第10話「時計の針が止まる夜」

「全ての始まりは、千年前のルナリア王国創設の時にさかのぼります」


森の小屋の中、イザベラの静かな声が響く。燭台の灯りが二人の顔を照らし、影を壁に揺らめかせていた。


「レオナルド・ルナリス王は、『時間の月環』と『太陽の羽飾り』という二つの聖遺物を所持していました。彼はこれらの力で未来を垣間見て、王国を導いたのです」


ヴィオレットは静かに聞き入っていた。彼女の月環は相変わらず淡く光り続けている。


「しかし、レオナルド王には双子の息子がいました。長男アルバートと次男レイモンド。彼らは父の死後、二つの聖遺物をめぐって争いました」


「それで『月影の守護者』と『赤き月』の対立が始まったのね」ヴィオレットは言った。


「その通りです」イザベラは頷いた。「アルバートは月環を、レイモンドは太陽の羽飾りを受け継ぎました。しかし、レイモンドは力に魅了され、時間を支配しようとする野望を抱きました。それを阻止するため、アルバートは『月影の守護者』を創設したのです」


「では、ドラクロワ宰相はレイモンド王子の子孫?」


「いいえ」イザベラは首を振った。「ドラクロワはただの操り人形です。『赤き月』の真の長は別にいます」


「誰なの?」ヴィオレットは身を乗り出した。


その時、小屋の扉が開き、フレデリックが血に染まった服のまま現れた。


「フレデリック!」ヴィオレットは立ち上がり、彼に駆け寄った。「大丈夫?」


「大丈夫だ」彼は疲れた表情で微笑んだ。「刺客たちは倒した。しかし、まだ安全ではない」


「ドラクロワが次の刺客を送ってくるでしょう」イザベラは立ち上がった。「私たちはすぐに移動するべきです」


「待って」ヴィオレットは彼女を止めた。「まだ話は終わっていないはず。『赤き月』の真の長は誰なの?」


イザベラは重い表情で彼女を見つめた。「それを知る時はまだ来ていません。あなたの心が準備できていないからです」


「準備?」


「真実はあなたが想像するよりも残酷かもしれない」イザベラは静かに言った。「今はまず、明日の宮廷舞踏会に備えましょう」


「宮廷舞踏会?」ヴィオレットは混乱した。「明日も?」


「夏の宮廷舞踏会です」フレデリックが説明した。「ドラクロワは王太子の婚約発表の場にすると噂されています」


「セレストとの…」ヴィオレットは呟いた。


「はい」イザベラは頷いた。「彼は計画を前倒ししています。予定より早く動き始めたのです」


「なぜ?」


「おそらく、あなたたちの動きに気づいたからでしょう」フレデリックが言った。「彼はセレストを完全に自分の支配下に置こうとしています」


「そうはさせない」ヴィオレットは決意を示した。


「明日の舞踏会は重要な転換点になります」イザベラは厳かに言った。「私たちは全ての守護者を結集させました。しかし、『赤き月』も同様に動いているでしょう」


小屋の外で静かな口笛が聞こえた。フレデリックが素早く窓の外を確認した。


「味方だ」彼は言った。「馬車が用意できたようだ」


三人は小屋を出て、森の中に隠された馬車に乗り込んだ。イザベラは車内で小さな瓶を取り出し、フレデリックの傷に塗り始めた。


「これで傷が早く治るでしょう」彼女は言った。


「ありがとう」フレデリックは礼を言った。


「ヴィオレット」イザベラは彼女に向き直った。「明日はあなたと王太子の接触が重要です。彼が本当に味方かどうか、見極めなければなりません」


「分かりました」ヴィオレットは頷いた。「でも、セレストは?彼女は危険な立場にいるわ」


「私たちは彼女にも連絡を取っています」イザベラは言った。「銀の鈴を通じて」


「あなたも知っているの?」ヴィオレットは驚いた。


「あの鈴は、元々守護者の道具です」イザベラは微笑んだ。「セレストがあなたにそれを渡したことは、彼女の心が『赤き月』から離れつつある証拠です」


馬車は森を抜け、静かな道を進んだ。ヴィオレットは窓の外の月を見つめながら、明日の舞踏会に思いを馳せた。フレデリックが彼女の横で静かに息を整えている。


「無理をしたのね」彼女は彼の傷を見て言った。


「これくらい」彼は軽く答えた。「あなたが無事なら、それでいい」


「いつもありがとう」彼女は彼の手を握った。


馬車はやがて街外れの小さな邸宅に到着した。それは守護者の隠れ家だという。夜遅くまで、彼らは明日の舞踏会の計画を練った。


翌日の夕方、ヴィオレットは宮廷舞踏会のために入念に準備をしていた。彼女は銀と青のドレスに身を包み、月環を目立たないよう小さなチェーンでネックレスとして首にかけた。


