第42話 やみのほどに あかし火ゆらぐ(前編)


 山の気配が変わるところで、夜は一段、重さを増していた。


 白木の匂いが湿り気を帯び、御座の間の畳が、誰もいないのに一度だけ沈む。その沈みが戻りきる前に、八つの雷が降り立った。


「……ここが、“志貴さまの座”だったのねぇ」


 そう呟いたのは、金の瞳をした最も小柄な八雷だった。声には、どこか懐かしさが混じっている。


 咲貴は、まだ肩の内側に硬さを残したまま茶を注いだ。器は素焼きで、形も揃っていない。けれど、それを差し出す手元だけは揺らさず、堂々としていた。


「簡素でごめんなさい。でも、宗像では“迎える火”に、飾りはいらないって教わったところなの……」


 八雷たちは一斉に湯呑へ顔を寄せ、くんくんと香りを嗅いだ。座り方もまちまちだった。正座のまま背筋を伸ばす者がいれば、畳へ寝転がって湯呑を掲げる者もいる。畳の上に小さな体温が点々と散り、場の気配だけが賑やかに膨らんでいった。


 公介が静かに微笑み、その横で冬馬が苦笑していた。


「ずいぶん、にぎやかだな……夜の眷属っていうのは、もっと厳かだと思ってたけど」


 冬馬の呟きに、八雷の一人がくるりと振り返った。


「ほんとは厳かにしないといけない。でも、一心が“無理しなくていい”って言ってくれて」


「だから、今は好きにしていいってことにしてるの!」


 言い終えるより早く、別の声が跳ねて同じ調子を引き取った。


「だいたい、正装ってかゆいし、かたいし、熱がこもるし……あんまり合わないんだよねー!」


「ところで……あの、お名前は?」


 咲貴が問うと、八雷は我先にと名乗りを上げた。声が重なり、湯気の向こうで小さな舌が転がる。


「大雷!」


 いちばん先に張り上げた声へ、すぐ別の声がかぶさる。


「火雷だよ」


「黒雷っ」


 畳を擦る音がして、湯気の向こうで小さな肩が跳ねた。


「析雷よ」


「若雷っすよ」


 言い終える前に、また次が追い越してくる。


「土雷です」


「鳴雷なの」


「伏雷だぜ!」


 咲貴が面食らうのを見かねた時生が、菓子皿を静かに差し出した。皿の縁に指が触れる音さえ控えめで、所作だけが端正に滑っていく。


「これ、桃の果肉と薄蜜を煮詰めて、葛で冷やし固めたものなんだけど、いかが? お口にあうかわからないけど、志貴のお気に入りだったお菓子なんだ」


「……なんじゃこりゃっ!」


 声が落ちた瞬間、八雷たちはいっせいに動きを止めた。湯呑を握る指も、息の拍も揃う。


「……この匂い!」


「“夜の花”の香り!」


 皿に添えられたそれは、薄桃色の光を溶かしたような透明な輪郭をしていた。指先で触れれば、かすかにぷるりと揺れる。葛のなかに閉じ込められた桃の果肉が、宵の霞のように香を含ませ、湯気とは別の、やわらかな気配を立ち上らせている。


