第15話 恋文

タカヒコは丁寧な所作でボトルの口を開け、説明を始める。


「ライン・ドナウ連邦国の北、冷涼な高地の畑で作られた赤。“シュペートブルグンダー”と呼ばれていて──」


タカヒコが注ぎながら説明を始めたそのとき、エレーヌがわずかに眉をひそめた。


「……ふむ。我々の教義では、ピノ・ノワールとシュペートブルグンダーは異母兄弟のようなもので、厳密には別種とされているのだが」


「へえ。オレの故郷じゃ、全く同じ葡萄でも、土地ごとに名前が変わることがあってな。そういうの、“シノニム”って呼ぶんだ」


タカヒコは片眉を上げ、軽く笑う。


「まさに、これがその“シノニム”ってやつさ。……エレンちゃん」



その一言に、場の空気がぴしりと凍る。


エレーヌの口元がわずかに引き締まる。

だが、タカヒコを睨み返す代わりに、彼女は小さく息を吐いた。


「……くっ。だが、そうだな」


わずかにうつむいたまま、言葉を継ぐ。


「今の私は、聖堂騎士としてではなく、一人のエレーヌ・ド・セリニーとしてこの席にあるべきだった。

非礼を詫びよう。続けてくれ」


タカヒコは意外そうにエレーヌを見たが、すぐに口元をゆるめた。


「そいつは……嬉しいな」


彼はグラスを差し出し、ゆっくりとピノを注ぎ始める。


香りが、空気を変えるように立ち上がっていく。


タカヒコは、ひと呼吸置いてからボトルを持ち直した。


「ピノってのは、面倒なやつでね。

初めて出会ったときは、この人が運命の人なんだと思うほどの衝撃で、

でも次に顔を合わせたら、平気で赤の他人みたいな顔をする」


そう言いながら、ほんの少しだけグラスを傾け、液面に光を透かす。


「利己的で、気まぐれで──なのに時々、

全身全霊で、こっちに飛び込んでくるんだ」


注がれた赤は、やわらかく、けれどどこか張り詰めた色をしていた。


「捉えどころがないから、捉えたくなる。

理不尽なのに、どうしようもなく惹かれる」


タカヒコは、注ぎ終えたグラスの縁に手を添えると、目を細めた。


「……だからきっと、一生添い遂げたくなるんだろうな」


彼はグラスに、ゆっくりと呼吸を重ねる。

音を立てず、詠唱もなく、ただ静かに──調律が始まった。



果実の輪郭がやわらぎ、

花と土のあいだに潜んでいたスミレの香りが、ふいに前に出る。

あとから、濡れた石のような鉱物の気配が追いかける。


それは、弦楽四重奏が、一人ずつ加わり、やがて音を形作るような変化だった。


エレーヌは、ただ香りを吸い込みながら、目を閉じた。


──騎士としての誇りが、静かに揺れる。


この男は、“ピノ・ノワール”という存在そのものに、

深い敬意を払っている。


それが伝わってくる。


調律を通して、感覚が“共鳴”しているのだ。


「……ふむ。お前の調律には、歪みがない」


「誉め言葉として、受け取っていいのか?」


「まだ答えは出していない」


エレーヌはグラスに触れ、ゆっくりと口に運ぶ。


その様子を見ながら、タカヒコは心の中でつぶやいた。


──いまは響かなくてもいい。

けれど、共鳴はきっと、ここから始まる。


そして、グラスの縁がそっと揺れた。

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