「美しい」フレデリックが彼女を見て言った。


彼は昨夜の傷からほぼ回復し、正装した姿は堂々としていた。


「準備はいいわね」ヴィオレットは言った。


「ええ」フレデリックは頷いた。「守護者たちは既に配置についています。イザベラをはじめ、多くの守護者が宮廷に潜入しています」


「王太子はどうなの?」


「彼からの連絡はない」フレデリックは少し心配そうに言った。「気をつけるべきだ」


二人は馬車に乗り込み、宮殿へと向かった。夏の夕暮れの空は、美しいオレンジ色に染まっていた。


「何か起こりそう」ヴィオレットは呟いた。「予感がするの」


「私も感じている」フレデリックは真剣な表情で言った。「今夜は重要な夜だ」


宮殿に到着すると、既に多くの貴族たちが集まっていた。例年にない華やかさで飾られた舞踏会場は、緊張感と期待感で満ちていた。


「宮廷楽団が特別な演奏を準備しているようね」ヴィオレットは周囲を見回した。


「婚約発表の前触れだろう」フレデリックは静かに言った。


彼らは舞踏会場に入り、さりげなく人々の会話に耳を傾けた。王太子とセレストの婚約についての噂が、あちこちで囁かれている。


「見て」フレデリックがヴィオレットの腕に触れた。「ドラクロワだ」


ドラクロワ宰相は宮廷の高官たちと談笑していた。彼の表情は自信に満ち、時折上機嫌で笑っている。彼の近くには、何人かの不自然に動く紳士たちがいた。


「『赤き月』の手先ね」ヴィオレットは小声で言った。


「それだけではない」フレデリックの視線が宮殿の警備兵にも向けられた。「王宮の警備兵にも彼の手下がいるようだ」


ドラクロワが彼らの方向を見たため、二人はすぐに視線をそらした。しかし、宰相の冷たい視線は一瞬、ヴィオレットに注がれたように感じた。


舞踏会が始まり、ペアになって踊る人々が増えていった。ヴィオレットとフレデリックも一曲踊り、その間にも周囲の状況を観察し続けた。


「まだセレストの姿が見えないわ」ヴィオレットは心配そうに言った。


「王太子も現れていない」フレデリックが付け加えた。


踊りの後、彼らは舞踏会場の端に移動し、シャンパンを口実に会話を続けた。その時、宮廷の執事が高らかに宣言した。


「アレクサンダー・クラウン王太子殿下のご到着です」


全ての視線が入口に集まった。アレクサンダー王太子は厳かな表情で入場してきた。その後ろには、白と金の豪華なドレスに身を包んだセレストが続いていた。


「彼女、顔色が悪いわ」ヴィオレットはすぐに気づいた。


確かに、セレストの表情はいつもの「聖女」の仮面の下に緊張と疲労の色が見えた。しかし、彼女は微笑みを絶やさず、優雅に王太子の隣を歩いていた。


「彼女は大丈夫だろうか」フレデリックは心配そうに言った。


ドラクロワ宰相が二人に近づき、丁重に挨拶をした。三人は簡単な会話を交わした後、宰相はセレストを別の貴族たちの元へと連れて行った。


「彼女と話さなければ」ヴィオレットは言った。


「慎重に」フレデリックは警告した。「ドラクロワは彼女から目を離していない」


彼らは機会を探りながら、舞踏会場を移動した。やがて、王太子が彼らの方向に歩いてくるのが見えた。


