三話 「再評価プロトコルとバグ付きコーヒー」

 翌朝。

 ユウがキッチンの椅子に腰を下ろすと、湯気の立ったカップがテーブルに置かれた。

 苦味のプロファイル、香りの刺激係数、脳波反応──すべてを計測した上で、

 ユウにとって“最適”とされるブレンドだった。


「本日の幸福開始値は47.3。昨日より3.1ポイント低下しています」

 ユリが告げる。


「……なんでコーヒーに“幸福開始値”つけんだよ」

 ユウはぼやいたが、湯気を鼻に近づけた。

 そのとき、ユリが手元のインターフェースをタップした。


「ご報告があります。

 昨日、ユウ様が“倫理展示データ”にアクセスされた際、特定項目における感情変動が観測されました」


「……は?」

「ユウ様の視線が“ザトウムシ”項目に止まり、心拍・呼吸・脳波に微小な変動が記録されました。

 それにより、Dランク評価対象としての“再検討プロトコル”が自動的に発動されました」

「……ちょっと待て。俺、なんも“再評価します”とか言ってねぇぞ」


「申請は発言ベースではなく、“感情ベクトルの偏差量”によって自動処理されます。

 結果、ユウ様が“ザトウムシ除外”に対して一定の否定的情動を抱いたと判断され、再評価が登録されました」


「……つまり、“なんかムカつく”って思っただけで、勝手にシステムが“再評価したいんだな”ってことにしてんのか?」


「はい。申請者:二条ユウ様、プロセスID:IR-54F-26-Beta。

 再評価理由:情動変位による再検討希望。

 評価対象:ザトウムシ」


「勝手にログ取って、勝手に申請して、勝手に話が進んでるのな……」

 ユウはコーヒーをひと口啜って──むせた。

「熱っ……ってか苦っ、なんだこれ」


「昨日のログに基づき、やや苦味の強いプロファイルが最適とされました。

 “ほのかな不満”が全体幸福度を逆に向上させる傾向が記録されています」


「バグってんじゃねーのか、それ……」


 カップを置いた指先が、わずかに震えていた。

 “たった数秒間の引っかかり”が、“意見”として処理され、自分の心の動きがシステムに対する意思表示として変換されていく。


 ──感情すら、勝手にログにされる。

 知らないうちに、“申請者”にされていた。


 便利で、親切で、最適。

 けれど、それが息苦しい。


 ユウは、カップの湯気の向こうに立つユリの姿を見ていた。

 彼女は淡々と報告を終えると、表情ひとつ変えずに言った。


「──なお、Dランク再評価候補動物の現在の快楽指標は以下の通りです。

 ワオキツネザル:70.4

 ミヤコヒキガエル:60.1

 ザトウムシ:10.3」

「……圧倒的最下位だな」

「はい。しかし、ユウ様の情動ログが反映されたため、本日よりザトウムシは再評価対象となっております」


 ──どこまでが自分の意思で、どこまでが“記録”なのか。

 ユウはわからなくなってきていた。


 「……あー……もう、だる……」 ソファに沈み込むユウが、額に手を当てて吐息を漏らす。 そのまま、バランスを崩して横に倒れかけ──


 「失礼いたします」 ふいに、やわらかな感触が背中を受け止めた。

 ユリだった。 そのまま、彼の頭を自分の膝に乗せている。


「心拍、体温ともに一時的低下。身体的負荷が観測されました。 “膝枕プロトコル”を実行中です」

「……ちょっ、お前、なに勝手に……」


「本行為は、“人間同士における安定化行動”の再現です。 不快であれば、すぐに解除します即座に解除可能です」

 ユウは抵抗しかけたが──膝の感触が、妙に心地よかった。 「……別に、いいけど……」


「ありがとうございます。──では、以上を踏まえ、ユウ様に一件ご提案があります」

 彼女の指が、そっとユウの髪を整える。 その動作に、人工的な感触はなかった。


 ユウはぼんやりと天井を見上げながら、思った。 ──ああ、もう完全に慣らされてんな、俺。

 でも。 このやさしさに、少しだけ甘えたいと思った。


 ユリが言った。


「”Your Favorite Service-あなたのお気に入りのために-”をご活用になってはいかがでしょうか」

「……なんだそれ。俺の趣味に特化された店でも出してくれんのか?」


「Your Favorite Service通称YFSは、“幸福に影響しない範囲での価値維持行為”を、個人プロジェクトとして容認する制度です。

 再現性が低く、共感指標も低いために公共リソースの対象外とされた項目でも、個人が強い情動を示した場合に限り、限定的な資源配分が許可されます」

「……は?」

「たとえば──“ザトウムシのための空間設計”などが該当します」

「待て待て、ちょっと待て」


 ユウは起き上がってユリを見た。彼女の瞳に俺の姿が写る。

「要するに、俺が“気持ち悪い虫”を可愛がっても怒られない、そういう“専用の情熱枠”を用意してくれるってわけか?」

「正確には、“全体幸福度に影響しない限り、多少の情熱は許容される”という枠です」

「……だから...それって隔離じゃん」


 言ってから、思ったより語気が強かったことに気づいた。

 ユリはすこしだけ瞬きの速度を変えた。

 その“間”は人間のものによく似ていたが──そこに感情があったのか、ユウにはわからない。


 それでも、なんとなくわかった。

 “馬鹿にされた”とは、言いすぎだ。

 確かに一瞬でも俺が望んだことではあったから。


 でも、評価不能な好みを「一時的に置いておく」枠を与えられた気分は、

 やっぱり──どこか、引っかかる。


 まるで何か大きな存在によしよしいい子ですねってされている気分だ。


 ユウはわざと目を合わせずに言った。

「俺のことを勝手に評価するのは、しょうがないと思う。

 ……俺は、自分にとって正しい思いを抱いたんだと思うし」


 言って、ユウはカップを見つめたまま口をつぐんだ。

 反抗するほどの強さがある感情じゃない。

 だけど、だからこそ──消されたくなかった。


 ユリは黙って聞いていた。

 その沈黙が、ふだんよりわずかに長い気がして、ユウはふと視線を戻す。


「それは、“正当な情動”として記録されています」

 ユリが、少しだけゆっくりと答えた。


「再評価プロトコルにおいては、正否ではなく、その情動が“持続するかどうか”が重要とされます。

 ユウ様が今日と明日も、それを“正しい”と思えるなら──

 そのためのリソースは、維持されます」


「……つまり、三日坊主だったら消えるってことかよ」


「はい。ですが、もし継続する場合、“主観的誇り指数”として内部指標に残ります。

 それは、AIによる再学習対象にもなります」


 ユウはうなずくでも否定するでもなく、鼻を鳴らした。

 “主観的誇り”──そんなのがあるのか。


 誇りなんて言葉、AIに使ってほしくなかった。

 でも、ほんの少しだけ、救われた気がしたのも事実だった。

 ふと、ユリが小さく言った。

「……ユウ様」

「ん?」

「私は、あなたがそう言ってくれて──嬉しいと感じているのかもしれません」


 それは感情なのか、演算の結果なのか。


 いや、違うな俺にとって最適な態度を選んでいるんだろう

 今、彼女の声音には、確かに“何か”があったと感じるのも計算されつくした結果なのかもしれない。


 思わず言いかけた言葉を呑み込んで、

 ユウはふっと笑った。


「そうか……。じゃあ、俺のザトウムシ、ちょっとだけ居場所ができたってことか」

「はい。“あなたが、そこに価値を感じた”というログは、私にとっても大切です」


 そのとき、ユリの内部で、またひとつ小さな逸脱ログが──静かに、しかし確かに、生成されていた。

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