#1 開幕
「本当にもうプレーを続けたくないのかい? エルゼ」
「ええ、パウル、もうできないの。さようなら。……ではごきげんよう、奥様。」
「もうエルゼ、お願いだから私にはこう言ってちょうだい。ツィッシ夫人、と。……それか、もっといいのは、ツィッシ。ただそれだけでいいの。」
「ごきげんよう、ツィッシ夫人。」
「それにしても、どうしてもう行ってしまうの? エルゼ。ディナーまでまだ丸々二時間もあるのに。」
「ツィッシ夫人。おひとりだけでパウルとシングルス で遊んでください。今日の私と一緒にいても全然面白くないと思いますよ。」
「放っておきなよ、奥様。彼女は今日、ご機嫌斜めの日なのさ。……まぁでも君には無愛想がとてもよく似合っているよ、エルゼ。……それからその赤いセーターはもっとよく似合ってる。」
「青い方 にもっと好かれると良いのでしょうけどね、パウル。さようなら。」
これはなかなか良い退場の仕方だったわ。
二人に、嫉妬してると思われなければいいけど。
……あの二人、いとこのパウルとツィッシ・モーアが関係を持ってるってこと、それは誓ってもいいわ。私にとってこれほどどうでもいいことは世の中にないの。
……さて、もう一度振り返って手を。
手を振って、微笑む。
これで機嫌が良さそうに見える?
……ああもうプレーを再開してるのね。
実のところ私はツィッシ・モーアよりテニスができる。それに、パウルだって別に名選手 ってわけじゃない。
でも、彼はいい顔をしてる……襟を開いて不良少年のような顔で。もう少しわざとらしさがなければいいけど。
心配なんて無用よ、エマおば様・・・
なんて素晴らしい夜!
今日こそロゼッタ小屋 ツアーにうってつけの天気だったのに。
チモーネ山 が天高くそびえ立つさまは、なんと素晴らしいこと!
……朝の五時に出発したでしょうね。最初はいつものように、もちろん気分が悪かったでしょう。でもそれは治まるの。……夜明けのハイキングほど味わい深いものはないわ。
……ロゼッタの片目のアメリカ人はボクサーみたい。たぶんボクシングで誰かに目を殴られたのね。アメリカへ嫁ぐのはとてもいいと思うけど、アメリカ人以外ね。それか、アメリカ人と結婚してヨーロッパで暮らすの。
リヴィエラ の別荘。
海へと続く大理石の階段。
私は裸で大理石の上に横たわっている。
……マントン にいたのは、どれくらい前? 七年か八年。私は十三歳か十四歳ね。ああ、そう、あの頃はまだ暮らし向きは良かった。
……ツアー を延期したのはまったく無意味ね。どのみち今頃はもう戻ってきてたはずよ。
……四時、私がテニスに行った頃は、電報で聞いたママからの速達 はまだ届いてなかった。今ならどうかしら。もう一セットくらいは十分プレーできたのに。
……なぜあの若い二人組は私に挨拶するの? 私は全く知らないのに。昨日からホテルに泊まっていて、食事の時は左側の窓際に座っていた。前までオランダ人たちが座っていたところね。私、無愛想にお礼でも言ったのかしら? それとも高慢に? もちろんそんなつもりはないけど。
『コリオラン』 からの帰り道、フレートは何と言ったっけ? 「快活」、いや「高志 」ね。あなたは高志であって、高慢ではないよエルゼ、と。美しい言葉ね。彼はいつも美しい言葉を見つけてくる。
……どうして私はこんなにゆっくり歩いているの? やっぱりママの手紙が怖いの?
まあ、おそらく愉快なものは何も入ってないでしょうね。
速達!
もしかしたらまた、帰らなきゃいけないのかも。ああなんてこと。なんて人生なの……赤いシルクのセーターとシルクのストッキングを持ってきたのに。三足も!