「アシュフォード嬢」アレクサンダーは微笑んで挨拶した。「今夜は特に美しい」


「ありがとうございます、殿下」ヴィオレットは丁寧にお辞儀をした。


「良ければ、一曲いかがですか?」王太子は彼女に手を差し伸べた。


「光栄です」


フレデリックは警戒しながらも、二人を見送った。ヴィオレットと王太子はダンスフロアへと移動し、ワルツを踊り始めた。


「話す時間がない」アレクサンダーは踊りながら小声で言った。「ドラクロワは今夜、何かを企んでいる」


「婚約発表ですか?」


「それだけではない」彼は真剣な表情で言った。「彼は私を暗殺しようとしている」


「何ですって?」ヴィオレットは驚きのあまり、一瞬踊りを止めそうになった。


「私の側近から情報が入った」王太子は踊りを続けながら説明した。「彼は『赤き月』の刺客を何人も宮殿内に入れている。発表の直後に行動を起こすつもりらしい」


「なぜあなたを?」


「私がドラクロワを疑っていることに、彼が気づいたのかもしれない」アレクサンダーは言った。「あるいは、単に私が彼の計画の障害になるからだ」


「でも、あなたが殺されれば、王国は混乱します」


「それこそが彼の望みなのかもしれない」王太子は静かに言った。「混乱の中で『時間の儀式』を実行するつもりなのだろう」


ヴィオレットは考え込んだ。「セレストは知っているの?」


「彼女も危険な立場にいる」アレクサンダーは言った。「彼女から聞いたのだが、ドラクロワは彼女にもう選択肢を与えていないらしい。今夜、彼女は『赤き月』への忠誠を公に示さなければならないと」


「どうやって?」


「分からない」王太子は首を振った。「しかし、彼女は恐れている。彼女の目に恐怖を見た」


音楽が終わりに近づき、二人は最後の一歩を踏んだ。


「用心してください」王太子は彼女の手に口づけをしながら囁いた。「私の側近マーカス・グレイは味方です。何かあれば彼を頼ってください」


「あなたこそ」ヴィオレットは心配そうに言った。


彼らはダンスフロアを後にし、別々の方向に去った。ヴィオレットはフレデリックの元に戻り、王太子から聞いた情報を伝えた。


「暗殺計画?」フレデリックは驚いた。「それほど露骨な行動に出るとは」


「ドラクロワは追い詰められているのかもしれない」ヴィオレットは言った。「彼は時間との戦いをしているわ」


「守護者たちに警戒を強化するよう伝えよう」フレデリックは言った。「王太子を守らなければ」


その時、宮廷楽団が特別なファンファーレを演奏し始めた。ドラクロワ宰相が舞踏会場の中央に立ち、手を挙げて皆の注目を集めた。


「紳士淑女の皆様」彼は高らかに宣言した。「今宵、喜ばしいお知らせがございます」


会場が静まり返る中、セレストと王太子が前に進み出た。セレストの表情は完璧な微笑みを浮かべていたが、その目に恐怖の色が見えた。


「ルナリア王国の未来を担う、アレクサンダー・クラウン王太子殿下と」ドラクロワは続けた。「我が国の『聖女』セレスト・ブライトウッド嬢の婚約を、正式に発表する栄誉に浴します」


会場からは歓声と拍手が湧き起こった。しかし、ヴィオレットは全く違う光景を見ていた。セレストの震える手、王太子の緊張した姿勢、そしてドラクロワの目に宿る冷酷な満足感。


