第9話 気配

 注がれたグラスを、アルネは両手で丁寧に受け取った。

 しばし、揺れる液面をじっと見つめる。


 やがて、わずかに鼻を近づけ、香りを吸い込む。

 そして、ひと口──


 その所作に、タカヒコは息をのんだ。

 まるで、余韻の奥へと深く潜っていくような動きだった。


 アルネは、ふーっと深く息を吐き、数秒、動かない。


 ──飲み干したその先にある、静かな鼓動を聴こうとしているようだった。


 そして、小さく眉が動く。

 その表情は、戸惑いとも、確信ともつかなかった。


「……何か、いました」


 ぽつりと、そう言った。


 タカヒコは、グラスを拭く手を止め、アルネを見つめる。

 そして──あえて、言葉を返さなかった。


「すごく静かだったんです。

 でも、底にぽつんと──何かが、じっとしているような気配があって……」


「どんな“何か”だった?」


「……わかりません。でも……」


 アルネは目を閉じ、そっと胸に手を当てた。


「……音でも、形でもなくて。

 ただ、“奥に、何かがいる”っていう……そういう感じです」


 タカヒコは、ふっと笑った。


「いいね。“何かがいた”は、けっこう的確かもしれない」


「……え?」


「このワインはね、地元のありふれた土着品種が使われている。

 食事と共に水代わりに飲むような、テーブルワインってやつなんだけど、¨特徴が無い¨って理由で魔酒としては不人気なんだ。

 でも、その静けさの中にある芯は──わかる人には、ちゃんと伝わる。


 ”そこにいる”けど、言葉にできない存在。

確かに、バフはかかりにくいかもしれない。けど、葡萄の声に耳を澄ませば、きっと何か語りかけてくれる。それが、ワインに向き合うってことだよ」



 アルネの目が、わずかに見開かれた。

 でもすぐに、また静かに伏せられる。


「……やっぱり、私、うまく言葉にできなくて」


「そりゃそうさ。最初のひと口で詩が降りてくるやつなんて、

 ──ただ台本を読んでるだけだよ」


 タカヒコは笑って、グラスにもう一杯、そっと注ぐ。


「でも、“いた”って言ったじゃないか。

 それを忘れないでおけば──いつか、目の前に現れるよ」

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