第44話:シーモンキーは猿で、凛先輩は私を待っていた
【アベニーパファー孵化1日目】
無事孵化した喜びも束の間、一夜明けて私は絶望の淵にいた。
隔離ケースの中では、ヨークサック(栄養袋)をぶら下げた小さな命たちが、心もとなくピコピコと揺れている。
こんなにちっちゃくても、ちゃんと生きている。尊い。
でも――。
餌は? 水換えは?
未知の領域すぎて頭が真っ白だ。
「海月先輩……正解がわかりません」
「正解?」
「凛先輩は“失敗して覚えろ”って言うんです。でも、失敗したらこの子たち死んじゃうんですよ。そんなの、あんまりじゃないですか?」
「……そうだな。でも何もしなくても死んでしまうぞ」
「あ”ーー! そこなんです!だから正解がわからないんです!
凛先輩に聞けば教えてくれると思います。
でも、それって正解じゃない気がするんです」
「そうだな。凛もお前に失敗して欲しいなんて思ってないだろうし、教えるのもまんざらじゃないと思うぞ。あいつ、根は世話焼きだしな」
「うう……先輩のせいで余計わからなくなりました。
どうしてくれるんですか……先輩、責任とって下さい」
私が涙目で睨むと、先輩は一瞬きょとんとして、それから楽しそうに吹き出した。
「人聞きが悪いな。……じゃあ、責任とって『シーモンキー』の育て方でも教えてやるよ」
「シーモンキー?」
「そう。別名、ブラインシュリンプ。稚魚の餌になる」
「シーモンキーって……モンキー? 海の、お猿さん……!?」
「確かここに卵があったかな。ほい、水に入れて孵化させるんだ。水と言っても塩水だけどな」
先輩は少し考えてから、ニヤリと笑って答えた。
「ちなみにブラインシュリンプが大きくなると……シーモンキーになるんだよ」
「お、お猿さんに!? しかも海にいるんですか!?」
「そう、育つと顔が猿のようになるんだ。
昔は『生きた化石』なんてブームにもなったんだぞ」
「ええええええっ!? なんですかその生き物は!
アベニーにあげちゃって大丈夫なんですか!?」
予想外の答えに、私の声が裏返る。エビが猿になるなんて聞いたこともない。
先輩は喉を鳴らして笑った。
「まあ、育ててみればわかるさ。
水1リットルに塩を……大さじ2杯くらい溶かして、そこに卵を入れる」
「……やってみます。キモそうですけど、見てみたいです!」
私は言われた通り塩水を作り、シャーレに耳かき五杯分の卵を入れた。
小さな茶色の粒が、水面にパラパラと浮かぶ。
「で、シーモンキーはいつ孵化するんです?」
「水温にもよるけど、明日かな」
「え! 明日!? もう孵化するんですか! めちゃ早くないですか?」
「楽しみだな」
「はい。」
その時だった。
先輩のポケットでスマホが震えた。
ちらりと画面を見た瞬間、先輩の表情から色がすっと抜け落ちる。
「……親からだ」
短くそう告げると、海月先輩は視線を逸らし、
さっきまでの柔らかさが嘘みたいに暗い影を落とした。
「悪い。部室の戸締まり、任せてもいいか」
「え、あ、はい……」
突然の変化に胸がざわついたまま、
下校のチャイムが鳴る。
私は道具を片付け、部室を出た。
指先には、まだ微かに塩水の匂いが残っている。
(先輩……どうしたんだろ。あんな顔、初めて見た)
不安と期待が混ざり合ったまま校門へ向かう。
夕焼けが沈み、影が長く伸びる。
――その時。
校門の影から、人影が現れた。
「……凛先輩?」
黒いフードを外し、頬の横だけ伸ばした黒髪が夕風に揺れる。
一瞬だけ、深い緑の光が私をかすめ――すぐに逸れた。
たったそれだけで、胸が跳ねる。
「あの、ふく。……よかったら一緒に帰らないか」
(……え? え? 私、凛先輩から誘われた?)
ぎこちない空気。視線の置き場がわからない。
「は、はい! 一緒に帰りましょうか、凛先輩!」
なるべく明るく返事をして、隣に並ぶ。
「ごめん、迷惑かもしれないけど、言いたいことがあって」
突然の真剣な声。
胸の奥で、心臓がトクンと動いた。
(い、言いたいことって……)
顔が一気に熱くなる。
夕焼けが沈み、校門が影に沈んでいく。
世界から音が消えたような静けさの中
――私は息を飲んで、凛先輩の次の言葉を待った。
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