「ああ……これ、志貴さまの匂い!」


「……志貴さまの火を宿した物には、勝手に香が反応するの。だって、私たち、“名で結ばれてる”から」


「ねぇ、食べていいの? 本当に?」


 舌に乗せれば、蜜のやわらかな甘さがほどけ、最後にほんの少し、花の芯のような苦味が残った。志貴の香に似ている。味そのものよりも、消え際の余韻が長く留まる。


「すごい、すごい、これは……これは……」


 言葉が途切れた次の瞬間、全員が一斉に騒ぎ出した。


「味がちがう! 一心はこんなの作れないよ!」


「ひどいっ! 一心に怒られるぅ!」


「だってさ、一心のお菓子の千倍はうまいじゃんっ」


 咲貴の口元から息が洩れ、堪えきれず笑いがこぼれた。


「そんなに美味しいの? それ」


 八雷たちはいっせいに頷き、しばし視線を交わしたあと、ひとりがぽつりと口にした。


「だってこれは、志貴さまのためにあるお菓子なんだもん」


「あなたは、一心から材料と作り方を指定されたはずだ。そうだよね?」


 時生が驚いたように目を見開き、すぐに頷く。


「一心は、ダメなものをはじいちゃうからねぇ」


「芯の髄から身体が癒えるようにする。……こっちが、げっそりするくらい細かいんだよ」


 公介がへえ、と相槌を打ちながら頬杖をついた。志貴は偏食で、食事を摂らせるのに苦労した記憶ばかりが残っている。一心が差し出す物なら拒まなかったことも、同時に思い出された。


「いよいよ、恐ろしいな……一心は」


 首筋にひやりとしたものが触れた気がして、公介がぼやく。一心が敵に回らないでいること自体が、すでに幸運なのだと悟るように。


「一心にとっちゃ、いつも通りだよ」


「それより、ねぇ……咲貴ちゃんは、私たちが嫌じゃないの?」


 八雷は菓子を頬張りながら、揃って咲貴を見る。


「咲貴ちゃんの火、ちょっと怖いけど、落ち着く」


「わかる。掃滅の香りなんだよねぇ」


 言い合う声の中で、ひとりが少しだけ調子を落とした。


「志貴さまの火は、夜に輪を描くみたいに広がる。月夜の赦環って呼ばれてるやつ」


 言い終えた声が湯気の中でほどけ、次の拍で、視線だけが咲貴へ寄った。


「咲貴のは、泣くみたいに落ちてくる。夜哭の殲滅……触れたら、ちゃんと焼ける」


 咲貴は息を詰めた。志貴と自分の火は、やはり違う。その差異を、八雷は迷いなく受け取っている。


「志貴さまが帰ってくるまでは、咲貴ちゃんのそばにいても、いいでしょ?」


 八雷の一人が笑みを含ませると、その声が湯気の上で転がり、ほかの気配までつられてほどけた。


 そのとき、ふと志貴の名が時生の口から零れた。


「志貴って、いま、どこに」


 時生の舌がそこまで動いたところで言葉が引っかかり、吸いかけた息だけが一拍ぶん、喉の奥へ戻った。


「あっ!」


「だめって言われてるやつ!」


「答えたら、怒られる!」


 八雷は一斉に口を両手で押さえた。


「一心が、“志貴さまのことは言っちゃダメ”って」


「コテンパンにするって……!」


「“眠ってる火の名を乱すと、神籬の自分も焦げる”から、よせって」


 冬馬は言葉を受け取るまでに一拍置き、目を見開いた。


「神籬?……番じゃなくて?」


「うん。一心は神籬なんだよ。それで、わたしたちは……炎を預かる器」


「神籬って、依代だろ?」


 公介の問いに、八雷は一斉に首を振った。


「ううん、依代じゃない。“居ても良いって思える場所”って、一心が言ってた」


 冬馬は腕を組んだまま、視線だけを畳へ落とした。


「俺にはやっぱりよくわからん……番じゃダメなのか?」


「“居ても良いと思える場所”ってのは、ただの依代じゃ済まないな。でも、王の火ごと、そのものを誰か一人が抱え込むなんて、普通の理じゃ説明できんだろ」


 公介は頬杖の指を少しずらし、首だけをわずかに傾けた。


「普通の理?……一心や志貴さまが?」


 八雷の笑い声が、示し合わせたように同じ高さで重なった。


「お二人はお二人だよ。理だって、別仕様に決まってる」


「志貴さまが泣きそうなとき、一心のそばにいると大丈夫になる。それが、お二人の赦しの香だよ」


 言葉は軽いのに、咲貴の胸の奥だけが遅れて痛んだ。赦しの香、と呼ばれたものが、いまの自分にはまだ遠い。唇の裏に残る甘さのほうが先に確かで、その甘さがふいに重くなる。