裕福なおばに招待された貧しい親戚なのよ。彼女はきっと今頃後悔してるのでしょうね。書面で保証しましょうか? 親愛なるおば様、私はパウルのことなど夢にも思ってないのよって。
はぁ、誰のことも考えてないわ。私は恋をしていない。誰にも。それどころか一度も恋なんてしたことないわ。アルベルト にだって恋していなかった。八日間はそう思い込んでいたけど。
私、恋愛感情なんて持てないのかも。
でも不思議。
……だって、その……自分で分かってる。
・・・そういうのに興味はあるもの。
ただありがたいことに 、高志で無愛想なのよ。
十三歳の時が、たぶん唯一本当に恋をしていた時かも。ヴァン・ダイク に……それかきっとデ・グリュー神父 に。あとルナール にも。
そして十六歳の時、ヴェルター湖 で……ああ、いや、あれは何でもなかった。なぜ思い返す必要が? 回想録でも書いてるわけじゃないのよ。日記ですらないわ、ベルタ みたい。フレートには好感が持てるけど、それ以上ではないわ。もしかしたら、彼がもっとエレガントだったら。
私はやっぱり見栄っ張り なのよ。パパもそう思って私を笑う。ああ、愛しいパパ、あなたは私にたくさんの心配をかける。彼は一度でもママを裏切ったことが? きっとしょっちゅうね。ママはかなり抜けてるの。私のことは何も分かっていない。他のひとたちのことも。フレートは? ……でも分かってくれる気がするだけ。
……天国にいるような夜。なんて華やかなホテルなの。実感できる。なんの悩みもなく、順調そうな人たちが大勢いる。例えば私。ふふ!残念。お気楽な人生に生まれたのに。とても素敵なことなのに。残念ね。
……チモーネ山の頂が赤く輝いてる。パウルなら言うわ、アルペングリューエン って。これはアルペングリューエンなんかじゃない。泣きたくなるほど美しい。ああ、どうしてまた街 に戻らなきゃいけないの!
「こんばんは、エルゼ嬢。」
「御手をお貸しください奥様 。」
「テニスから?」
見ればわかるのに、なぜ尋ねるの?
「はい奥様。ほぼ三時間プレーしました。……それで奥様はまた散歩をなさるのですか?」
「ええ、いつもの夜の散歩よ。ロッレ通り の小道をね。草原の間をとても気持ちよく通っているの、昼間はもう日差しが強すぎるくらい。」
「ええ、ここの草原は素晴らしいです。特に月明かりの下で、私のところの窓から見ると。」
「こんばんは、エルゼ嬢。」御手をお貸しください、奥様。
「こんばんは、フォン・ドルスダイ 様。」
「テニスから? エルゼ嬢。」
「なんて鋭い観察眼でしょう、フォン・ドルスダイ様。」
「からかわないでください、エルゼ。」
なぜ「エルゼ嬢」と言わないの?
「ラケット姿がそんなに素敵に見えるなら、装飾品として身につけてもいいかもしれませんね。」
くだらない。これには答えないわ。
「午後中ずっとプレーしていました。残念ながら三人だけでした。パウルとモーア夫人と私です。」
「私も以前は熱狂的なテニスプレーヤーでした。」
「今はもう違うのですか?」
「今はもう年を取りすぎました。」
「まぁ、年を取ったなんて、マリエンリスト でも六十五歳のスウェーデン人がいて、毎晩六時から八時までプレーしていましたよ。しかも前の年にはトーナメントにも出場していたそうです。」
「まあ六十五歳にはありがたいことにまだなっていませんが、残念ながらスウェーデン人でもありません。」
なぜ残念なのかしら?
