神秘なる其の悪魔

真緋間 優翔

神秘なる其の悪魔

 冬の夜。束の間の静寂がおとずれた午後十一時四十二分。孝志は浅い眠りから目覚めた。

 どうして目が覚めたのか。微睡む思考ではまともに考えることもできず、半ば直感的に原因に思い至った。

 飼いネコがいない。いつもは枕もとで丁寧に体を丸めて寝息を立てている彼の姿が見えなかった。

 布団を退け起き上がろうとして激しい胸の痛みに襲われた。息ができない。肺が焼けるようにじりじりと圧迫している。やっとのことで咳を通して酸素を吸い込むことができた。しかし喉の奥に痞える違和感はいつまでも残り続ける。

 上着を羽織り四畳半の部屋を出て、音を立てないように廊下を歩く。いたるところが腐食した狭い階段――ここを通るたびに孝志はまるで自分の身体を見ているよう気分にさせられた――を下りて外へとつながる重たいガラス扉を精一杯に押した。

 瞬く間に凍てついた空気が口と鼻から気管を伝い肺へと突き刺さった。呼吸を止めてそれをやり過ごすと孝志はゆっくりと息を吸った。そして咳きこむ。血の混じった痰を吐き出す。積もった雪の上にそれは張り付いた。口の中に広がる苦みに顔をしかめながら、多少の罪悪感に苛まれる。空には雪が降りだしていた。

 世界はまるで時が止まったように、辺り一帯はすべてが凍りついてしまっていた。見慣れた向かいの松の木もおぼろげな光を放つ街灯も、何もかもが白銀に煌めいている。

 孝志は雪上に残された小さな足跡をたどりながら河原までやってきた。川のほとりで立ち止まり呼吸を整えながらあたりを見まわした。足跡はここで途絶えている。しかしどこにも彼の姿を見つけることはできなかった。

「タロウ」

 愛猫の名を呟く。返事があるはずもなく、しかし孝志はもしやと期待していたのだが返事はおろか物音ひとつ、川の流れをのぞいてはなにも聞こえてこなかった。

 本当に世界の時が止まり、私はここに取り残されてしまったのだろうか。そんな考えが頭をよぎると急に体が震えだした。ようやく自分の手が冷え切っていることに気がつきズボンの中に隠した。それもむなしく孝志の体温は銀世界に奪われていく。

「にゃあ」

 不意に近くで鳴き声がして孝志はそちらを振り向いた。

 するとそこには猫を抱えた少女がすっと立っていた。はじめ幻覚かと自分の目を疑ったのは、彼女が妙に眩しく(正確に言うのなら彼女の輪郭、体の線が光を纏っているように見えた)思えたからだ。まるで世から浮き離れた存在であるかのように。

「タロウ」

 猫に手を伸ばすと少女はそれをかわすように背を向けて孝志から遠ざけた。

「私のタロウを返してはくれないか」

 急速に熱が失われていく手には構わず少女に問いかける。

「だめ」

「どうして」

 そう訊けば彼女は愛おしそうに猫の頭を撫でた。彼はさも落ち着いた様子でその手を受け入れている。

「私の方がいいみたい。だからあなたには返せない」

 そんなことがあるだろうか。孝志が少年だった頃から一緒にいるのに、初めて出会った知りもしない人間に懐くことなどあり得るのだろうか。

 しかし自然と怒りは湧いてこなかった。無論、少女に対する怒りである。彼女はどこか違う雰囲気(こちらはどう説明したらいいのかわからないが何か異質なとでも言うべきか、とにかく他に例を見ない特質のような)を纏っているからだろう。

 途方に暮れる私を哀れに思ったのか少女はこちらを振り返るとやや苦しそうに言った。

「返してあげてもいいけど、その時はあなたを連れて行かないと」

 私が言葉を発する前に彼女は言葉を継ぐ。

「どちらにしてもあなた達はもう会えないの」

 その言葉にこれまでの違和感に気づく。この世界はやはり止まっている。降っていた雪は落ちることなく空中に留まり続け、月の明かりも動くのをやめ、川だけがその流れを緩めずに泳ぎ続けている。

 彼女は天使だ。おそらく私はあの薄暗い四畳半の上で息絶えているのだろう。

 それなのに。

「どうしてタロウを」

 今や全身だけでなく声までもが震えていた。

「さあね。でもこの子が私の方がいいって言うから」

 再び彼女が猫の頭を撫でる。彼はこちらを見て目を細めた。

「……わかった。せめて、もう一度だけ触らせてはくれないか」

 私は縋るような思いで懇願する。しかし彼女は残念そうに首を振った。

「もう帰らないと」

 それでも手を伸ばす私を置いて少女は空へと昇っていく。

「タロウ」

 最後に愛しい名前を呼んだ。世界は息を吹き返したように、雪が降り始め月の明かりが明滅する。

 白銀に染まる意識の中で不意に耳慣れた鳴き声が聞こえ、やがて私は意識を失った。


 四畳半ほどの病室で孝志は目を覚ました。思うように体が動かせずに諦めてそのまま横たわっていた。だんだんとぼやけていた視界がはっきりしてくる。

 外では変わらず雪が降っていた。遠くにあの川が流れているのが見える。私の足跡はまだあそこに残っているのだろうか。いつしか雪の上にうずくまる彼と出会った日のことが思い出された。

 いまや明瞭になった意識の隅で孝志は長年連れ添った愛猫に思いを馳せ涙を流した。

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神秘なる其の悪魔 真緋間 優翔 @mahimahito

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