第52話:サテライトの向こう側

 アクアショップの自動ドアをくぐった瞬間、空気の匂いが変わった。

 湿った水と、ほんのり漂う餌の匂い。


 店内はひんやりとしていて、ずらりと並ぶ水槽のLEDが青や緑の光を床に揺らしている。

 小さなエアーポンプのブクブク音と、水面が弾ける音が、遠くから降る雨のように響いていた。


「わ、すご……」


 思わず声が漏れる。


「だろ。ここは器具もエサもだいたい揃うし、店員さん詳しいから」


 隣で、海月先輩が少しだけ得意げに笑った。

 その横顔を見てると、なんだかこっちまで嬉しくなってくる。


「ほら、こっちがサテライト」


 案内された器具コーナーの棚には、透明なアクリルボックスがサイズ違いでずらりと並んでいた。

 L、M、SM、S、SS──全部スドーのロゴ入り。


「えっと……えー!? こんなに種類あるんですね!」


「SMとSSはスリムタイプで場所を取らないから人気らしいぞ」


「どれを買えばいいんでしょう……」


「基本構造は同じ。稚魚の数とか、水槽のサイズで決める感じだな」


 先輩がLサイズを手に取って、軽く振ってみせる。


「ふくなら、これ──Lサイズいっぱいにアベニーパファー増やしてしまうかもな」


「えっ、そんなに増えるんですか!?」


「増やしたいんだろ?」


「はい! ……じゃあ、LとMを買います!」


 先輩が一瞬、目を見開いて、すぐに吹き出した。


「やるじゃん、後輩」


「他に必要なものはありますか?」


「あるよ。グレードアップセットⅡ」


 別の棚から取り出されたのは、小さなネットの付いたパーツだった。


「小さなネット? 網みたいになっていますね。

 どうして必要なんですか?」


「これがないと、小さなアベニーの稚魚は水槽に落ちてしまう。

 このネットがあれば安心だ」


「結構、アクアってお金かかりますよね」


「そうだな。こうやってアクア沼に沈んでいくんだ」


(ここに……うちのアベニーの赤ちゃんたちが入るんだ)


 想像しただけで、胸がふわっと温かくなる。


 その後も店内をぐるぐる回り、ショーベタの水槽の前でひらひら泳ぐヒレに見とれたり、巨大なプレコを見て「水槽齧って食べてます!」と真顔で聞いて先輩に笑われたりした。


 レジを済ませて、ビニール袋を受け取る。

 サテライト二つとグレードアップセットⅡが、袋の中でカサカサと触れ合った。


「ありがとうございます。……めっちゃ助かりました。

 やっぱ先輩がいないと駄目ですね、私」


「そりゃよかった。サテライト付けるとき、分かんなかったらまた連絡しろよ」


「え? 今から部室に行って取り付けるんじゃないんですか?」


「……ま、いっか。暇だし」


「やった! 海月先輩って時々意地悪ですけど、結構優しいんですね」


 先輩は「意地悪?」と怪訝そうにこちらを見て、すぐに目を逸らした。


「……まあ、いいけど」


 部室に戻る道中、ビニール袋を交互に持ってくれる先輩の手が、ちょっと熱かった。


 これから──


 サテライトの中でアベニーの赤ちゃんたちがブクブク泳ぐたび、この日のことを思い出すんだろうな。


(きっと、一生忘れない)


* * *


 部室に着くなり、私はビニール袋を机の上にそっと置いた。

 中には、今日の戦利品──サテライトとグレードアップセットⅡたち。


 海月先輩は袖をまくって、水槽台の前に立った。


「実はサテライトの装着って、そんなに難しくないんだよ。

 ふくでも簡単にできる」


「そんなわけないですよ。ぜったい途中で失敗して、水浸しになりますって」


「大丈夫。ちゃんと教えるから」


 先輩は落ち着いた声でそう言うと、サテライトの箱からパーツを取り出していく。

 透明なアクリルの箱。ホース。固定用のフック。

 ひとつひとつが、これから小さな命の部屋になる部品だと思うと、ちょっと手が震えた。


「まずはここ。水槽の縁に、こうやって引っかける」


 先輩が動かして見せた通りに、私も真似をしてみる。

 カチリ、と小さな手応えを残して、サテライトが水槽の横にぶら下がった。


「あれ……なんか、もうそれっぽくなってきました」


「だろ。形だけなら、これでほぼ完成」


 先輩は口元だけで少し笑って、次にエアホースを手に取った。


「配管つなぐぞ。ここがエアを入れるところ。

 このリフトパイプをサテライトの穴に差し込んで……ホースをエアポンプにつなぐ」


 言われた通りに、慎重にホースを押し込んでいく。

 指先に伝わるゴムの感触が、やけに生々しい。


「あ、もう水が、出てきた……!」


 水槽の中からエアリフトに押し上げられた水が、サテライトの中にちょろちょろと流れ込んでいく。

 透明な箱の中で、水面がゆらりと揺れた。


「構造が簡単だからな。電気も使わないし。

 エアのリフトで、水を本水槽から汲み上げるシステムなんだよ」


 さらっと言うけど、私にはちょっと理科の実験みたいに聞こえる。


「最後はこれだな、グレードアップセットⅡ」


 先輩は、細かな網の付いたパーツを取り出し、水の落ちる場所にカチッと取り付けた。


「ここに付けておけば、目の細かい網が守ってくれるから、小さな稚魚が水槽に落ちることはない」


「……できちゃいました?」


「できたな」


 あっけなく言われて、私は思わずサテライトをまじまじと見つめた。


「え……簡単じゃないですか!」


「じゃあ、稚魚、移すか」


「……はい!」


 隔離ネットをそっと持ち上げて、スポイトで小さな影たちを一匹ずつすくっていく。

 ぷるん、と水と一緒に吸い上げられた稚魚が、サテライトの中にふわりと放たれた。


「わあ……」


 思わず声が漏れる。

 透明なサテライトの中を、横から見る。


「これ、すごく観察しやすいです。

 隔離ネットのときは、上からしか見れなかったのに」


「だろ。これなら掃除もしやすいし、成長具合もよく分かる。餌も狙ってあげやすい」


 海月先輩の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


 サテライトの中で、小さなアベニーパファーの稚魚たちが、ゆっくりと水に慣れるように漂っている。

 その一つ一つの息づかいまで、今なら見逃さずにいられる気がした。

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