目に見えない重みを負ったように感じ、咲貴は唇を噛む。
「……終わりや、冬馬」
その一言に、冬馬の動きが一瞬止まった。止まった隙間に紙の擦れる音が戻り、火の熱がまた端へ押し寄せる。
「……無理やと思うわ、公介さん」
冬馬は笑ってみせた。喉の奥で掠れた音がひっかかり、笑い切れていない。
「志貴を傷つけた阿保が目の前におるんやから、仕方ないやろ……」
「冬馬、やめや」
公介が声を落とすが、冬馬は刃を構え直した。まだ、眼の奥に燃えるような意志がある。燃えているのが意志なのか、刃のほうなのか、咲貴には判別がつかない。ただ、その燃えが咲貴の火を刺激し、火が同じように立ち上がろうとする。
「この状況で、止める必要ある? あいつ、逃したらアウトやろ」
咲貴が声を張ろうとした、その瞬間、公介の声が再度落ちる。
「宗像の朔ならば、ここで手を止めろ」
冬馬はまだ応じない。公介がひとつ、ため息をついた。次に出てきた言葉は低いのに鋭く、杭みたいに冬馬の胸へ刺さる。
「それ以上、穢れたら、志貴のそばに寄らせんぞ」
冬馬の瞳が、ぴたりと止まり、空気が凍った。公介の言葉は刃より深く、冬馬の心臓を貫いた。冬馬の足元がわずかに揺らぎ、その手から刃がするりと滑り落ちる。金属音が虚空に響き、反響だけが遅れて戻った。咲貴の火がその音に合わせて一段だけ沈み、沈んだ分だけ胸の奥が冷えた。
冬馬は呆然とした顔で、自分の両手を見つめていた。それは怒りでも恐れでもなく、止められないものが行き場を失って震えていた。その震えの質が咲貴の火の揺らぎに似ていて、咲貴は目を逸らせなかった。
「志貴の、そばに……」
冬馬の声は掠れたまま、言葉が咲貴の胸へ落ちる。咲貴はただ黙って見ていた。冬馬は咲貴の朔として止まったのではない。志貴の名によって止まったのだと、火が先にその形を取ってしまう。咲貴の火が志貴の名の影へ反射で揺れ、咲貴は指先を強く握った。
志貴がいないはずの空間に、志貴の名が影を落としている。咲貴の火も、冬馬の剣も、それを踏み越せない感触だけが皮膚に残り、胸の底へ重いものが落ちた。言葉にできない感情が疼きに似た寂しさとして残る。咲貴の火が、熱を保ったまま少しだけ輪郭を鈍らせる。灯りは落ち着かず、やせた重さを帯びて、夜の底へ引かれていった。咲貴は息を整え、輪郭を撫でるように戻した。
咲貴の表情が曇ったのは一瞬だった。冬馬は咲貴の視線に気づかない。ただ、逃げゆく壮馬の背を目で追っている。壮馬は地獄の頁をめくりながら、音もなく距離を取り、闇の端へ滲むように退き、輪郭を失っていく。退いた先には紙の悪鬼がまだ残っているのに、壮馬の背の古文書だけが次の頁を待つように静かだった。
戦場は再び静寂に包まれた。残るのは香の煤と、咲貴の火だけだった。ゆらぎに、ひとしずく涙が溶ける。灯りはわずかに霞み、熱を抱えたまま、夜の底へ落ちていった。
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