第5話「謀略の地図」
「ヴォートン家の当主が破産し、夜逃げしたそうよ」
華やかな社交界の集まりの中、貴婦人たちの囁き声がヴィオレットの耳に入った。彼女はワイングラスを持ち、表情を変えずに会話を続けながらも、その情報を記憶に留めた。
「まあ、あの人も借金に手を出していたのね」
「ドラクロワ宰相からお金を借りたのが運の尽きだったわ」
ヴィオレットの耳が反応した。ドラクロワ宰相。前世では彼女の破滅を陰から操った男。そして現在、セレストの後見人であり、「赤き月」との繋がりが疑われている人物。
「ドラクロワ宰相は表向き寛大だが、裏では容赦ないという噂よ」三人目の貴婦人が小声で付け加えた。「王国のために働いているふりをして、実は己の蓄財に励んでいるらしいわ」
ヴィオレットは静かに立ち去り、サロンの別の場所へ移動した。社交界デビューから二週間、彼女は着実に情報網を構築していた。特に、女中や執事たちからの情報は貴重だった。彼らは主人の見えないところで多くを見聞きしている。
「ヴィオレット嬢、素晴らしい夜ですね」
振り向くと、華やかな服装の中年男性が微笑んでいた。ルナリア王国有数の情報屋、ヘンリー・レイヴン伯爵だ。表向きは裕福な貴族だが、その実態は様々な秘密や噂を売買する商人。
「レイヴン伯爵」ヴィオレットは優雅に頭を下げた。「お目にかかれて光栄です」
「こちらこそ」彼は彼女の手に口づけた。「噂には聞いていましたが、実物はさらに美しい」
「お世辞が上手なことで」彼女は微笑んだ。「あなたの評判も聞いています」
「まあ、何の評判でしょうか?」彼は陽気に笑った。
「情報に関しては、ルナリア随一だとか」
彼の目が鋭く光った。「賢明な方ですね。では...何かお求めですか?」
「ええ」ヴィオレットは声を落とした。「少しお話しませんか?」
二人はサロンの隅の小部屋に移動した。人目につかない場所で、レイヴンは姿勢を変え、商売人らしい表情になった。
「何を知りたい?」
「ドラクロワ宰相について」ヴィオレットは端的に言った。
「危険な相手を選んだね」レイヴンは眉を上げた。「彼は王国で最も力を持つ男の一人だ」
「だからこそ知りたいの」
「代価は?」
「これを」ヴィオレットは小さな袋を差し出した。中には彼女の母の宝石の一部が入っている。「それと、将来あなたが必要とする時に、私からの恩義を一つ」
レイヴンは袋の中身を確認し、満足げに頷いた。「賢明な取引だ。聞くがいい」
彼は周囲を警戒してから、低い声で話し始めた。「ドラクロワは三十年前、辺境の小貴族から出世した。才能と容赦ない野心で階段を駆け上がったんだ。現国王の父、先代国王の時代から宮廷に仕え、今や実質的な権力者だ」
「彼の弱みは?」
「表向きは完璧だが...」レイヴンは声をさらに落とした。「彼には秘密の趣味がある。古代の魔術と錬金術の研究だ。特に『月の魔術』と呼ばれる禁術に傾倒している」
「月の魔術...」ヴィオレットは月環を無意識に触った。
「彼の屋敷の地下には秘密の研究室があるという噂だ。そこで何をしているかは誰も知らない。だが、時折若い使用人が失踪することがあるらしい」
ヴィオレットは震えを隠した。「他には?」
「彼はセレスト・ブライトウッドを溺愛している。孤児だった彼女を見出し、『聖女』として育て上げた。だが、その関係にも謎がある」
「どういう意味?」
「セレストが最初に姿を現したのは十五年前、彼女が十歳の頃だ。それ以前の彼女の記録は一切ない。まるで...突然現れたかのようにね」
ヴィオレットの心臓が高鳴った。時期は彼女の姉妹が「失われた」時と一致する。
「彼女の出自について、何か情報は?」
「残念ながら何も」レイヴンは肩をすくめた。「ただし...」
「ただし?」
「ドラクロワは毎月、満月の夜に秘密の会合を開いている。参加者は上流階級の一部と、謎の『赤き月』と呼ばれる集団だ」
「赤き月...」ヴィオレットは息を呑んだ。「彼らは何者?」
「それは誰も知らない。だが、古来より存在する秘密結社だという噂だ。王家の力を奪い、新たな秩序を作ろうとしているとも」
