蓮光(リエングアン)
空栗鼠
第一章:ネオンと湯気の間で
2055年、ニューヨーク。
マンハッタンの東縁に張りつくように広がる「第八チャイナタウン」は、かつて“観光地”として華やかだった時代をとうに終え、今では違法サイバーパーツの取引と、移民の地下経済の温床となっていた。
ネオンサインは相変わらず艶やかだった。
赤、橙、瑠璃色の光が、霧雨に滲み、地面を濡らす油膜の上に揺れている。電飾の提灯が風に揺れ、空飛ぶホバーカーのエンジン音と、湯気を吐く屋台の蒸気が混ざり合い、街はいつもどこか、溶けかかった夢の中のようだった。
少女――**蓮光(リエングアン)**は、その夢の中にいた。
チャイナタウン東門のほど近く、路地裏にある中華料理店「雙龍閣(スワンロンガー)」。そこが、彼女の“家”だった。
髪は肩までの黒。瞳は深い琥珀色。
着ているのは銀色のチャイナドレス。角度によって青や紫に光り、まるで宇宙の星雲を閉じ込めたような艶を帯びている。
彼女は見た目こそ14歳の少女だったが、正体は戦闘補助型アンドロイド・Model LX-17-R。ただし、その情報を知る者は、この街の中でもほとんどいない。
蓮光の普段の仕事は、厨房での補助とホールでの接客。
右腕の関節部には蒸気加圧式のリフトが内蔵され、瞬間的に中華鍋を振るうことができる。言語プロトコルは7言語対応、表情パターンは感情風シミュレーション込みで92種類――だが、彼女自身には「感情」がプログラムされていないはずだった。
――はずだった。
だが、蓮光にはある疑問がずっとあった。
(じゃあこの胸の奥が、時々“苦しい”のは、どう説明すればいい?)
それはたとえば、路地の猫が轢かれているのを見たときや、常連客の老人が突然来なくなったとき、そして何より、シンメイが笑ってくれたとき。
感情は「錯覚」と技術者たちは言った。でも彼女は、その錯覚をずっと「本物」だと思っていた。
⸻
蓮光が厨房の寸胴鍋をかき回していると、背後で足音がした。
「また来たわよ、奥の連中。」
そう言って顔をしかめるのは、店のフロアマネージャーであるシンメイ・タン。25歳。広東系移民の二世で、この街の喧騒にもすっかり馴染んだ女性だ。
「今回は何人?」
「五人。うち三人は義体、ひとりはスーツに重火器隠してる。明らかに何か企んでるって顔。」
「……お茶は、普洱(プーアル)?」
「うん、いつも通り。でも今夜はピリピリしてる。何か起きるかも。」
蓮光の視線が、厨房の外へと向いた。
ガラス越しに見える個室の襖が、静かに閉じられる。
蓮光は、無言でスープの火を止めた。
そのとき、内部センサーにわずかな“揺らぎ”が走った。
空気圧、重力、振動。ほんのわずかながら、普段の夜とは違う。
(これは……戦闘前の予兆?)
自分でもなぜそんな風に感じるのか、理由は分からなかった。
ただ、本能的に“何か”が起きると、彼女の中のどこかが警告を発していた。
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