「さらに」ドラクロワは声を上げた。「婚約に先立ち、セレスト嬢が特別な儀式を執り行います。彼女の『聖女』としての神聖な力を王太子に授ける儀式です」


これは予想外の展開だった。ヴィオレットは不安を覚えた。


「セレスト嬢」ドラクロワは彼女に目配せした。「どうぞ」


セレストは一歩前に進み、胸元から聖印を取り出した。それは月と太陽が重なった形の銀の聖印——太陽の羽飾りの一部だった。


「私は神の名において」彼女は震える声で言い始めた。「アレクサンダー王太子に聖なる祝福を授けます」


彼女は聖印を掲げ、つぶやくように何かを唱え始めた。聖印が赤く光り始め、その光が会場全体に広がった。


「これは儀式ではない」フレデリックが小声で言った。「何か別のことが起きているんだ」


その瞬間、セレストの表情が変わった。彼女は唇を噛み、王太子に向かって叫んだ。


「逃げて!」


同時に、会場の複数の場所で、黒い服の男たちが動き始めた。彼らはマントの下から武器を取り出し、王太子に向かって突進した。


「守れ!」フレデリックは叫び、守護者たちに合図を送った。


一瞬にして舞踏会場は混乱に陥った。貴族たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、守護者たちが黒服の暗殺者たちと戦い始めた。


