許嫁なんて聞いてませんけど!?
禄壱肆-Roisi-
第1話 突然の婚約者
朝食の目玉焼きを眺めていた私に、父が突然そう言ったのは、日曜ののんびりした朝だった。
「美桜、お前、許嫁がいるんだ」
は?
口にしていた味噌汁を思い切り噴き出しそうになるのを、寸前で堪える。
「……今、なんて?」
「だから、許嫁がいるんだって。向こうのご両親と、うちで決めてた話なんだ」
聞き間違いじゃない。間違いなく“ゆいなづけ”と言った。
頭が真っ白になるというのはこういうときに使う言葉だと思った。
「ちょっと待って、それっていつの話? 私、聞いたこともないよ?」
「……お前が中学生の頃だな。まだ話せるタイミングじゃなかったんだよ」
中学生って、何年前だと思ってるの?
そんな大事なこと、どうして今まで一言もなかったの?
というか、現代日本に本当にそんな話ある?
「ふざけてるの?」
「ふざけてなんかない。向こうも了承済みだ。もうすぐ正式に顔合わせの場が設けられることになってる」
「……相手って、誰?」
胸がざわついた。父の言葉が、まるで芝居がかったドラマの台詞のようにしか聞こえないのに、どういうわけか現実味だけがずしりと重く響いている。
父は一呼吸置いてから、静かに名前を告げた。
「九条司(くじょう つかさ)さんだ」
その名前は、ニュースや経済誌で何度も聞いたことがある。
九条グループ――日本でも五本の指に入る巨大財閥の跡取り。
「う、嘘でしょ……。なんでそんな人が、私なんかの……」
「理由は、うちの会社が九条グループに買収されたからだ」
カチャ、と父が箸を置いた。
私の視線は、焼けすぎた目玉焼きに落ちたままだった。
「……それってつまり、うちが買われた代わりに、私が差し出されたってこと?」
「言い方は悪いが、そうなるな。向こうは“形式だけでいい”と言ってる。……だが、それでも、これを断れば、会社ごと切り捨てられるかもしれない」
父の顔には、覚悟のようなものがにじんでいた。
私はそれを責めることができなかった。うちの会社は、ここ数年ずっと業績不振だった。ようやく立ち直ったかに見えたけれど、それも一時的なものだったのだろう。
「美桜……苦しい選択をさせてすまない。だが、お前の将来も悪くはならないはずだ。向こうは一流の人間だ。何も不自由はさせないと言ってくれている」
「……それは、私の意思なんて関係ないってこと?」
「…………」
父は黙った。
私はその沈黙に、もう何も言えなくなった。
その日から、私の人生は静かに、でも確実に動き始めていた。
誰かに選ばれた“許嫁”として。
* * *
「神谷美桜さんですね。九条様のご婚約者候補として、こちらでお迎えいたします」
数日後、私は東京・港区にある高級タワーマンションの前にいた。
九条司と正式に対面する“顔合わせ”の場が用意されたのだ。
案内された部屋は、まるでホテルのスイートルームだった。広く、静かで、冷たい空気が満ちている。
「九条様はただいまお戻りになります。少々お待ちくださいませ」
執事のような風貌の男性が頭を下げて退出した。
私はソファに座り、深呼吸をした。心臓がうるさいほどに鳴っている。ああ、逃げ出したい。
だが、数分後。
扉の開く音と同時に、空気が変わった。
現れたのは、黒のスーツに身を包んだ長身の男性。
凍てつくような気配を纏いながら、彼は一歩ずつこちらへ歩いてくる。
「君が……神谷美桜か」
低く澄んだ声。
見下ろしてくるその目は、冷たくも美しかった。
「九条司です。……婚約の件については、了承しています。が」
彼は立ったまま、私を値踏みするように見た。
「誤解のないように言っておきます。僕は、結婚に興味はありません」
――ああ、やっぱり。
これは、ただの形式。それ以上でもそれ以下でもない。
でも。
でも、だったらなんで、私はこんなに悔しいの?
――私、この人と婚約するの? 本気で?
九条司。大企業・九条グループの跡取り息子。
初対面で放たれた「結婚に興味はない」の一言は、想像以上に鋭く胸に突き刺さった。
「とはいえ、形式上の婚約者として振る舞ってもらう必要はある。そういう取り決めだから」
彼の言葉には、感情が欠けていた。まるでビジネスを進めるような口調。
私が頷くと、それ以上の説明はなく、彼は背を向けて歩き出す。
「さあ、案内する。今日から君は“九条の婚約者”として、一定期間ここで暮らしてもらう」
「えっ……! い、今からここに住むってこと?」
「ああ。家族同然と見なされる以上、外部の目もある。ここで生活しながら、必要なことを覚えてもらう」
そんなの、聞いてない。
でも司の表情には「当然だろう」という意思が刻まれていた。
* * *
案内された部屋は、広くて豪華で、でもどこか無機質だった。
白を基調としたインテリア。高級な香り。家具ひとつにも一流のブランドが使われていることが見て取れる。
私は荷物を置き、ベッドに腰を下ろした。
「……なんなのこれ……本当に、私の人生なの?」
混乱は収まらなかった。けれど同時に、もっと強い不安もあった。
ここにいれば、司だけでなく、彼を取り巻く“世界”とも関わることになる。
そしてそれは、私にとって決して優しくないものだと、すぐに思い知らされる。
* * *
翌日。
九条グループの関連企業が主催するチャリティーイベントが行われると聞き、私も顔を出すよう司に言われた。
社交の場に慣れていない私は不安でいっぱいだったが、「形だけの婚約者」として同行するのも務めらしい。
会場となったのは、東京湾の見える超高層ホテルのバンケットルーム。
煌びやかなドレスをまとった女性たち。ビジネススーツを着こなした男性たち。
誰もが“成功者”の空気を纏っていた。
「あなたが……神谷美桜さん?」
後ろから声をかけられ、振り向くと、目を見張るような美人が立っていた。
栗色の巻き髪に、流行のドレス。口角に浮かんだ笑みは上品なのに、どこか刺々しい。
「私は如月玲奈(きさらぎ れいな)。九条様とは幼なじみで、ずっと親しくさせてもらってるの」
「あ、はじめまして……神谷美桜です」
私が会釈すると、玲奈は涼しい笑顔を崩さないまま、一歩近づいてきた。
「九条様が婚約するなんて、驚いたわ。あの人、誰ともそういう話をしてこなかったのよ? 本当に不思議な話」
……嫌味、なのかな。
「でも、すごいわね。突然こんな華やかな場所に飛び込んで。うまくやっていけるかしら? “場違い”って、案外すぐにバレちゃうものよ?」
ああ、これは完全に敵意だ。
でも、ここで気圧されたら負ける気がした。
「……ありがとうございます。努力しますね。“許嫁”として、恥ずかしくないように」
玲奈の目が一瞬、鋭くなった。
けれどすぐにまた笑みを浮かべると、彼女はくるりと背を向けて去っていった。
その後ろ姿を見送った私は、心の奥で静かに息を吐いた。
(これが……“戦い”の始まりってことなんだ)
婚約なんて、ただの形式――そんなの、わかってる。
でも、私を“消そう”とする人たちがいるなら、黙って従うつもりなんてない。
私がここにいる意味を、証明してみせる。
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