第三話 いにしえの契約とふたたびの罪③
次の日、朔夜は仮病を使って学校を早退した。学校では優等生の朔夜を疑うものはひとりもおらず、先生や友人、後輩たちみんなに心配されながら、後ろめたさを抱えて学校を出たとき、まだ太陽はてっぺんまで昇りきっていなかった。
「ごめんください、鳩羽さま」
嘘をついてまで朔夜がひとりで訪ねたのは、帝都のとある祠の裏に住む妖鳥である。裏といっても、祠の裏から入り込める妖鳥の領域で、建物がひしめくように建つ帝都の真ん中近くとは思えない、深い森に囲まれた広い武家屋敷の主だった。
「おや。朔夜ひとりかえ」
玄関で朔夜を出迎えたのは、くすんだ灰色の髪を顎のあたりで切りそろえた、端整な青年だ。きれいな楕円の双眸がどこか人を安心させ、落ち着いた美貌の、見た目だけなら二十代半ばにさしかかるころと思われた。本性は大きな鳥の姿のあやかしだが、平素は人に化けて過ごしている。
街なかで人を眺める趣味を持つ、友好的なあやかしなのである。
「今日はどうしたのじゃ?」
「ちょっと……」
ここまで来てしまったものの口ごもる朔夜に、鳩羽は穏やかに笑んで「お入り」と招きいれた。彼は朔夜を居間に通し、手ずからお茶を淹れ、どこからともなく菓子を取り出す。
床の間には掛け軸、違い棚に空の一輪挿し、部屋の中央には黒檀の座卓に座布団。あやかしの棲み家というには、人間くさく生活感のある様相であった。
「昼飯もまだであろ。腹が減っておるなら、遠慮なくいくつでも食べてよいぞ」
大きめに切り分けたカステラを小皿に載せて朔夜のほうへ滑らせながら、鳩羽が残りの塊を示す。
人ならざるものから受け取った食物を、安易に口に入れてはならない。
そう教えられているから身構えるべきところだが、帝都の有名店の焼き印が入った高級なカステラである。そもそも、朔夜にそう説いた張本人が鳩羽であるからして、朔夜が警戒するよしはなかった。
「最近、調子はどうじゃ?」
「そこそこかしら」
カステラを食べる朔夜を座卓の向かいから眺めて、自分はお茶を啜りながら、ほどよい間合いで鳩羽が問う。気負わない問いかけに、朔夜の肩から力が抜けていった。
「そこそこ元気なら上々じゃ」
鳩羽は鷹揚に言い、朔夜の湯呑みにお茶を注ぎ足す。煎茶だが、甘みが強い。鳩羽の妖力が滲むそれを、朔夜はためらいなく口にした。
普通の人間として生きて、普通に幸せになりたい。
そう思ういっぽうで、妖力に満ちた鳩羽の領域に、女学校とはまた違った憩いを感じてしまう。
ここにいると、落ち着いてゆっくりと息ができる。開け放たれた襖の向こうには明るい緑色の葉が茂り、外界を隠すように視界を遮りながらも閉塞感はない。
「して、朔夜は妙なものを持っておるの」
鳩羽の視線がすいと朔夜の通学鞄へ向かう。すぐに得心がいって、折れ針入れを取り出し、鳩羽に差し出した。
「ちょっと様子見をしたの。針供養に持っていこうと思ったまま、そのへんに放っておくわけにもいかないから、入れっぱなしにしちゃった」
「朔夜に限って危険はないじゃろうが、まあのん気じゃのう……」
わずかとはいえ、邪気を帯びて錆びた針を持ち歩いていた朔夜に、鳩羽は呆れて言った。彼は針を確かめ、朔夜に返すまでもないと思ったのか、「これは私が預かろう」と懐から印籠を出してその中に封じる。
「自分の身はもう少し大事にせねばならぬよ」
「大げさだわ、ちょっとしたまじないよ」
「…………」
鳩羽は半眼になりながらじとっと朔夜を睨んだが、またひとつため息をつき、気を取り直して湯呑みに口をつけた。
「ちょっとした、といえば最近の帝都では、また妙な占いが流行っておるの」
「そんなの、いつだって流行っているじゃない」
人ならざるものが迷信だといわれ、白い目で見られるようになってもなお、人々は胡乱なものを頼る。願掛けも神託も好きだ。矛盾を可笑しく思いもするが、帝都の混沌としたありさまを見ていれば、世の中はそんなものだと腑に落ちもする。
「こたびは西洋の占いらしい」
「へえ。さすがね」
適当な返事をする朔夜に、鳩羽が喉の奥で笑いをかみ殺した。
朔夜が何を求めてここへ来たのか、すべて見通すような澄み切った目をして、しかしそれには触れず穏やかにくつろいでいる。あえて自分をさらけ出す必要もなければ、隠す必要もない。だからときどき、無性にここが恋しくなる。
「力も持たないのに占いなんてしたって、あてにならないのに」
「道しるべが欲しいんじゃよ。そこに道があると示されれば、歩くことができよう」
「…………」
朔夜はゆっくりと目を伏せた。
朔夜が歩いているのは、百瀬とともに生きてゆく――結婚して、夫婦になって、人並みの暮らしを送る――と決めた道だ。けれど道の先を想像しようとすると、霧がかかったように曖昧で、それどころかほんの数歩先で途切れているような気さえする。
「そんな道しるべ、信じられるの?」
「そうじゃなあ」
鳩羽は他人事のようにのんびりと首をかしげた。しかし、すぐに目を細めて朔夜に微笑みかけた。
「信じられぬ者は、みずから道を切り拓いてゆくんじゃろう」
「進んだ先が崖だったら?」
「その先へも続く道を創るんじゃよ、そういう者はな」
「いのち知らずね」
「いつの時代も、それが望む未来へ辿り着ける者かもしれぬ」
言い聞かせるというふうでもなく、ゆったりと話していた鳩羽は、そこでいったん口を閉じた。鳩羽の言葉を朔夜が飲み込むひと呼吸を待って続きを言う。
「朔夜は、何を望んでいるのかえ?」
「私はただ、普通の幸せを……」
「それはどんなものじゃろうなあ」
朔夜は、そこで言葉に詰まってしまった。
口ぐせのようになめらかに言えるし、何よりそれがほしいと思う。それなのに、問われて答えようとすると、なぜかうまく思い描けない。
「目指す場所もわからぬのであれば、惑うのも当然じゃよ」
いたわるように言ったかと思えば、鳩羽はとつぜん宙に向かって「のう?」と同意を求めた。その指がついと差し出され、そこに小鳥のかたちをした紙片が降り立つ。朔夜ははっと目を瞠り、紙の小鳥を凝視した。
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