ヴィオレットは情報を整理した。ドラクロワは「赤き月」のメンバーであり、リーダーかもしれない。セレストを利用して何らかの計画を進めている。そして彼は月の魔術に関心を持っている。
「最後に一つ」レイヴンは言った。「月光舞踏会について知っているか?」
「王家の伝統的な舞踏会ですよね」
「ただの舞踏会ではない」彼は首を振った。「三年に一度、特別な満月の夜に開催される舞踏会は『時間の儀式』と呼ばれる古代の儀式の日と重なる。そして今年がまさにその年だ」
ヴィオレットは息を飲んだ。前世で彼女が破滅した夜こそ、その特別な満月の夜だったのだ。
「ドラクロワはその舞踏会を何年も前から準備している。何かを企てているはずだ」
「ありがとう、レイヴン伯爵」ヴィオレットは感謝を示した。「あなたの情報は非常に価値がある」
「気をつけたまえ、若き淑女よ」レイヴンは警告した。「好奇心は時に命取りになる」
「忠告、ありがとう」
彼らはサロンに戻り、別々の方向に去った。ヴィオレットの頭の中では、新たな情報が既知の事実と結びつき始めていた。
翌朝、ヴィオレットはアシュフォード邸の書斎で、レイモンドとフレデリックに昨夜の情報を伝えた。
「時間の儀式...」レイモンドが静かに言った。「古代の伝説には、特別な満月の夜に『時間の扉』が開くという話がある」
「時間の扉?」ヴィオレットは尋ねた。
「過去と未来を自由に行き来できるという伝説の力だ」レイモンドは説明した。「しかし、それには『月の加護を受けた者』の力が必要とされる」
「つまり、私のような者の力が...」ヴィオレットは月環を見つめた。
「そして恐らく、セレストの力も」フレデリックが付け加えた。「もし彼女が本当にあなたの双子の姉妹なら、彼女もまた月の加護を受けているはずだ」
「だからドラクロワは私たち二人を必要としているのね」ヴィオレットは理解した。「前世では、彼は私を罠にはめてから処刑しようとした。それは儀式の一部だったのかもしれない」
「だが、今回は違う」フレデリックは彼女の手を取った。「今回は私たちが先手を打つ」
ヴィオレットは頷いた。「そのためには、情報と同盟者が必要よ」
彼女は立ち上がり、壁に地図を広げた。王都の詳細な地図だ。
「これが権力の中心」彼女は王宮を指さした。「ドラクロワの影響力は宮廷内でも絶大。だから私たちは注意深く動かなければならない」
ヴィオレットは赤いペンで宮廷内の重要な場所に印をつけ始めた。舞踏会場、王太子の居室、ドラクロワの執務室、そして秘密の通路とされる場所。
「明日、セレストとお茶を共にする」彼女は言った。「彼女から何か情報を引き出せるかもしれない」
「危険すぎるぞ」フレデリックは懸念を示した。「彼女は敵かもしれない」
「もしくは、救うべき被害者かもしれない」ヴィオレットは静かに答えた。「いずれにせよ、彼女は鍵を握っている」
レイモンドは黙って聞いていたが、ここで口を開いた。「舞踏会場についての情報があります」
彼は地図の前に進み、舞踏会場の構造について説明した。「大広間は三層構造になっています。最上階には貴賓席があり、その直下の二階部分が主要な舞踏スペースです。そして最下層は準備室と裏動線」
「最上階にはシャンデリアが吊るされていますね」ヴィオレットは天井を指さした。
「ええ、王国最大の水晶シャンデリアです」レイモンドは頷いた。「実は、それは儀式の際に特別な役割を果たすと言われています。シャンデリアが月光を集め、増幅させる装置なのです」
ヴィオレットはシャンデリアの位置を注視した。「これは重要な情報かもしれないわ」
「シャンデリアを支えるロープはここにある」レイモンドは地図の端を指さした。「緊急時には切断できる仕組みになっている」
フレデリックは懸念を示した。「まさか、シャンデリアを落とそうというのか?」
「いいえ」ヴィオレットは首を振った。「でも、何かあった時のための保険として覚えておくわ」
