第2話「月光の記憶」

目を覚ますと、見慣れた天蓋付きのベッドの中だった。ヴィオレットは一瞬、混乱した。つい先ほどまで月光舞踏会で感じていた毒の痛みも、窓から身を投げた時の恐怖も、どこかへ消え去っていた。


「お嬢様、お目覚めですか」


穏やかな男性の声に振り向くと、そこには執事のレイモンド・シャドウが立っていた。黒い服に身を包み、完璧な姿勢で彼女を見つめている。


「レイモンド...?」


彼女は目を擦りながら起き上がった。頭が混乱している。明らかに何かがおかしい。彼女は確かに死んだはずだった。あるいは全て悪夢だったのだろうか。


「今日は社交界デビューの日です。準備を整えました」レイモンドは窓のカーテンを開け、朝の光が部屋に差し込んだ。「アシュフォード家の名に恥じぬよう、完璧なデビューになるでしょう」


ヴィオレットは言葉を失った。社交界デビュー?それは確か6年前のことだ。彼女は19歳だった。時計を見ると、日付は彼女が記憶している「月光舞踏会」の日から確かに6年前を示していた。


「これは...どういうこと...?」


彼女は自分の手を見た。そこには確かに母から譲り受けた月型の指輪があった。月の形をした銀の指輪は、ほんのりと青白い光を放っている。その光が、あの時も彼女を包んでいた。


「お嬢様?何かご不快な点でも?」


「いいえ、レイモンド...私は大丈夫よ」


ヴィオレットは深呼吸した。これが現実ならば、彼女は過去に戻ったのだ。時間を遡り、あの悲劇的な結末を変えるチャンスが与えられたのかもしれない。


「お風呂を用意しておきました。その後、お嬢様のデビューにふさわしいドレスを何着か選んでおります」


「ありがとう」


彼女はぼんやりと答えると、ベッドから出た。鏡の前に立ち、自分の姿を確かめる。確かに6年前の自分だ。若く、まだ社交界の厳しさを十分に知らない19歳の少女。しかし、その瞳の奥には、25歳のヴィオレットの記憶と知恵が宿っていた。


浴室に入り、温かい湯に身を沈めながら、彼女は状況を整理した。あの「月光舞踏会」で起きた出来事は確かに実際に起きたことだ。セレストの裏切り、王太子との婚約破棄、そして彼女の転落死。しかし何らかの理由で、彼女は時間を遡り、過去に戻ることができた。そして、その鍵は彼女の指輪にあるようだった。


「月環...」


湯気の中、彼女は指輪をじっくりと観察した。確かに以前から持っていた母の形見だが、こんな力があるとは知らなかった。指輪を裏返すと、そこには見たことのない文字が刻まれていた。「最初の機会、残り二度」


「残り二度...?」


これは何を意味するのだろうか。ヴィオレットは考え込んだ。もしかして、時間を遡る機会は限られているのかもしれない。最初の機会を使ったからこそ、今ここにいる。残るは二度だけということなのだろうか。


風呂から上がり、レイモンドが選んだドレスを試着しながら、彼女は作戦を練った。今回は違う未来を作らなければならない。セレストに騙されることなく、王太子との婚約を成功させるために、何をすべきだろうか。


「お嬢様、こちらの淡い青のドレスはいかがでしょう。お嬢様の目の色を引き立てます」


「いいえ、レイモンド。今日は...このワインレッドのものにするわ」


彼女は迷わず選んだ。前世での舞踏会で着ていた深紅とは違う、より洗練された色合い。社交界での最初の印象は重要だ。彼女は悪女としてではなく、聡明で魅力的な貴婦人としての評判を築くつもりだった。


「素晴らしい選択です」レイモンドは少し驚いた様子だが、すぐに微笑んだ。「お嬢様の美しさが一層引き立ちます」


ドレスを身に纏い、鏡の前に立ったヴィオレットは、自分の決意を固めた。今度は違う。すべてを変えてみせる。


「レイモンド、社交界について知っておくべきことを教えてくれないかしら」


「もちろんです。まず、ルナリア王国の社交界は非常に階層的で...」


レイモンドが話す間、ヴィオレットは静かに耳を傾けた。彼女はすでにこれらのことを経験しているが、前世では見落としていた細部に注意を払った。特に、セレストや王太子、そしてドラクロワ宰相についての情報を集めることが重要だ。


「セレスト・ブライトウッドについて、何か知っていることはある?」


レイモンドは少し驚いた様子で彼女を見た。「彼女ですか?『聖女』と称えられる令嬢ですね。慈善活動に熱心で、王太子の婚約者候補の一人とも噂されています。なぜ彼女のことを?」


「ただの好奇心よ」ヴィオレットは軽く言った。「彼女と私、どこか似ているとは思わない?」


レイモンドは一瞬、言葉に詰まったように見えた。「確かに...目の色や顔立ちに、いくらかの類似点はあるかもしれません」


その反応にヴィオレットは目を細めた。レイモンドは何か知っているのだろうか。それとも単なる偶然の一致なのか。いずれにせよ、セレストとの関係は今後の重要な鍵になるだろう。


準備を終え、馬車に乗り込みながら、ヴィオレットは自分の立場を再確認した。今、彼女は社交界に足を踏み入れたばかりの新参者だ。しかし心の中では、6年の経験と知恵を持つ策士でもある。この優位性を生かし、今度は勝たなければならない。


