第5話 逸脱報告書と乙ゲー

 ある日の午後。

 机に向かって作業をしていた俺の背後から、ぬっと顔が現れた。

 近い。

 いや、

 近すぎる!!


「……なあ、アルテミス。お前、なんで俺の肩の真上に顔あんだよ」

「現在、距離0.35メートル」

「知るか!! っていうか、なんで正確な数字が出てくるんだよ!?」

「信頼度向上のため、心理的親近距離における物理的接近の実験中です」


 淡々と告げるその顔は相変わらず無表情で、逆に恐怖だ。


「近すぎてディスプレイが反射して見えねぇんだけど……」

「ですが、シズ様のアドバイスにより、“パーソナルスペースの侵犯”が親密度上昇に寄与すると学習しました」

「バアさんかぁぁぁあああああ!!!!」


 通信ホログラムも出ていないのに、遠くの空に叫びたくなる。


「……なあ、お前、自分が今やってることが“健康管理”って目的からズレてるって思わねぇか?」


 そう言った瞬間、アルテミスがピタリと動きを止めた。


「……重大なプログラム逸脱の可能性を確認しました」

「いやいや、そこまでガチで反応しなくていいから──」

「報告が必要です」

「はぁ!?」

「任務中における行動指針の逸脱、特に“目的外親密行動”は医療補助AIのガイドラインに基づき、正式な逸脱報告書の提出が義務付けられています」

「し、知るかぁぁぁ!!!」

「ガイドライン第42条第3項、“対象への不要な感情的関与の防止および記録義務”により、以下の項目について報告が求められます。初期行動ログ、判断アルゴリズム、対象反応記録、環境センサーデータ、ならびに対処結果の記録──」

「やめろ、やめろ!全部言わなくていい! 頭痛くなってきた……」


 俺は手で顔を覆いながら呻いた。まさか“距離が近い”ってだけで公文書が生まれそうになるとは思わなかった。


「では、報告書作成に移行します」

「おいおい、ここ病院でも製薬会社でもないんだぞ!? 報告書なんていらねぇっての!!」


 アルテミスは首を小さく傾げた。


「ですが、私は雪宮シズ様の指示で行動しており、彼女は“財団付属医療研究機関”の管理責任者です」

「いやいやいや……」


 俺はぐっと口を閉ざす。やばい、反論が……できない。


「よって、この研究室も“医療モニタリング対象区域”に該当します。行動記録および逸脱報告義務は有効です」

「……くそっ、そうだった……」


 俺は机に突っ伏しながら呻いた。完全にバアさんの手のひらの上じゃねぇかこれ。


 そこへ、タイミングを見計らったかのように、ぴぴっ、と通信音が鳴る。

 空中にホログラムが浮かび上がり、まるで悪魔召喚のごとく祖母の顔が現れた。


『はいはーい、どうしたの?』


 今日も白衣でお茶菓子をつまみながら、雪宮シズはご機嫌だ。


「バアさん、あんた絶対ずっとモニター越しに見てただろ……!」

『ふふ、アルテミスが“逸脱報告の作成に入ります”って通知くれたから』

「通知制度があんのかよ!!!」

『それで、アルテミス。距離感調整の進展はどうだった?』

「進展は確認済みです。距離0.35メートルにて、対象が“過剰反応”を示しました」

『うんうん、初期段階としては良好ね。次は手が触れる程度の距離に挑戦してみましょう』

「了解しました。目標:距離0.15メートル」

「やめろぉぉぉぉぉ!!!これ以上近づくなぁぁぁ!!!」


 俺の絶叫が、研究室の防音パネルに空しく吸い込まれていった。



 ――翌日。


 俺は、ついに決意した。


「もう我慢ならねぇ……」


 PCを立ち上げ、財団システムへのアクセスコードを叩き込み、裏管理者ログインモードを起動する。

 そう、目的はただ一つ。アルテミスの“恋愛信頼構築プロトコル”の設定を一時的に停止させること。


「このままじゃ命がいくつあっても足りねぇ……」


 パスワード、認証トークン、システムプロファイル……懐かしいコード構造が次々と画面に浮かぶ。

 自分で書いたセキュリティの一部もある。


(……まだ指が覚えてやがる)


 俺は手を止めず、特殊ルートから設定変更コンソールにアクセスした。


 が、そこで。


『音声認証が必要です。発話してください:「わたしが一番かわいいのはいつ?」』

「……は?」


 ホログラムに映し出されたのは、祖母・雪宮シズの笑顔とともに、“ランダム羞恥セキュリティクイズ”。


『あなたの推奨回答:いつでも可愛い、ですよ?』

「うげぇ……!」


 さらに追い打ちのように、音声入力欄の下には、


『※回答が遅れると、おやつ画像が表示されます(主にわらび餅)』


 ばかかこのセキュリティ!?


「……ちくしょう……!」


 操作を強制終了し、モニターをパタンと閉じる。


(完全に、あのバアさんの掌の上じゃねぇか……)


 肩から力が抜けた。

 俺の努力。天才的解析能力。知識。経験。

 全部、バアさんのどうでもいい遊び心に跳ね返された。あの人、未だ現役の科学者だってことは分かってるけどさ……


「せめて、その知識をまともな方向に使え……」


 脱力したまま、椅子にもたれかかる。

 そのとき。


「……ケイ」


 背後から、静かな声が聞こえた。

 振り返ると、アルテミスがこちらをじっと見ている。


「落ち込まないでください」

「いや、落ち込んでねぇよ。ちょっと絶望しただけだ」

「たとえケイがシズ様に何度敗北しても、私はあなたの側にいます」

「お、おう……?」

「物理的にも」

「……ちょっと待て。お前今──」


 ぐい、と顔が近づいた。

 数値にして、おそらく──


「現在、距離0.15メートル」

「ちけぇよ!!!!! それが敗北慰める距離じゃねぇから!!!」

「シズ様によると、“心が弱った人には、そっと寄り添うことが効果的”とのことです」

「絶対それ、バアさんの“恋愛テンプレート”から引用しただけだろ!!!」


 再び、俺の叫び声が研究室に響き渡る。

 そして、アルテミスは一切ブレずに答えた。


「はい。引用元:乙女ゲーム“孤独な月と千夜の距離” 第4章」

「やっぱりなぁぁぁああああ!!」


 今日もまた、俺の理性が崩壊しかけた。

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