第10話 日常

喫茶店のマスターは私にこう問いかけた。

「君の使命なんかは、僕は知らない。だが、君がすべきことってのは、君自身が知ってるんじゃあないのかい」と。

「……はは、私みたいな人間に何を期待してるんです。私は何もできちゃいないんですよ。何もね。其れこそ、文字を書くことはできても其れしか出来ない木偶の坊——」

「——そんなことはない」

「じゃあ何だと言うんです。貴方は、私を納得させられるんですか」

「できるさ、老耄おいぼれだからね」

「じゃあ、じゃあ、言ってみて下さいよ。何が出来るんですか、貴方に」

「まず、君はどこか履き違えているよ。君は文字を書くこと"しか"出来ないのではなくて、文字を書くこと"も"出来るんだよ。考えてごらん、確か君は工業の出だったよな?金属は加工できるんだろう?」

「できますよ、でもそれくらいだ」

「いや、ありきたりなものではないよ。一般の人間はそもそも金属を削るための旋盤せんばんという存在すら知らないのだからね」

「それが、どうしたんですか」 

「つまるところ君は……君自身が生み出してきた物を無にして、何も出来ないと嘆いている。それは余りにも、過去の君を悲しませる行為だと僕は思うし、君が望むのであれば、僕は君を納得させるために、己の経験の集合知をもって、君と対話するよ」

腹が立った。この男の言い様は、まるで私を軽くあしらっているかのように、私には感じられた。

「——身勝手じゃないですか。そんなの。ただのエゴだ。なんで赤の他人のためにそんなこと……」

「エゴでも良いさ、君がそう思うならそうなんだろうし。ただ、君は忘れてはならないよ。社会に出たとしても、絶対に、君一人ではない。僕は、君を客としても、一人の大人としても見ている。君と話を交わせた夜は、あぁ、後輩がこんなにも生き生きとしている、などと喜んださ」

「貴方が…?」

無性に、何かが湧いて出てくるのを感じた。冷たくも、極度に温かくもない、そんな感情が。目の前の男ただ一人に突きつけられるにはあまりにも鈍重で、膨大なものが。

「そうさ、つまるところだな、僕は君に対して、孤独ではないと言いたかった。君の見ている世界はひどく狭窄しているから、僕がその打破の手助けになれば良いとね」

「貴方は……随分と傲慢だ。自分のことばかり過信して、亜米利加アメリカ人のように得体の知れない自信を持って。捻くれた人間は、なかなか治らないんですよ」

「構わないよ、僕は先が短いし」

……ふと、私とマスターしか居ないその場を、静寂が支配した。そうだ、人はやがて死ぬ。私は失念していた。この人の残り少ない時間を、私は奪ってはならない。

「そうですか、でも、こうして吐き出せて良かった」

「うん、なら良かった。僕はまだ店開いてるから、良ければ居座ってくれてもいい」

……随分と、私に優しくしてくれるんだな。この人は。そんなに優しくして、私が死んだりでもしたら、どういう顔をするのだろう?

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