彼はそれを冗談だと思っているのね。一番いいのは礼儀正しく微笑んで立ち去ること。
「御手をお貸しください、奥様。さようなら、フォン・ドルスダイ様。」
なんと深くお辞儀をし、どんな目つきをすることか。子牛のような目 。六十五歳のスウェーデン人の話で、最後に傷つけてしまったのかしら? 別に害はないだろうけど。
ヴィナーヴァー夫人は不幸な女性に違いない。きっともう五十歳に近い。あの涙袋……まるでたくさん泣いたかのよう。ああなんて恐ろしいこと、そんなに年を取るなんて。フォン・ドルスダイ氏は彼女の世話をしている。ほら、彼女の傍らを歩いている。まだ灰色の混じった尖った顎鬚でなかなか格好いい。でも好感は持てない。無理に作ってる感じね。あなたの一流の仕立て屋が何の役に立つのですか? フォン・ドルスダイ様。
ドルスダイ!あなたはきっと以前は名前 だって違っていたのでしょう。
……あら、ツィッシの可愛い小さな女の子が、〔子守りの〕お嬢さんと一緒に来るわ。
「こんにちは、フリッツィ。ボンソワール、マドモアゼル。お元気?」
「メルシー、マドモアゼル。あなたも?」
「あらフリッツィ、登山杖を持っているじゃない。まさかチモーネに登るつもり?」
「いいえ、そんなに高くへはまだ登ってはいけないんです。」
「来年にはきっと登れるようになるわよ。パーフリッツィ 。ではまた、マドモアゼル。」 「ボンソワール、マドモアゼル。」
きれいな人。どうして彼女はそもそも子守り をしてるのかな。それもツィッシのところで。苦々しい運命。ああ神よ、私だってまだまだ苦しむかもしれないのに。いえ、私は断然もっとマシなもの がいい。もっとマシ?
……素晴らしい夜ね。「シャンパンのような空気だ」と昨日、ヴァルトベルク博士が言っていた。一昨日も誰かが言っていた。どうしてみんな、こんな素晴らしい天気なのにロビーに座ってるの? 理解できないわ。それとも、みんな速達を待ってるの?
ポーター はもう私を見たわ。……もし私宛の速達があれば、すぐに持ってきてくれたはず。ということは、何もない。ありがたいこと。
ディナーの前に少し横になろうかな。
なぜツィッシは〔英語風に〕「ディナー」と言うの? 馬鹿げた気取り方ね。お似合いだわ、ツィッシとパウル。
……ああ、手紙はもう届いてた方がよかったのに。結局「ディナー」中に届くのかも。それでもし来なかったら、落ち着かない夜を過ごすことになるわ。昨夜も、とても情けないくらいに眠れなかった。それはまあ、ちょうど「あの時期」 なの。だから足がつっぱるのよ。今日は九月三日。だからたぶん六日に。
今日はヴェロナール を飲もう。あぁ慣れないわ。違うの愛しいフレート、心配しなくていいわ。心の中ではいつも彼と「君」 で話してる。
……何でも試してみるべきね、……ハシシ も。海軍少尉のブランデルはたしか中国からハシシを持ってきてたわ。ハシシは飲むの? それとも吸うの? 素晴らしい幻覚が見られるみたい。一緒にハシシを飲む……あるいは吸う? ってブランデルは私を誘ったわ。生意気な奴。でもハンサム……
「ご機嫌麗しゅう、お嬢様。お手紙です。」
……ポーター!やっぱりなのね!
……私は完璧に平然を装って、振り返る。カロリーネからの手紙かもしれないし、ベルタからかも、フレートからかも、ミス・ジャクソンからかもしれないわ。
「ありがとう。」
やっぱりママからね。速達。どうして彼はすぐに「速達です」と言わなかったの?
「はぁ……速達!」
ーーーーーーーーー
訳注
シングルス Single: シングルス(テニス)。
青い方 Bei Blau: 空の青さ等を指して、「パウルがツィッシとプレーすることについて、より幸運があるように」と言っている可能性もあるが、直接的にツィッシを指していると考えられる。
名選手 Matador: 闘牛士を指すが、ここでは「名手」「エース」といった意味。
ロゼッタ小屋 Rosetta-Hütte: ロゼッタ小屋。イタリア北東部東アルプス山脈ドロミーティ(ドロミテ)山地にある山小屋。
チモーネ Cimone: チモーネ山。ドロミーティ山地にある山。
リヴィエラ Riviera: リヴィエラ。南仏コートダジュールからイタリアにかけての海岸線。
マントン Mentone: マントン。リヴィエラにある、イタリア国境の町。
ツアー Partie: ロゼッタ小屋ツアー。
『コリオラン』 Coriolan: ベートーヴェンの序曲『コリオラン』、あるいはシェイクスピアの戯曲『コリオレイナス』。演劇または演奏会を観に行った帰り道のことと思われる。