「志貴さまの火は一心しか触れないし、触ろうとしたら消されちゃう。咲貴ちゃんのは、触れたら焼けるけど、あったかい」


「うん。志貴さまの香とも違う。でも、咲貴も“志貴さまが大事にしてたもの”だから、私たちも守りたい」


 八雷の言葉は、衣の上からそっと触れられるように、咲貴の胸へ届いた。


 咲貴は湯呑を持ち上げ、静かに息を整える。


「……志貴みたいにはなれないけど、志貴がいない間くらいは、私がやってみるよ」


 八雷は満面の笑みで頷いた。その笑顔は、湯気の向こうでいっとき留まり、それから、志貴が残した火のほうへそっと寄った。


***


 八雷の気配がまだ畳に残る夜、空気が静かに揺れた。


 御座の間の外、白木の回廊をなぞるように、音が落ちてくる。風に似た入り方をしながら風ではなく、香のようにまとわりつきながら香でもない。咲貴の耳の奥で、硬いものが一度だけ擦れ、次に来る拍のために場の輪郭が薄く締まった。


「……あれ」


 伏雷が顔を上げた小さな声に応じるように、空気がわずかに重さを増し、香の層が一段だけ冷える。


「くるよ」


 言葉は短いのに、前触れのほうが長く残った。次の瞬間、回廊の闇が裂け、白く濁った肢体が滑り出る。異形の腕が床を擦り、紅い眼がこちらを向いたのを見た途端、咲貴の喉が詰まった。


「悪鬼!」


 冬馬の叫びと同時に影が跳ねた。咲貴の香が反応し、火が皮膚の内側で疼き、指先まで熱が走ろうとする。その熱が表へ滲む前に、冬馬が一歩、咲貴の前へ出る。


「退がれ、咲貴!」


 左腕の封符が剥がされ、槍が引き抜かれた。蛇刃鉤矛の刃が円を描き、香を裂いて、切先が闇を割る。けれど、刃は滑った。悪鬼の動きが妙に揃い、冬馬だけへ寄っていく。咲貴は踏み出しかけた足を止め、目で追うことしかできない。


 爪が冬馬の頬を掠め、赤が散った。その赤が夜気に吸われるのを見た瞬間、咲貴の内側の火が跳ねる。火雷が弾かれたように動いたのは、その跳ねに引かれたからだった。


「間に合え」


 爆ぜるような音とともに雷が走り、火雷の香が咲貴の火の縁へ触れて、悪鬼の動きを一拍だけ止めた。だが、その止まり方は縫い留めではなく、躓きに近い。止まった拍の奥で、別の気配が静かに上がってくるのがわかった。


「……やはり、足りないな」


 声が落ちてきた。空間の奥から、というより、場そのものがその声を選んで落としたような響きだった。


 悪鬼の背後、闇の継ぎ目から人影が現れる。黒衣、結い上げた髪。


 その名が、呼ばれたのではなく、咲貴の舌の裏でほどけた。合わない重さだけが先に落ち、白木の匂いが急に遠のく。


 香の流れが止まり、背の火が押し戻される。胸の奥がきしみ、息が浅くなる。輪郭を掴む前に、名だけが胸の底へ沈んだ。忘れたはずの音が、いまの場に合わない重さで。


 一歩踏み出しただけで、場が彼に合わせて組み替わった。視線は冬馬に据えられ、咲貴のほうを見ていないはずなのに、肩甲骨のあたりが冷えた指で押さえられたみたいに詰まった。息を深くしようとすると、胸の奥が軋む。


「時生がいると思ったが。まさか、お前が朔とはな」


 平坦な声音だった。次に落ちた言葉は、その平坦さのまま刃の形を取る。


「血肉は悪くない。だが役不足だ。息子くん」


 掌が上がる。冬馬の背後に封の文字が浮かび、床から墨を流したような黒の帯が這い出して脚へ絡みついた。香ごと魂を縛る封術。冬馬が咄嗟に刃を振るったが、身体が崩れ、膝が落ちる。倒れる音が出る前に、場の香が先に沈んだ。


