イマジネール2



 あけみちゃんは、きれいな桃色の髪をしている。毎月一度、美容院で染めてもらっているのだと、教えてくれた。あけみちゃんが首を振るたびに、さらさらした長い髪が揺れる。あけみちゃんは、特別に美人というのではなかった。けれども、とても可愛かった。うっすら見えるアイプチの跡に、長いつけまつ毛と、桃色のリップがよく似合っていた。細い爪に施されたネイルもギラギラと光って可愛かった。実家は大学から近いらしく、電車で三十分ほどかけて通っていることも知った。あけみちゃんはいつも黒いミニスカートを履いている。Tシャツと合わせていることが多い。韓国風だ。それが小柄な彼女によく似合っていて、わたしはそれをじっと見ていた。

 あけみちゃんが好きとか、そういう、わかりやすいものではなかった。ただ、講義終わりに体育館の前でダンスを練習している姿や、美味しそうに学食を頬張っている姿などから、なんとなく好ましい思いを抱いていた。彼女の周りの女の子も可愛い子ばかりだったけれど、いっとうあけみちゃんが光っていた。おしゃれな子も、涼しげな目元の子も、企画をぞんぶんに楽しむ子も、あけみちゃんにはかなわなかった。あけみちゃんはいつもクラスの中心で、笑っていた。教室には、あけみちゃんの笑い声がいつだって響いていた。

だから、あけみちゃんと同じ方角の電車に乗り込んだ時は、胸が高まった。気づかれないようにそっと席を立ったが、あけみちゃんはこちらに気がついて、「らかんちゃん!」と声をかけてきた。「らかんちゃんもこっちなの?」わたしは頷く。あけみちゃんはぱっと顔を明るくさせる。白い八重歯がのぞいて可愛かった。わたしは思わず微笑んでしまう。

「今日は一緒に帰れるんだね、うれしい!」

「わたしもうれしい」とわたし。

「らかんちゃん、本当に綺麗だよね…化粧水とかなに使っているの?髪もツヤツヤだし、みんなウワサしてるよ!男の子たちも」

 あけみちゃんはきゃあきゃあとはしゃいだ。照れ臭くてかぶりを振る。あけみちゃんに褒められるのが照れくさい反面、とても嬉しかった。褒められたことなどなかった。こんなふうに純粋に好かれたことなどなかった。みんな、母ばかり見ていた。わたしを通して母のことを見ていた。母を知らない人たちが、ここにはいる。父の事件を知らない人たちが、ここにはいる。それがわたしを助けさせる。

「あけみちゃんだって、すごく可愛いよ。いつも洋服、おしゃれだなって思っている」

「ほんとー?ありがとう!」

 あけみちゃんは笑う。褒められて、ありがとうと返すところに、なんだか両親から大切に育てられた女の子、という感じがして、わたしはきゅっとせつなくなる。わたしにはないもの。まぶしいものだから。

「らかんちゃんって彼氏とかいるの?」

「いないよ、全然」

「えっ意外だ。なんか、年上の人と付き合っているんだと思っていた」

「なにそれ」とわたしは笑う。

「好きな人もいないの?」

「いないかなあ」

 好きな人。好きな人、というのは生きている中で、存在しなかった気がする。好ましい人、というのはいた。家庭教師の先生や、小林くん。あけみちゃん。けれども、みんないわゆる好きな人、ではない。好きな人、とはなんだろう。好き、というのは、なんだろう。それは、

 母のために殺人を犯した父?

「らかんちゃん?」

「ごめん、なんでもない」わたしはにっこり笑った。そういえばあけみちゃんはアルバイトしているの?と話題を変える。あけみちゃんはケーキ屋でアルバイトをしているのだという。おこぼれがもらえるかもしれないと思って始めたけれど、全然そんなことはなくて、店長がけちなのだ、というあけみちゃんに、再びわたしは笑う。らかんちゃん、これからもあけみと仲良くしてね。電車の乗り換えの際、そう言って大きく手を振るあけみちゃんに、わたしも手を振った。一人になった車内で、父のことを考えた。

 父。あの美しい母を愛していた父。他の男よりも、なによりも母を愛していた父。人を殺すくらい、母のことが好きだった父。だからこそ母はあんなに執着していたのだろうか? わたしにはわからない。その人のためならばだれかを殺してしまってもいい。そう思えるほど、いとしい人。好きな人。それはわたしには理解できないものだ。そんな人、現れるんだろうか。わたしにとっての、母にとっての父のような、父にとっての母のような存在は、はたして現れるのだろうか。あけみちゃんはかわいいが、そういうのではない気がする。小林くんとも、そこまでの濃度で付き合いを深めたわけではなかった。愛する人がいないのは、さみしい。これもすべて、母からの愛情を素直に受け入れなかったからだ。そしてそう考える自分がつくづくいやだった。愛されないことは、どうしてこんなにも空虚な気持ちにさせるのだろう。わたしは不安になる。今後わたしを愛してくれる人間など、いないのではないか、と不安になる。もし、父と母の関係性がほんものならば? そのほんもの、をはたしてわたしは手に入れることができるのか。辿り着くことはできるのか。それはわたしの人生に存在するものなのか。さみしかった。一人ぼっちのつめたい部屋に帰って、少しだけ泣いた。急に、愛されたくなった。だれかに、少しだけでもいいから、大丈夫だよ、すべてうまくいくよと抱かれたかった。しかし、大学の学科の友達にも、合唱部の先輩にも、そんな人はいない。みんな、〈恩田〉を、〈否応なく愛してくれる存在〉を求めているのかもしれない。ベッドに倒れ込む。目を閉じる。あけみちゃんの薄い胸囲がぼんやりと浮かんできて、わたしはまた泣きたくなる。

 共依存の関係であれ、父は父なりに母をこの上なく愛していただろうが、その愛がいかに高尚な精神世界だったのか、母にはわからなかったろう、と思う。母はぞんぶんに愛されていただけだった。何も知らなかったのだと思う。父の痛みを、なんにもわかっていなかった。わたしは違う。わたしには、断片的だけれど、父の痛みがわかった。父は痛かったのではないか。父だって母に愛されていれば、それも父と同じくらいの目分量で愛されていれば、自殺せずに済んだのではないか? 

 わたしもぞんぶんに愛されてみたかった。もちろん母は愛したつもりだったのだろう。でも、その愛が当のわたしにも、父にも、じゅうぶんに伝わっていなかったのだから、それはないも同然だ。

 寝る前にもう一度、スマートフォンで事件について調べた。流出した父の写真が暗い部屋に浮かび上がる。やはりわたしはこの人とよく似ている。父。父が生きていれば、わたしのことをわかってくれたかもしれない。わたしは眠りこけながら、父に陶酔する。父がわたしに笑いかけることを想像しながら。夜が広がる。わたしのまぶたは重くなる。

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