第2話 婚約者という肩書き

 九条グループ主催のチャリティーイベントから一夜明けても、気疲れが抜けなかった。

 慣れないハイヒールで足は痛み、玲奈の冷たい視線が頭から離れない。


(あれが、“この世界”ってことなんだ……)


 自分がいるべき場所ではない、と突きつけられた気がした。

 だけど同時に、引くわけにはいかない理由もあった。


「神谷さん、朝食はダイニングでお取りください。九条様もお席にいらっしゃいます」


 控えめなノックと共に、メイド服を着た女性が告げる。

 彼女たちはみな一流ホテル並みの接遇をこなし、けれど感情はほとんど見せない。


(九条家の“日常”なんだ、これが)


 襟元を整え、私はダイニングへ向かった。


* * *


「おはようございます……」


 重厚なドアを開けると、長いダイニングテーブルの奥に、司が座っていた。

 シャツにジャケットを羽織っただけのシンプルな出立ちなのに、絵になる。

 彼の周囲だけ空気が澄んでいるようにさえ思えた。


「……遅い。十五分前に食事は出されている」


 司は新聞から視線を上げずに言った。

 言葉に棘はなかったが、確実に“評価”されている気がする。


「す、すみません。まだ慣れてなくて……」


「婚約者であるなら、まずは“家の時計”に合わせることだ」


 短く指摘されるだけで、胸がざわつく。

 彼の言葉はいつも理路整然としている。そのぶん冷たく、距離がある。


(やっぱり、この人と“婚約者”なんて……本当に無理があるよ)


 だが、次の瞬間だった。


「……だが、昨日の玲奈への対応は悪くなかった」


「……え?」


 思いがけず、褒められた……?

 いや、彼にしてみれば“評価”した、という程度かもしれない。


「彼女は我が家の関係者の中でも特に社交に長けている。無神経なようで、言葉を選ぶ。隙を見せたら最後だ」


「うん……それ、すごくよくわかりました」


「お前は怯えながらも、一歩も引かなかった。見込みがある」


 淡々とした口調。なのに、そのひと言が妙に心に残った。

 見込みがある――誰かにそう言われたのは、いつぶりだろう。


 私が黙っていると、司はナイフとフォークを置き、初めて視線をこちらに向けた。


「今日から礼儀作法や社交の基礎を教える講師が来る。午後からは装いの指導も入る」


「そ、そんなに急に……!」


「この家に“のんびり”という言葉は存在しない。君がここで過ごす以上、それに応じてもらう」


 そう言って再び新聞に視線を落とす司は、まるでビジネスの契約書を読み込むような顔をしていた。

 私は、無意識に息を吐き出す。


 九条司。

 この人の言葉ひとつに、一喜一憂している自分が、少し悔しい。

 けれどそれ以上に、彼の“本音”が知りたいという気持ちが、日に日に大きくなっていた。


「姿勢が崩れております、神谷様。肘を締めて、背筋はまっすぐ」


 午前のレッスンは、テーブルマナーと社交の基本だった。

 指導にあたっているのは、かつて皇族の指導も行ったという女性――重森先生。

 彼女の指先ひとつで、空気が張りつめる。


「お返事は?」


「……はい、すみません!」


 何度目の指摘だろう。背筋を伸ばし直すたびに、汗がじわりと滲む。

 昼食をはさんで、午後は立ち居振る舞いと、衣装合わせに入った。


 美桜は、鏡の中の自分を見て息を呑む。

 デザイナーが持ち込んだ仮縫いのドレスを身にまとった自分が、まるで別人のようだった。


「まるでお人形さんみたい……」


「九条様の“婚約者”なのですから、当然です。覚悟を決めていただかないと」


 淡々と重森先生が言う。


 婚約者。

 その言葉が、まだうまく胸に馴染まない。


* * *


「どうだった?」


 夕食後、書斎に呼ばれた。

 司は、昼間とは違うラフなシャツに着替え、ソファに腰かけていた。

 冷たいペリエの瓶とグラスが用意されていて、美桜にも勧められる。


「……地獄でした」


 思わず本音が漏れた。


「重森先生、笑わないんですよ。ずっと睨まれてる気がして……お箸の持ち方まで直されたの、生まれて初めてです」


 愚痴のように口にすると、目の前の司がふ、と笑った。


 ……笑った?


「それは……初めて聞いたな。君のそういう正直なところ」


「え?」


「この家に来てから、君はずっと“様子を見ている”ような目をしていた。今のほうがずっと自然だ」


 ソファに背を預け、司はグラスを回す。

 氷がカランと鳴った音が、妙に心地よく響いた。


「……最初は、冷たい人だと思ってました」


「事実、冷たいだろう。僕は、目的のためなら感情を抑える人間だから」


「でも、ちゃんと見てくれてるんですね。今日のことも……玲奈さんのことも」


 彼は、少し黙ってから答えた。


「君には、ちゃんと強さがある。それは――隠そうとしても、わかる」


 美桜は、その言葉に息をのんだ。

 誰にも見せてこなかった自分の内側を、初めて肯定された気がした。


「……ありがとうございます。なんだか、少しがんばれそうです」


 司の目が、ふっと柔らいだように見えたのは――気のせいではなかった。


* * *


 その夜、美桜が自室に戻ると、机の上に封筒が置かれていた。

 中には、匿名のメモが一枚。


 ――九条司は、本気であなたを“婚約者”にするつもりなんてない。


 美桜の背筋に、冷たいものが走った。

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