第45話:凛先輩の家とアベニー講義

 「……ごめん」


 ぽつり、と落ちたその一言に、鼓膜がびくっと震えた。


 凛先輩の口から出たのは、まさかの謝罪だった。


「えっ!? どういうことですか……?」


 意味がわからなくて、思わず声が裏返る。


「俺はふくに言った。失敗しろって。何度も」


 いつもの低く落ち着いた声。

 なのに、その奥に、かすかな震えが混じっていた。


「でも、それは間違いだ。

 生まれてきた命を、失敗で消してほしくない」


 胸の奥を、きゅっと掴まれたみたいだった。


「ただ、俺が教えたら済む話なのに」


 ――失敗で命を失わせたくない。

 無事に育ってほしい。


 その願いは、私だけのものじゃなかった。

 凛先輩も、同じ気持ちでいてくれたのだと、今、初めて知る。


「だから」


 凛先輩は続けた。

 表情は、いつもの無表情のまま。

 それでも、声だけが真剣に揺れていた。


「だから……ふくに、ちゃんと教えたいと思って。

 ……駄目かな?」


「っ……」


 胸の奥が、熱くなる。

 こんなふうに、自分からアドバイスを言い出してくれるなんて、初めてだ。


「全然、全然! 駄目じゃないです。むしろ嬉しいです。

 お願いしたいくらいです」


 慌ててまくし立てたあとで、ふと我に返る。


「でも、私んち、今日ベーカリー休みなんですよね……」


 ぽつりと呟くと、凛先輩は少しだけ視線を伏せ、

 そして――静かな声で言った。


「……じゃあ、うちでいいなら、来る?

 誰もいないし」


 あまりにもさりげなく、そんなふうに誘われてしまった。


 * * *


 玄関の鍵は、すでに開いていた。

 重たい木の引き戸を押し開けると、ひんやりとした空気と一緒に、広い土間が目に飛び込んでくる。


 人の気配のない家の静けさが、板張りの床からじわりと伝わってきた。


 天井は高く、黒光りする梁がまっすぐに走っている。

 廊下はやけに長くて、磨き込まれた柱や障子がきちんと並んでいるのに――どこか、冷たい。


 家としては立派なのに、その広さがかえって、寂しさを強調しているようだった。


「……あの、よかったら夕ご飯食べていく?」


 靴を脱ごうとしていたところで、不意に声をかけられた。


「え? いいんですか!?」


 思わず声が弾む。

 広い家の静けさに包まれていた空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。


「どうせ一人で食べるし。量、そんなに変わらないから」


 ぶっきらぼうな口調のまま、凛先輩はほんの少しだけ視線を逸らす。


「じゃあ……お言葉に甘えて、いただきます」


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「ちょっと遅くなるといけないので、うちに電話しますね」


 私は土間の端に寄ってスマホを取り出し、素早く発信ボタンを押した。


「もしもし、お母さん? 今、凛先輩の家。

 夕ご飯ごちそうしてくれるって。だから、私の分いらないし……ごめんね」


 短く用件だけを告げて通話を切る。


「お待たせしました」


 顔を上げると、凛先輩と目が合った。


「ん。こっち」


 先輩がくるりと背を向ける。


 静かな廊下を並んで歩き、案内されたのは、家の奥にある一室――凛先輩の部屋だった。


 畳の匂いに、ほんの少しだけ洗剤の香りが混じる。


 そして、一番奥の壁に、ぽっかりと四角い“空白”があった。


 そこだけ、畳の色がわずかに違う。

 棚の上だけ、綺麗に拭かれているのに、何も置かれていない。


 ……すぐに分かった。


 ――ここに、水槽があったんだ。


 ガラスの跡も、配線の名残も、きれいに消されているのに。

 そこにあったはずの時間だけが、ぽっかりと抜け落ちている。


(……片付けちゃったんだ)


 胸の奥がきゅっとした。


 この家で、フグの世話だけが凛先輩の生活の中心だったのだと、そこからでも分かる。


 きっと、この場所には、あのしましま模様のフグ――サリバトールがいたのだ。


「……座って」


 先輩に促されて、私は机の横の椅子に腰を下ろした。


 カチ、とPCの電源が入る音がして、暗かったモニターがふわりと光を帯びる。


 デスクトップには「アベニーパファー」と名付けられたフォルダがひとつ。

 クリックすると、中には「繁殖」「餌」「生息地」――細かく分類されたフォルダがずらりと並んでいた。


 そのひとつを開くたび、画面いっぱいにアベニーパファーの写真が次々と現れる。


 卵、稚魚、成魚。

 水槽のレイアウト、冷凍赤虫やブラインシュリンプ

 人工飼料まで――たくさんの種類の餌。


(……うわあ)


 どの一枚も、先輩が必死に記録してきた証のように見えた。


「稚魚にはまだ餌与えていないよね」


 画面から目を離さないまま、凛先輩が尋ねる。


「はいっ」


「いつ食べ始めるか、知ってる?」


「ネットでは、三、四日後って書いてありました」


「へえ。ちゃんと調べたんだな」


 わずかに口元が緩んだ気がした。


「今はまだ、親からもらった栄養――ヨークサックで育つんだ。

 それで、餌が食べられるようになるまで大きくなる」


「容姿も変わるんですか?」


「どんどん変わっていくよ。今は赤目で、まだ見えてない。

 黒目になってキョロキョロしだすと、見えてるってサイン。それが給餌スタートの合図だ」


「詳しいんですね。そんなこと、ネットにも書いてないですよ」


「ネットはひとつのデータなんだ。発見されていないことは山程ある。

 ふくには、そういう飼育者になってほしくて」


 いつもより、言葉が多い。


 凛先輩は、驚くほど丁寧で、驚くほど必死だった。

 まるで、それしか自分に残されていないと言わんばかりに。


 横顔はきれいで、でもどこか痛々しくて――

 私は、胸がぎゅっと締め付けられた。


「……あ、そうだ、凛先輩!」


 ふと、思い出して顔を上げる。


「約束、覚えてますか?」


「……約束?」


 凛先輩が、わずかに眉をひそめた。


 ――そう、あのときの約束だ。

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