高志 訳した単語はそれぞれ「快活」(Frohgemut)、「高志」(hochgemut)、「高慢」(hochmütig)。hochgemutも「快活」の前向きな様子に似ていると考えた。
「ただありがたいことに、高志で無愛想なのよ。」 この一文は、エルゼが「自分は高志で無愛想な(と言われた)性格だから簡単に恋に落ちたりしないのだし、その性格のおかげで傷つかないで済んでいる」という、自己防衛的な心理と、それに対する皮肉めいた安堵感を表していると解釈した。自分の「可愛げのない」部分がかえって自分を守っているのだ、という複雑な認識が込められているように思う。
ヴァン・ダイク Van Dyck: フランドルの画家アンソニー・ヴァン・ダイク。彼が描いた肖像画の人物に恋をしたのかもしれない。
デ・グリュー神父 Abbé Des Grieux: アベ・プレヴォーの小説『マノン・レスコー』の主人公、騎士デ・グリュー。
ルナール Renard: 不明。
ヴェルター湖 Wörthersee: ヴェルター湖。オーストリアにある湖。保養地。
見栄っ張り Snob: 見栄っ張り。と訳したが、俗物、気取り屋、など。
アルペングリューエン Alpenglühen: アルペングリューエン。「アルプスの輝き」の意。日の出前や日没後に、高山の山頂(特に雪や氷に覆われている場合)が太陽光に照らされて赤やピンク色に輝く現象。作中では、エルゼがチモーネ山の頂の赤い輝きを見て、いかにもパウルが言いそうな詩的・感傷的な言葉としてこの「アルペングリューエン」を連想するが、すぐに内心で否定している。これは、自然の美しさを認めつつも、それに対する紋切り型な表現(による陳腐化)や、パウルに代表されるような感傷性に対するエルゼの批判的・反抗的な態度を示していると思われる。
街 Stadt: 街。ここではウィーンを指すと思われる。
「御手をお貸しください奥様」 Küss' die Hand gnädige Frau: 「御手をお貸しください奥様」。当時のオーストリア=ハンガリー帝国などで用いられた丁寧な挨拶。直訳は「奥様の手にキスを」。
ロッレ通り Rolleweg: ロッレ峠へ続く道か、その近くの小道。
御手をお貸しください、奥様 エルゼ以外の発言はイタリックなのだが、これもイタリック。おそらくドルスダイがエマに挨拶をしているのかと思われる。
マリエンリスト Marienlyst: デンマークのリゾート地。
子牛のような目 Kalbsaugen: 子牛のような目。ここでは魅力がなく、訴えるような、あるいは愚鈍な目つきを指す否定的な表現。
名前 彼が現在の社会的地位や洗練された外見に見合うだけの、由緒ある家柄の出身ではないのではないか、というエルゼの疑いを反映していると思われる。見せかけだけ取り繕っている「成り上がり者」ではないか、と。当時のウィーンでは、社会的な上昇や同化を目指してユダヤ系の市民がドイツ風の名前に改名することがあった。明確な反ユダヤ主義とまでは言えなくとも、そうした社会背景を前提とした「彼の出自は見た目通りではないのではないか」というステレオタイプ的な疑念が無意識的に込められている可能性もあるだろう。
パーフリッツィ Pah, Fritzi: 子供に対する親しみを込めた別れの挨拶か、軽いからかいの表現。このセリフもイタリックのため、子守のお嬢さんのセリフと思われる。
子守り Bonne: 子守り。フランス語で、主に子供の世話をする女性、特に住み込みの子守や乳母(ただし授乳するとは限らない、広い意味での世話係)、ナニーを指す言葉。裕福な家庭で、子供の身の回りの世話や監督をする役割を担う。
もっとマシなもの etwas Besseres: (乳母になるよりは)もっと良いこと、ましなこと。自立する道や、あるいは玉の輿のようなものを漠然と考えている可能性。
ポーター Portier: ホテルのポーター、受付係。
あの時期 gerade diese Tage: ちょうど「あの時期」。月経期間を婉曲的に示している。
ヴェロナール Veronal: ヴェロナール。バルビツール酸系の睡眠薬。当時は比較的一般的に使われていたが、依存性や致死性もある。
君 Du: 親し気な二人称。
ハシシ Haschisch: ハシシ。大麻樹脂。
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