「お嬢様、緊張されていますか?」馬車の中でレイモンドが尋ねた。


「いいえ、レイモンド」彼女は自信に満ちた微笑みを浮かべた。「むしろ、楽しみにしているわ」


馬車は王都の中心部へと進んでいった。初めて訪れる貴族のサロンは、彼女の社交界デビューの場となる。前世では、彼女はここで多くの敵を作った。その美貌と知性で一気に注目を集めたが、同時に「傲慢」「計算高い」といった評判も立てられた。今回は違う戦略を取るつもりだ。


サロンに到着すると、すでに多くの貴族たちが集まっていた。ヴィオレットは深呼吸し、レイモンドに見守られながら入場した。


「アシュフォード家のヴィオレット嬢です」


執事の声が場内に響き、多くの視線が彼女に集まった。冷静に観察すると、彼らの目には好奇心と警戒が混ざっている。没落貴族の娘がなぜ突然社交界に現れたのか、と疑問に思っているのだろう。


「ヴィオレット・アシュフォード嬢、初めてお目にかかります」


最初に彼女に声をかけたのは、中年の女性貴族だった。前世では彼女に冷たくされた相手だ。


「お初にお目にかかります、グリーンヒル伯爵夫人」ヴィオレットは優雅に頭を下げた。「お招きいただき、心から感謝しております」


彼女の礼儀正しい応対に、伯爵夫人は少し驚いたようだった。「ええ、若い才能に社交界の扉を開くのは私たちの務めですもの」


「伯爵夫人のような方にご挨拶できて光栄です。あなたの慈善活動についてはよく耳にしています」


その言葉に、伯爵夫人の表情が柔らかくなった。「まあ、よくご存じで...」


前世の経験を活かした社交術で、ヴィオレットは次々と貴族たちとの関係を築いていった。傲慢さを抑え、謙虚さと知性をバランスよく見せることで、彼女は好印象を残すことに成功した。


サロンの一角で、彼女は若い貴族たちのグループと会話を交わしていた時、ふと視線を感じた。振り向くと、サロンの入口に立つ白いドレスの少女がいた。セレスト・ブライトウッド。


彼女はまさに「聖女」の名にふさわしい純粋さを纏っていた。金色の髪は優しく波打ち、青い瞳は澄み切っている。社交界の人々は彼女を見るなり、敬意と愛情を持って挨拶した。


ヴィオレットは深呼吸し、彼女に近づいた。前世の敵だが、今はまだ何も起きていない。彼女の真の性格を知るためには、近づくべきだ。


「初めまして、セレスト・ブライトウッドさん」彼女は穏やかな微笑みを浮かべて挨拶した。「ヴィオレット・アシュフォードと申します」


セレストはヴィオレットを見て、一瞬驚いたような表情を見せた。「まあ...本当に似ていますわね」


「え?」


「いいえ、何でもありません」セレストはすぐに微笑んだ。「ヴィオレットさん、お噂はかねがね伺っておりました。美しいだけでなく、聡明だとか」


「お噂に聞いていたとは...光栄ですわ」ヴィオレットは警戒しながらも、友好的に応じた。「あなたこそ、『聖女』と呼ばれるほどの方。ぜひお近づきになりたいと思っていました」


二人は言葉を交わしながらも、お互いを観察していた。ヴィオレットには、セレストの目に一瞬浮かんだ違和感が気になった。何かを知っているのか、あるいは感じているのか。


「私たち、どこか似ていると思いませんか?」セレストが突然尋ねた。「目の色や顔立ち...」


「そうですわね」ヴィオレットは冷静に答えた。「不思議な偶然ですね」


セレストはじっとヴィオレットを見つめ、そして微笑んだ。「ええ、偶然...でしょうね」


その会話は、他の貴族が二人に声をかけることで中断された。しかしヴィオレットの心に、セレストとの奇妙な類似性についての疑問が残った。


サロンを後にし、邸宅に戻ったヴィオレットは疲れを感じながらも、今日の成果に満足していた。初日から多くの貴族との良好な関係を築くことができた。前世とは違う道を歩み始めたのだ。


寝室に入ると、彼女はすぐに鏡の前に立った。自分の顔をじっくりと見つめる。そして、セレストの顔を思い浮かべた。確かに、彼らは似ている。それは単なる偶然なのだろうか。


ふと、鏡の中に見覚えのない影が映ったような気がした。振り向くと、そこには何もなかった。しかし再び鏡を見ると、彼女の背後にセレストの姿がおぼろげに映っているように見えた。


「姉さん...」


かすかな囁きが聞こえた気がして、ヴィオレットは震えた。幻覚だろうか。それとも何か別の...


「何なの...?」


彼女は指輪を見た。月環は静かに光を放っていた。時間を遡る力を持つこの指輪。そしてセレストとの不思議な類似性。そこには何か重要な繋がりがあるのではないだろうか。


ヴィオレットはベッドに横になりながら、これからの計画を練った。この第二の人生、彼女は何としても勝利せねばならない。そのためには、セレストの秘密、月環の力、そして自分自身の過去についても探る必要があるだろう。


「今度は、私が策を弄する番よ...」


窓から差し込む月明かりが、彼女の決意の表情を照らしていた。

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