「冬馬っ……」


 名が喉の奥で引っかかったまま、声になりきらない。次の拍で、火だけが先に立ち上がろうとした。


 壮馬の口元がわずかにほどけた。笑みの温度だけがなく、畳の目が冷えたように見える。


「志貴の片割れ。いや、スペアか」


 言葉が咲貴の胸の奥へまっすぐ落ちる。怒りより先に、冷えた痛みが走った。


「その器に、冥府も執心している」


 冬馬が顔を上げる。血が薄く滲む口元のまま、声が荒れた。


「お前、冥府と組んだんか」


「向こうは誰でもいい。志貴が崩れれば、それでいい」


 淡々とした調子で、壮馬は続ける。


「志貴に触れられなかった連中が、爪を研いでいる。……都合がいいな」


 咲貴は息を呑んだ。背に触れてくる八雷の香が咲貴の拍を整えようとしているのがわかるのに、胸の内側の火だけが落ち着かない。


「護りの盾がこの程度なら、魂の奥まで容易い」


 朔の音だけが残った。咲貴の指が拳を結ぶより先に、熱が指先へ寄る。言葉の前へ火が出かけたところを、八雷の香が縁から撫でて押し戻した。


「だったら、やってみなよ」


 血が滲み、蒼白い炎が絡み、火が火として立ち上がろうとする。咲貴の火は誰にも寄り添わない。ただ、炎としてそこに在る。その在り方が、いまは恐ろしく、同時に頼もしい。


「志貴さまの火を守るのが、わたしたちの役目」


 八雷の声が、咲貴の背に添った。


「だから、咲貴ちゃんを守る」


 その温度の直後に、壮馬が言った。


「身体は傷つけるな。魂はどうでもいい」


 咲貴の香が大きく揺れ、火が一段だけ高くなる。生まれて初めて、言葉より先に火が反応した。


「志貴の名を呼びながら終わる。それがお前の役目だ」


 火雷の声が小さく混じった。


「のせられちゃ、いけない」


 鳴雷が首元へまとわりつき、熱を均す。八雷の香は甘くない。冷えた夜の中で、咲貴の火を外へ出しすぎないための手つきだけがある。


 壮馬が咲貴を見た。そこに初めて視線が乗った気がして、咲貴は息を止めずに受けた。


「志貴の香に似ている」


 その言葉が耳へ入った途端、火の輪郭がきしむ。似ている、と言われたことよりも、次に何が落ちてくるかを身体が先に待った。


「だが、違いが出てきた」


 そこで一拍、言葉が途切れ、咲貴の目が紅玉へ吸われかけた。


 壮馬の指先で転がされるそれは、熱を失った名のように見えた。


「どうやって奪ったか、知りたいか」


「やめろ!」


 冬馬の声が割れた。その声で咲貴の視線が外れ、咲貴は壮馬を見返す。


「知る必要はない」


 声は震えなかった。震えるとすれば火の方だ。だから言葉を整える。


「志貴が要らないなら、私も要らない」


 壮馬の口元がゆるむのが見えた。笑みは軽いのに、場の温度だけがすっと落ちる。


「王玉なき王は、化け物になる」


「咲貴はならへん」


 冬馬が低く言い切った。壮馬はわずかに目を細める。その一拍の間に、悪鬼がまた動き出した。


「なら、見せてみろ」


 掌が上がり、封の文字が浮く。床の黒が、声の余韻を踏みつぶすように動き出した。


 場の香が乱れ、薄墨の声が御座の間を撫でる。名もつかない冷えが、言葉の形を取らないまま滑り込み、咲貴の火の輪郭だけを削ろうとしてくる。


「宗像の変質に、皆が気づく頃だ」


 壮馬の声が続く。闇に溶けながら、言葉だけを残す。


「志貴を失ったあと、何が残るか」


 咲貴の背で、八雷の香がわずかに強まる。守る、というより、落ちるべき拍を落ちないように支えてくる。


「志貴の火が戻ったとき、君の火が君のままでいられるか」


 その言葉が残り、壮馬の気配が消える。だが、場の輪郭は戻らない。悪鬼の紅い眼だけが、まだこちらを見ている。

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