第7話

 けれど、シゼグは、ほんのちょっと指先に力を込める前に、口を開いてしまった。


「テル。もしよかったら、俺の嫁になってくれないか?」


 ああ、そうなれたらいいのに!

 シゼグのお嫁さんになって、いつまでも、この村で、あの家で、幸せに暮らせたら――。



 ふいに、私の周りで微かに空気が揺らめいて、どこか遠くから、一瞬の風が、そっと吹き込んだ。

 何かを私に思い出させようとする、密やかな囁きのように。

 ――わかってる。私はいつか、ここを去る。


「シゼグ、ごめん……」

「……ああ、やっぱ、ダメか。俺、不細工だしな……」


 指先を離して、しおしおとうなだれるシゼグ。


「違うの! 確かにシゼグは馬面だしジャガイモみたいだけど、私、馬もジャガイモも大好きだからっ! 馬は可愛いし、ジャガイモは美味しいし……」


 慌てて早口でまくしたてながら、ふと顔を見ると、シゼグが石積みに『の』の字を書いていじけていた。……しまった……。


「あ、ご、ごめん、シゼグ! あのね、そういうことじゃないの。……私、この世界の人間じゃない」

「知ってるよ! あんたは〈マレビト〉だ。だから、たぶんダメだろうとは思ってたんだ……。〈マレビト〉は、たいていみんな、帰っちまう……」

「そ、そうなの? 帰れるの?」

「えっ、あんた、知らなかったの? そうなんだよ、昔は〈マレビト〉ってどうやって帰るのかわからなかったらしいけどさ、曾じいさんの代以降は帰り方がわかってるんだ。いや、どうやって帰るのかは知らないけど、どこに行けば帰れるのかはわかってるから、帰りたくなった〈マレビト〉は、そこへ行く。エレオドラ山の山頂にね。

 元の世界のことを覚えてる〈マレビト〉は、まず間違いなく、いつかは帰ってゆく。でも、元の世界の記憶がない人は、帰らないでここに住み着くこともある。中には、記憶があっても、ここの人間と結婚して、そのままこっちに残った人もいるんだ。だから、俺、少しはチャンスがあるんじゃないかと……。俺、うぬぼれすぎちゃったな」


 シゼグは、ふと顔を上げて、まっすぐに私を見た。


「あんた、帰りたいのか?」

「ううん。でも、たぶん、私は違うの。帰るか帰らないか、自分で選べないの。……風に、呼ばれるの。それがいつかはわからないけど、きっと、そんなに遠い未来じゃない」

「そうか……。〈マレビト〉にも、いろいろあるんだな……」


 また俯くシゼグ。そう簡単に納得できるような話じゃない気もするんだけど、ここの人たちの頭はとっても柔軟らしい。何でもすんなり納得してしまう。


「でも、私、シゼグが好きよ。お嫁さんにはなれないけど、ここにいる間、あなたのそばにいたい」

「そ、そうか!?」


 がばっと顔を上げるシゼグ。下向いたり上向いたり、忙しいなあ……。


「じゃ、じゃあさ、嫁がダメなら、ここにいる間、俺の妹になってくれよ!」


 ……へっ?


「俺、弟しかいないじゃん。ずっと妹が欲しかったんだ。しかも、こんな美人で可愛い妹だったら、最高だ! ……それに、妹だったら……、いつかは嫁に行くもんじゃん。もし妹だったら、あんたがいつかここからいなくなるとしても、そのときは、俺にはとっても可愛い器量よしの妹がいたんだけど、とっても遠いところに嫁に行って、そこで幸せに暮らしているんだというつもりでいられる。あんまり遠くだからお祭りに里帰りしてきたりもできないんだけど、どんなに離れていても、二度と会えなくても、俺たちはずっと仲の良い兄妹同士で、永遠に切れない家族の絆で結ばれているんだって思っていられる……」


 そうか……。なるほどね。それもいいかもしれない。


 でも、私は別にそれでもいいけど、シゼグはほんとに、それでいいの?

 私、ここにいるあいだだけ、あなたの恋人になっても良かったんだけど。

 お嫁さんにはなれないけど、今晩一晩だけならあなたのものになってもいいって、ちょっと思ったんだけど。


 ……でも、そういうのは、やっぱり、やめたほうが良いのかな。


 そう、これでいいんだ。シゼグは私に心を残さないほうがいい。私を忘れたほうがいい。

 ひとときでも恋人として過ごしてしまったら、シゼグはきっと、私に想いを残す。後で辛い思いをする。このままなら、私たちの間にひそかに芽生えていた恋は、はっきりとした輪郭を得ることもないまま、ただの、淡く美しいひとときの思い出になって、シゼグは後でそれを、甘酸っぱくほろ苦い青春の一幕として懐かしく思い出すことができる。……そのほうがいい。

 あなたの、きっと初めてのくちづけは、あの娘――〈女神の杯〉亭でずっとシゼグを見てた、エクボの可愛い女の子――のためにとっておいてあげて。


「いいよ、妹にして」

「ほんとか! じゃあさ、あのさ……お願いがあるんだけど」


 妙にもじもじ照れてるシゼグ。

 お願いってなに? 小首を傾げると、シゼグはますますそわそわして言った。


「あのさ、『兄ちゃん』って、呼んでくれない? 今」


 なんだ、そんなこと? なにもそんなに照れなくても……。シゼグが照れると、私も何だか恥ずかしいよ。


「……兄ちゃん」


 小声で呼んでみたら、シゼグは、両手を胸の前で握りしめて叫んだ。


「…………萌え~~~~~!!」


 ……なに、それ。そういうシュミがあったんだ……?


「おおっ、妹よ!!」


 いきなりガバっと、力いっぱい抱きしめられた。

 う……、ちょっと汗臭いんだけど。……まあ、いいか。シゼグだし。

 それにしても、さっきまで、指先が触れただけで震えてたのに、妹モードにシフトしたとたんにコレなのか……。切り替えの早い人だなあ……。


「よぉし、兄ちゃんがタカイタカイをしてやるぞ~!」

「え、ちょっと、キャーーー!?」


 シゼグはいきなり石組みを飛び降りて私を持ち上げ、本当にタカイタカイをした。

 やめてよ、高くて怖いってば!

 悲鳴に構わず、私を宙に投げ上げては受け止めたり、くるくる回したり。目が回る。頭の上で、星空も回る。怖いけど、可笑しい。なんだか笑い出しちゃう。

 笑いながら逃げる私を、シゼグが捕まえて、また空に高く差し上げる。星空に手が届くかも。

 なんだか笑が止まらない。シゼグもげらげら笑ってる。

 星降る丘の上、月の光に照らされて、ふたりは子どもみたいに大笑いして追いかけっこしてはしゃぎまわった。いいトシして何やってるんだろう……とは思ったけど――たぶんシゼグも思ってたと思うけど、ふたりともハイになってるから、おおはしゃぎが止まらない。


 とうとう息を切らして、ふたりで草地に倒れこんだ。

 仰向けに見上げれば、ふたりを見下ろす月まで笑っているみたい。


 ほんとに、きれいな夜。

 ロマンチックな月明かりの下では、シゼグの不細工な顔も、少しはハンサムに……は、見えなかった。うん、やっぱりシゼグは、どう見ても不細工だ。

 ……でも、だからどうだっていうんだろう。シゼグの魂は、誰よりハンサムだ。


 お嫁さんでも妹でも、どっちでもいいよ。私には、どっちだって同じこと。

 シゼグ。私の愛しい人。

 好きよ。

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