「王太子を」ヴィオレットは心配そうに言った。


王太子は既に自らの剣を抜き、身を守っていた。彼の側近マーカスが側で戦っている。


「セレストは?」ヴィオレットは彼女を探した。


混乱の中、セレストとドラクロワの姿が見えなくなっていた。


「あそこだ!」フレデリックが窓際を指さした。


ドラクロワはセレストの腕を掴み、バルコニーへと引きずっていた。セレストは抵抗しているようだったが、宰相は彼女の腕を強く握っていた。


「行くわ!」ヴィオレットは言った。


「危険だ」フレデリックは彼女を止めようとした。


「でも、妹を放っておけない」


フレデリックは一瞬迷った後、頷いた。「一緒に行こう」


二人は混乱の中を縫うように、バルコニーへと向かった。しかし、その途中で「赤き月」の刺客が二人の前に立ちはだかった。


「行かせはしない」刺客は刃を抜いた。


フレデリックは即座に対応し、彼と交戦した。「先に行け!」彼はヴィオレットに叫んだ。


ヴィオレットは躊躇いながらも、フレデリックを残して先に進んだ。バルコニーに辿り着くと、そこでドラクロワがセレストを怒鳴りつけているのが見えた。


「裏切り者め!」ドラクロワは彼女の腕を強く掴んでいた。「私があなたに与えたものを忘れたのか?」


「私はもう、あなたの操り人形ではないわ」セレストは抵抗した。「ヴィオレットが真実を教えてくれた」


「その姉妹があなたを破滅させるのだ」ドラクロワは冷たく言った。「しかし、まだ間に合う。帰って来なさい、私の女王」


「女王?」ヴィオレットは思わず声を上げた。


二人は振り向いた。ドラクロワの目が怒りで燃えた。


「ヴィオレット・アシュフォード」彼は歯を食いしばった。「あなたはずっと邪魔をし続けている」


「妹から手を離して」ヴィオレットは毅然と言った。


「妹?」ドラクロワは嘲笑した。「あなたは何も知らない。セレスティアはただの妹ではない。彼女は『時間の女王』になるべき存在だ」


「私はそんな女王になりたくない!」セレストは叫んだ。


「選択権はない」ドラクロワは冷たく言った。彼は内ポケットから小さな瓶を取り出した。「あなたは従うだけだ」


ヴィオレットは彼に向かって動き出した。「やめて!」


しかし遅かった。ドラクロワは瓶の中身をセレストの顔に向かって投げつけた。紫色の霧がセレストを包み込み、彼女は苦しそうに咳き込んだ。


「セレスト!」ヴィオレットは彼女に駆け寄った。


「下がれ」ドラクロワは手を伸ばした。する と不思議なことに、ヴィオレットの体が一瞬、その場で硬直した。


「なに…?」彼女は動けなくなった自分の体に驚いた。


「私も魔術の心得はある」ドラクロワは言った。「特に時間を操る術にはね」


セレストが床に崩れ落ちた。彼女の目は開いていたが、瞳孔が奇妙に開き、紫色の光を放っていた。


「何をした?」ヴィオレットは怒りを込めて尋ねた。


「彼女の意識を『赤き月』に戻しただけだ」ドラクロワは淡々と言った。「彼女は私たちのものだ。そして、あなたもそうなる」


彼はヴィオレットに向かって歩み寄り始めた。


「決して」彼女は抵抗しようとした。


その時、バルコニーのドアが開き、アレクサンダー王太子が剣を手に現れた。彼の服は血で汚れていた。


「ドラクロワ!」彼は怒りを込めて叫んだ。「反逆罪で逮捕する」


「遅すぎます、殿下」ドラクロワは冷たく微笑んだ。「すべては始まっています」


彼が言い終わるか終わらないかのうちに、セレストが突然立ち上がった。彼女の目は依然として紫色に光り、彼女は機械的に動いていた。


「セレスト?」ヴィオレットは不安げに呼びかけた。


セレストは答えなかった。代わりに、彼女は胸元の聖印を取り出し、それを高く掲げた。聖印が赤く光り始め、その光がヴィオレットの月環と共鳴し始めた。


「なに…?」ヴィオレットは月環を掴んだ。それは熱を持ち始め、彼女の意志に関係なく光を放っていた。


「時間の儀式の第一段階だ」ドラクロワは満足げに言った。「双子の力が呼応し始めた」


アレクサンダーは素早くドラクロワに剣を向けた。「やめろ!」


しかし宰相は微笑むだけだった。その時、バルコニーの外から悲鳴が聞こえ、皆がそちらを見た。宮殿の中庭に何者かが落下したようだった。


「フレデリック!」ヴィオレットは叫んだ。彼女は手すりに駆け寄り、下を見た。


フレデリックが中庭の地面に倒れていた。彼の周りには血溜まりが広がっていた。


「いいえ…」彼女は呟いた。


セレストの聖印の光が強まり、ヴィオレットの月環も反応して強く輝いた。二つの光が交わり、バルコニー全体が赤と青の光に包まれた。


「完璧だ」ドラクロワは目を輝かせた。「時間の儀式が始まる」


アレクサンダーがドラクロワに切りかかろうとした時、セレストが突然王太子の方に向き直った。彼女の動きは人形のように硬く、目は依然として紫色に光っていた。


「殿下、気をつけて!」ヴィオレットは警告した。


しかし遅すぎた。セレストの手から不自然な赤い光が放たれ、王太子に向かって伸びていった。アレクサンダーは防御しようとしたが、光は彼の胸を貫いた。


