第51話:昨日は凛先輩、今日は海月先輩。

「その男の子……誰?」


 お母さんの目が、すぅっと細められた。

 笑顔なんだけど、目が笑っていない。いわゆる“尋問モード”の顔だ。


 それもそのはず。

 昨夜「女友達(凛先輩)の家に泊まる」と言って出かけた娘が、翌朝、見知らぬイケメン(自分で言うのも癪だけど)を連れて帰ってきたのだ。


 状況だけ見れば、もう完全にアウトだ。


「ち、ちがっ! 違うの、お母さん! 変な勘違いしないで!」


 私は慌てて両手をぶんぶん振り回す。

 背後の海月先輩も、さすがに気まずそうに居住まいを正した。


「あ、あの……初めまして。同じ部活の海月透也(うみつき とおや)です」


 先輩が丁寧に頭を下げる。

 その落ち着いた所作と、整った顔立ち。

 お母さんの視線が、先輩のつま先から頭のてっぺんまでを、値踏みするようにじっくりと往復する。


「海月くん……? ああ、あなたが」


 お母さんがポンと手を打った。


「彩花が言ってた、“デートじゃない”って言い張るデート相手の?」


「お母さぁぁぁぁんっ!!」


 私は玄関で絶叫した。

 近所迷惑とかもうどうでもいい。この親は、どうしてこうも娘の神経を逆撫でするのが上手いのか。


「違うってば! 海月先輩は部長さん!

 凛先輩の家から一回学校に寄ったら、たまたま会ったの!

 アクアショップに行くから、着替えに戻っただけなの!」


 一息でまくし立てると、酸欠でクラクラした。


「凛さんっていうのは、前にうちに来た、あの髪の長いフードの女の子よね?」


「そうそう! あの人が凛先輩。昨日は凛先輩の家に泊まったの!」


 それでも、お母さんは簡単にはうなずかない。


「じゃあ、どうして家に帰らずに学校に行ったりしたの?」


「それは、アベニーパファーの稚魚の世話があって部室に寄ったら、たまたま先輩がいたの。

 本当に偶然なのっ!!」


「はいはい、わかったわよ。そんなにムキにならなくても」


 お母さんはクスクス笑うと、ドアを大きく開けた。


「立ち話もなんだから、入って。彩花も着替えてくるんでしょ?」


「う、うん……。先輩、ごめんなさい。ちょっとだけ待ってて」


「さあ海月くん、入って待ってて。パンとお茶出すからね」


「はい。お邪魔します」


 海月先輩は苦笑しながら、私の家の敷居をまたいだ。


 * * *


 私が大急ぎで二階へ着替えに行っている間、リビングには奇妙な沈黙が流れている気がして、胸がざわざわして落ち着かなかった


(変なこと言わないでよ、お母さん……!)


白いブラウスに、淡いベージュのカーディガン。

デニムのスカートを履いて、鏡の前で髪を整える。


(……これで、いいかな)


少しだけリップを塗って――いや、やっぱり濃すぎる。

ティッシュで軽く押さえる。


(何やってるんだろ、私……)


階下からは、お母さんと海月先輩の会話が微かに聞こえてくる。

――何を話してるんだろう。


気になって、そっと階段を降りていく。


「お待たせしまし――」


 テーブルに座る海月先輩の前に、焼きたてのパンとコーヒーが置かれている。

そしてお母さんが、向かいの席でニコニコと先輩に話しかけていた。


「うちの娘、たまに暴走するから。ちゃんと止めてあげてね」


「……気をつけます。

 すでに何度か、止める側になってますけど」


「ちょっとお母さん! いないとこで娘の株を下げないで!」


 私が割って入ると、二人が同時に笑った。


 その笑い声を聞いて、ようやく――

 お母さんの誤解は、ちゃんとほどけたんだと実感する。


 海月先輩の手には、半分かじったクロワッサンがあった。

 その表情が、学校で見せる気だるげな顔とも、部室で見せた寂しそうな顔とも違って――どこか、ほっとしているように見えた。


「パンの匂いがする家って、いいですね。なんか……落ち着きます」


 先輩がしみじみと呟く。

 その言葉に、お母さんは嬉しそうに目を細めた。


「気に入ってくれたなら、いつでもいらっしゃい。彩花が部活でお世話になってるんだもの。ロスパンでよければ、遠慮なく。パンなら腐るほどあるから」


「……ありがとうございます。本当に、美味しいです」


 先輩がもう一口、パンを頬張る。

 バターの香りが漂うリビングで、先輩の肩の力が抜けていくのが分かった。


(そっか……先輩の家、居心地悪いって言ってたもんね)


 私なんかのうちでも、先輩には温かく感じるのだろうか。


「さ、彩花。海月くんを待たせちゃダメよ。いってらっしゃい」


「うん。……お待たせしました先輩」


「いや、ごちそうさま。……本当にご迷惑をおかけしました」


 先輩が立ち上がり、お母さんに礼を言う。


「誤解だったんだから気にしないで、またいつでもいらっしゃい。今度はちゃんとしたご飯を用意しておくわね」


「はい、また来ます」

 ――その一言が、私の胸にじんわりと染み込んだ。


「行ってきます!」


 私たちは、パンの香りを背中に、家を出た。


 * * *


 バス停までの道を歩きながら、私はチラリと隣の先輩を見た。


「……うちのお母さん、変なこと言ってませんでした?」


「別に。いいお母さんじゃないか」


 先輩は、空を見上げながらぽつりと言った。


「明るくて、世話焼きで。ふくが誰に似たのか、よく分かったよ」


「えっ……それ、褒めてます?」


「さあな」


 そんな会話をしながら、バス停へ向かう。

 お母さんの勘違いは解けたし、先輩もなんだか機嫌が良さそうだ。


 それに――。


『はい、また来ます。』


 先輩のあの言葉が、嬉しかった。

 私の居場所が、先輩にとっても“安らげる場所”になれたなら。

 それは、アベニーパファーの小さな命が育つ瞬間と同じくらい、胸が温かくなることだった。


制服じゃない服で歩くのは、なんだか特別な気分だった。

海月先輩との、二人きりの時間。


(……先輩と私って、結構相性いいのかな?)


そう思った瞬間、また顔が熱くなる。


バスが来るまでの数分間、私たちは他愛もない話をしながら、春の陽射しの中で並んで立っていた。


その何気ない時間が――

なぜか、とても大切で、これからも続いてほしいと思った。


遠くから低いエンジン音が近づいてくる。

道路に長い影が伸び、バスの車体がゆっくりと姿を現した。


並んで立つ私と先輩の肩が、ほんの少し触れそうになる。

その距離の近さに、胸があたたかくなるのを感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る