第2話 健康と崩壊の朝

 朝というものは、俺にとって敵だ。

 それはもう、哲学的な意味ではなく、物理的な意味で。

 特に深夜の研究作業に没頭してからわずか三時間しか眠っていないようなときに、天敵は静かに、しかし容赦なく襲ってくる。


「おはようございます、ケイ。現在時刻は六時丁度。起床のタイミングです」


 その無機質な宣言と同時に、バシュンという音を立ててカーテンが強制開放された。

 冷えた朝の空気と、真っ白な朝日が一斉に部屋へなだれ込む。


「っ……おいっ、まぶっ……!!」


 思わず目を押さえながらソファから転げ落ちた俺の前に、パーフェクトな姿勢の銀髪の少女が立っていた。


 アルテミス。俺にとって、もう一人の天敵だ。


「眠気が深い状態でしたので、段階的な覚醒モードをスキップしました。ご了承ください」

「いや、断るっていう選択肢が存在してねぇんだが……!」

「設定されていません」

「だろうな!!」


 目をこすっているうちに、手に歯ブラシと濡れタオルが差し出された。


「口腔ケアと洗顔は、皮脂分泌の正常化および集中力の維持に有効です」

「なんでそんな完璧な流れで進めてくんだよ! 俺の意思はどこいった!!」

「健康管理プログラムは、あなたの自主性を妨げない範囲で最適化されています」

「どう見ても妨げられてるよな!?」


 文句を言いつつも、すでに洗面所へ押し込まれ、歯を磨いて顔を洗わされ、髪も整えられ──


 気づけば俺は、朝食用のテーブルに座らされていた。


「本日分の食事が到着しました」


 部屋の窓の外、低音を響かせてホバリングする小型ドローンが一機。

 その腹部から、慎重にアームが伸びる。

 着地するように、黒い箱が目の前のテーブルに静かに降ろされた。


「……まさか、朝飯がドローンで届く時代とはな……」

「財団の栄養管理システムに接続されており、構成内容はあなたの昨日の活動量と睡眠時間を反映したものです」


 蓋を開けると、驚くほど整った定食が現れた。

 白米、焼き魚、ほうれん草のおひたし、味噌汁、納豆、温泉卵。どれも無機質なまでに整っている。


「見た目だけは完璧だな……」


 箸を取り、一口。魚は見事にパサパサ、味噌汁はぬるい。副菜に至っては、まるで栄養素だけを凝縮したサンプルみたいな味だった。


「……うん、完璧に味気ない」

「咀嚼データから見て、栄養吸収は問題ありません」

「いや、そういう問題じゃなくてな……」


 黙々と食べ進めるうちに、だんだんと脳が覚醒してきて、ようやく状況を俯瞰できるようになってきた。


 自分の朝食がドローンで届き、銀髪のアンドロイドに行動を逐一監視され、健康を最適化されているという現実。


(……何かがおかしい)


「これ、バアさんが言ったのか? 朝はこうしろって」

「いいえ。これは私の判断です。シズ様は“自分の裁量で進めて良い”と仰いました」

「……バアさん、後で覚えてろよ」


 食後、湯呑にほうじ茶を注いだアルテミスが、無言でそれを差し出してきた。

 動きに無駄はない。清潔で整っていて、まるで機械のようで。

 ──でも、その指先はほんの少しだけ、温もりを感じた。

 湯呑を受け取った瞬間、思わず漏れた。


「……ありがと」


 自分で言っておいて、どこかむずがゆくなり、俺は反射的に視線を逸らした。

 アルテミスは、わずかに瞬きをした。たぶん、気のせいだ。


 その場に沈黙が降りる。


(……これ、本当に健康的って言えるのか?)


 整えられた朝食。正確すぎる起床時間。最適化された行動パターン。

 無駄がなく、予定調和で、完璧すぎるくらい完璧。

 でもそこに、何かが足りない気がした。

 ──それが何なのか、このときの俺にはまだわからなかった。

 わかっていたのは、ただ一つ。

 俺のプライバシーが、完全に喪失していたということだ。


 朝食を終えた直後、俺は決意した。

 もう我慢ならん。

 部屋の片隅に設置された、細長い黒いパネル──通信端末ユニットに歩み寄る。

 手をかざすと、淡い光が走り、正面の空間に薄い立体映像が浮かび上がった。


《接続中──雪宮シズ:優先ライン》


 数秒後、ホログラム越しに現れたのは、優雅に紅茶を啜るバアさんだった。


「まあ、ケイ。ごきげんよう」

「ごきげんじゃねぇよ! 俺の朝、今どうなってるか知ってるか!?」

「知ってるわよ。あなた、久々に白米をちゃんと咀嚼してたじゃない」

「そこじゃねぇ! ドローンで朝食が飛んできて、銀髪のアンドロイドが目覚まし代わりだぞ!? 俺の生活、もう人間味ゼロだ!!」

「でも、健康的よ?」

「……俺の心が削れてんだよ!!」


 シズは相変わらずの涼しい顔で、ひとくち紅茶をすする。


「少なくとも、起きて顔を洗って、ご飯を食べた。前よりはずっと“生きてる”ように見えたけれど?」

「っ……」


 さっきの「ありがとう」が、妙に頭の中でリフレインした。

 ……いや、思い出すな。あれは事故だ。反射だ。感謝じゃない。


「とにかく、もうちょっと“普通の”生活に戻してくれ! 俺の研究ペースにも影響出る!」

「じゃあ、自分で管理してごらんなさいな。生活、健康、栄養、全部。自分で立て直せるなら、私もアルテミスも何も言わないわ」

「……自分で、って」

「ええ。できるかどうかは、あなた次第よ」


 言い終えると、シズは通信を切った。あっさりと。

 空中の映像が揺らぎ、すっと消える。


「……チッ。勝手に切りやがって」


 後ろを振り返ると、アルテミスが静かに食器を片づけていた。

 当然のように、無駄なく、静かに。


「次は軽いストレッチです。10分ほど」

「お前、通信聞いてただろ!? 今は心がストレッチ状態だよ!」

「心拍が少し上昇していたので、ちょうどいいタイミングです」

「だからその冷静な最適化やめろっての!!」


 ──俺の静かな反抗は、またしても敗北に終わった。

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