彼らは数時間かけて計画を練った。舞踏会までにすべき準備、収集すべき情報、そして万が一の場合の脱出経路まで。
「私たちには時間がない」ヴィオレットは決意を固めた。「舞踏会まであと二ヶ月しかないわ」
「その間に、守護者たちもできる限りの協力をします」レイモンドは言った。「ドラクロワの動きを監視し、『赤き月』についての情報も集めます」
「まずは明日のセレストとの会合だな」フレデリックは言った。「彼女から何が引き出せるか」
その日の午後、ヴィオレットはフレデリックと二人、馬車で都市の西側にある高級住宅街へと向かった。フレデリックの屋敷で会食の予定だ。
「緊張してる?」馬車の中でフレデリックが尋ねた。
「少し」ヴィオレットは認めた。「明日セレストと会うのが不安なの」
「彼女が罠を仕掛けているかもしれないという意味で?」
「それもあるけど...」ヴィオレットは窓の外を見つめた。「もし彼女が本当に私の姉妹なら、彼女を敵だと思いたくないの」
フレデリックは彼女の手を取った。「君は変わったね、ヴィオレット」
「どういう意味?」
「前世の君は、野心だけで動いていたと言っていた」彼は静かに言った。「だが今の君は、他者に対する思いやりを持っている」
ヴィオレットは考え込んだ。「前世では、私は野心のために全てを犠牲にしたわ。そして結局、全てを失った」
「今回は違うんだね」
「ええ」彼女は頷いた。「今回は、守るべきものがあるの」
馬車はフレデリック邸に到着した。二階の会議室で、彼らは他の守護者たちと合流した。全部で五人の男女がそこにいた。
「皆さん、こちらがヴィオレット・アシュフォード様」フレデリックが紹介した。「時間の月環の持ち主であり、私たちの守るべき王家の血を引く方です」
守護者たちは一斉に立ち上がり、彼女に敬意を示した。彼らはそれぞれ紹介された。情報収集を担当するシルヴィア、武術指南役のマーカス、医術と秘薬に精通するエレノア、そして暗殺と潜入のスペシャリスト、ダリウス。
「これが守護者の主要メンバーだ」フレデリックは説明した。「他にも多くの協力者がいるが、安全のため、すべての顔を知る者は少ない」
「皆さん、協力に感謝します」ヴィオレットは言った。「私も全力を尽くします」
会議は守護者たちが集めた情報の共有から始まった。シルヴィアが報告する。
「ドラクロワ宰相は最近、『赤き月』の活動を活発化させています。特に、古代文書の収集に力を入れているようです」
「どんな文書?」ヴィオレットは尋ねた。
「『月の儀式』と『時間の扉』に関するものです」シルヴィアは答えた。「彼は特に、双子の力に関する記述を探しているようです」
「セレストについては?」
「彼女は表向き、慈善活動に専念しています」シルヴィアは続けた。「しかし、毎月の満月には必ずドラクロワの私邸を訪れ、深夜まで滞在します」
「儀式の準備をしているのね...」
エレノアが次に報告した。「宮廷内の薬剤師から情報を得ました。ドラクロワは最近、特殊な薬草を大量に購入しています。その組み合わせは...記憶操作や意識操作に使われるものです」
「ヴィオレット」マーカスが彼女に向き直った。「あなたは武術の心得はありますか?」
「いいえ」彼女は首を振った。「前世でも、そのような訓練は受けていません」
「では、基本的な護身術を教えましょう」彼は提案した。「万が一の時に身を守れるように」
「ありがとう」ヴィオレットは感謝した。
ダリウスは最後に報告した。「私はドラクロワ邸に潜入し、地下室の様子を探りました」
「危険なことをしたわね」
「それが私の仕事です」彼は淡々と答えた。「地下には確かに秘密の研究室があります。そして...儀式のための円形の間もありました」
「何か特別なものは?」
「中央に石の台座があり、その上には月と太陽の紋章が彫られていました」ダリウスは言った。「台座には二つの凹みがあり、何かをはめ込むためのものと思われます」
「月環と...もう一つ?」フレデリックが推測した。
「可能性があります」ダリウスは頷いた。「もう一つ気になることがあります」