「ぐっ…」彼は苦しそうに呻いた。


「殿下!」ヴィオレットは彼に駆け寄った。


アレクサンダーは膝から崩れ落ち、胸を押さえた。しかし、血は出ていなかった。代わりに、彼の胸から淡い光が漏れ出ていた。


「私の...力が...」彼は苦しそうに言った。


「彼の生命力を奪っているのだ」ドラクロワは説明した。「月光舞踏会での本番の前に、少し練習をね」


「セレスト、やめて!」ヴィオレットは必死で叫んだ。「あなたはこんな人じゃない!」


セレストの表情が一瞬揺らいだが、すぐに元の虚ろな表情に戻った。彼女の聖印からの光が強まり、アレクサンダーの苦痛も増していた。


ヴィオレットは決断した。彼女は月環に手をかけ、意識を集中させた。


「頼む、月環よ」彼女は心の中で祈った。「力を貸して」


月環が応えるように強く光り、その光がセレストの聖印と衝突した。一瞬、二つの光が拮抗し、そしてセレストの聖印からの光が弱まり始めた。


「何をする!」ドラクロワは怒りを露わにした。


ヴィオレットは月環の力を集中させ続けた。光と光の戦いの中、セレストの目の紫色の光が薄れていくのが見えた。


「セレスト、目を覚まして!」ヴィオレットは叫んだ。「あなたは『赤き月』のものじゃない!」


一瞬の静寂の後、セレストの体が大きく震え、彼女は聖印を落とした。聖印が地面に落ち、その光が消えた。セレストも床に崩れ落ちた。


「セレスト!」ヴィオレットは彼女に駆け寄った。


「姉さん...」セレストは弱々しく目を開けた。彼女の瞳から紫色の光は消えていた。「私...何を...」


「問題ない」ヴィオレットは彼女を抱きしめた。「あなたは戻ってきたのよ」


「愚か者め!」ドラクロワは怒りに震えていた。「これでは『時間の儀式』が台無しだ!」


彼は何かを取り出そうとしたが、アレクサンダーが最後の力を振り絞って剣を彼に向けた。


「もう十分だ、宰相」彼は震える声で言った。


ドラクロワは一瞬躊躇った後、バルコニーの端に向かって走った。


「待って!」ヴィオレットは叫んだ。


しかし、ドラクロワは手すりを乗り越えて、下へと飛び降りた。不思議なことに、彼の体は光に包まれ、ゆっくりと地面に降り立った。そして彼は闇の中へと消えていった。


「彼も魔術を使う…」セレストは弱々しく言った。


アレクサンダー王太子が床に崩れ落ちた。ヴィオレットは彼に駆け寄った。


「殿下!」


「大丈夫…だ」彼は息を切らしながら言った。「生命力の一部を...奪われただけだ」


「フレデリック…」ヴィオレットは手すりの方を見た。


「行きなさい」アレクサンダーは彼女を促した。「私は...大丈夫だ」


ヴィオレットは躊躇いながらも、セレストを王太子の側に置き、急いでバルコニーを後にした。階段を駆け下り、中庭に出ると、既に数人の守護者たちがフレデリックの周りに集まっていた。


「フレデリック!」彼女は彼に駆け寄った。


フレデリックは地面に横たわり、胸から血を流していた。イザベラが彼の傷に手を当て、何らかの治療を施しているようだった。


「ヴィオレット…」フレデリックは弱々しく目を開けた。


「動かないで」彼女は彼の手を握った。「大丈夫よ、助けが来たわ」


「セレスト...王太子は...?」


「無事よ」ヴィオレットは彼を安心させた。「ドラクロワは逃げたけど」


「ドラクロワは...」フレデリックが言いかけて咳き込んだ。「彼は...」


「話さないで」ヴィオレットは彼の額に触れた。「治療が必要よ」


イザベラが彼女を見上げた。「彼の傷は深い。すぐに治療が必要です」


「お願い、助けて」ヴィオレットは懇願した。


「力不足です」イザベラは悲しげに言った。「この傷を完全に治すには...」


ヴィオレットは迷わなかった。彼女は月環に触れた。「この力を使えばいいのね?」


「しかし」イザベラは驚いた様子で言った。「それは貴重な残機の一つを使うことになります」


「構わないわ」ヴィオレットはきっぱりと言った。「フレデリックを救うために」


彼女は月環に意識を集中させた。月環は彼女の意図を理解したかのように光り始めた。


「ヴィオレット...やめろ...」フレデリックは弱々しく言った。「そんな...貴重な力を...私のために...」


「あなたこそ私にとって貴重なの」彼女は彼の頬に手を当てた。「私は前世での過ちを繰り返さない。今回は、大切な人を守るわ」


月環の光が強まり、フレデリックの体を包み込んだ。ヴィオレットは目を閉じ、全ての意識を月環に集中させた。


「時よ、戻れ」彼女は呟いた。「彼の傷を癒して」


青白い光が周囲に広がり、時間が一瞬止まったように感じた。そして、世界が逆回転を始めた。


「月環の残機、二回目の使用」イザベラの声が遠くから聞こえた。「これで残りは一度だけ...」


ヴィオレットの意識が遠のいていく中、彼女は確かに感じた。月環に刻まれた文字が変わり、「残り一度」となったことを。

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