「何?」
「地下室には牢があり、そこには『実験体』と呼ばれる人々が閉じ込められていました」彼の表情が暗くなった。「彼らはみな...記憶を失っているようでした」
「ひどい...」ヴィオレットは震えた。
「我々は可能な限り、彼らを救出し、安全な場所に移しました」ダリウスは言った。「しかし、すべてを救うことはできませんでした」
会議は深刻な雰囲気の中で続いた。最後に、フレデリックが締めくくった。
「これからの数週間が勝負だ。我々は『赤き月』の計画を阻止し、ヴィオレットとセレスト、そして王国を守らなければならない」
「セレストも守るの?」シルヴィアが驚いたように尋ねた。
「もし彼女が本当にヴィオレットの姉妹なら」フレデリックは静かに言った。「彼女もまた被害者かもしれない。可能であれば、彼女も救いたい」
守護者たちは互いに視線を交わし、やがて頷いた。
「あなたの判断を尊重します」エレノアが言った。「しかし、彼女が敵だった場合の対策も必要です」
「その通りです」レイモンドが言った。「慎重であることに越したことはありません」
会議の後、ヴィオレットはフレデリックと二人きりになった。彼の書斎で、彼らは窓際に立ち、夕日が沈む街並みを眺めていた。
「本当に私たちにできるかしら」ヴィオレットは不安を漏らした。
「君には力がある」フレデリックは彼女の肩に手を置いた。「未来を知り、過去を変える力だ」
「でも、この月環...残り二度しか使えないの」
「だからこそ、今回は慎重に」彼は言った。「前回の失敗を繰り返さないために」
ヴィオレットは自分の手を見つめた。「私は前世で、セレストを憎んでいたわ。彼女が私を陥れ、私から全てを奪ったから」
「今は?」
「今は...彼女を理解したいと思う」ヴィオレットは静かに言った。「彼女もまた、ドラクロワに利用されているのなら...彼女を救いたい」
フレデリックは彼女の決意に感心したように微笑んだ。「君の優しさが、この戦いの鍵になるかもしれない」
「フレデリック」ヴィオレットは彼を見つめた。「前世では、私はあなたの気持ちに気づかなかった。あなたが私を愛していると知りながら、私は王太子との結婚だけを考えていた」
彼は一瞬動揺したが、すぐに平静を取り戻した。「過去のことだよ」
「でも、あなたの気持ちは今も変わらないでしょう?」
フレデリックは黙ったまま、窓の外を見つめた。「私の気持ちは重要ではない」やがて彼は言った。「大切なのは、君の使命を全うすることだ」
「フレデリック...」
「心配しないで」彼は微笑んで彼女を見た。「私は守護者として、そして友人として、いつでも君の側にいる」
ヴィオレットは彼の誠実さに心を打たれた。前世では彼の気持ちを利用していたかもしれない。だが今回は違う。彼の献身に応える価値のある人間になりたいと思った。
夕食後、フレデリックはヴィオレットを邸宅まで馬車で送った。別れ際、彼は彼女に小さな箱を渡した。
「これは?」
「明日のセレストとの会合で役立つかもしれない」彼は言った。「開けてみて」
箱の中には美しい銀のブローチがあった。月と星のデザインだ。
「これは守護者の護符」フレデリックは説明した。「魔術的な保護効果がある。何か危険があれば、これが反応する」
「ありがとう」ヴィオレットはブローチを胸に留めた。
「明日、セレストとの会合の後で報告を待っている」彼は言った。「気をつけて」
ヴィオレットは頷き、邸宅に入った。夜が更け、彼女は寝室の窓辺に立ち、月を見上げた。明日、彼女は可能性のある姉妹と向き合う。敵か味方か、それはまだ分からない。だが、彼女の心の奥深くには、セレストを救いたいという気持ちが芽生えていた。
「今度は私が策を弄する番よ」
彼女は舞踏会場の図面に印をつけながら、決意を固めた。舞踏会での勝利のため、そして自分と王国の運命を変えるために、彼女は全力を尽くすつもりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます