Induced Presence Field 2
ザ・コアから通路を抜けて、外周に設置されたルシッド・コーム・フロアへと上がるラスター専用のエレベーターに乗り込む。ほどなく目的のフロアに到着しドアが開くと、リズ・スリーが先導するように歩き始めた。
粗ぶったノアの様子からすると、いつも以上に負荷が大きいかもしれない。そう思いながらノクティライトの壁面がぼんやりと明かりを放つ通路を進んでいく。不安はないが、不穏ではある。
通路の床に足音は吸い込まれていく。まるでこの通路そのものが、記憶と感情を別の場所へと誘うかのように、静かに音が溶けていく。ルシッド・コームに辿り着くと、リズ・スリーが認証を済ませ、扉を開いた。ヴァレリア標準時間にして5:48、少し早いが、齟齬がある記憶に触れるには、それなりの調整が必要だ。
六角形の壁面で区切られた神殿のような空間、照明は天井のハニカム構造に沿って柔らかく広がっており、まるで記憶の奥底から漏れ出た光のようだった。その中央に繭型ポッドがふたつ、円形の台座上に対になるように設置されていた。中央の床下には、記憶の高次元投影技術の核となるモジュールユニットが埋め込まれており、ふたつの繭型ポッドへとナノチューブの神経線が整然と伸びている。記憶の一雫が再演される“劇場ではない劇場”、静かなるハニカム――ルシッド・コームに、リズ・スリーの後から静かに歩を進めるアイラは、まさにその神殿に現れた記憶を司る巫女にように見えた。
クライアントはいつも通り先に繭型ポッドに入りパルス・キャスト・システムとのリンク確立・神経ナノチューブによる脳波同調を開始している。その傍らで客室専属リズが無言でポッドのコンソールを操作しているが、案の定、あまり上手くいっていないようだ。
同調が上手くいっていれば必要のないことだが、リズ・スリーを伴ってクライアント側の状況が表示されているホログラムのディスプレイを覗くことにした。普段ならクライアントの顔を見ることなどないのだが、このままでは再演することもままならない。相手がどのような状態か確認する必要がある。禿げ上がった頭、皺だらけの顔、口元はこれから体験する再演に期待しているのか、薄っすらと笑みを携えながらポッドの中に横たわっていた。一見、人の良さそうな老紳士に見え、ノアが口汚く罵るような人物には到底思えない。
Il ne faut pas juger les gens sur la mine.(人は見掛けによらないわね)
客室専属リズの指先が何度も調整を試みているようだが、表示される同調率は微かに触れるだけで、一定以上から上がらず、コンソールを操作する度に、クライアントの表情は苦悶で僅かに歪む。
同調率が低い。エルピスの記録と彼自身の記憶が掛け離れている証拠だ。再演をする上での同調率の低さは致命的だ。
「エラ、何とかならない?!」
アイラは、助けを求めるように中空へ声を上げると、天井の照明の一部が震えるように瞬く。
「要請を受理しました。クライアントとの契約により承認済み。許容範囲限界の15%出力を上げます。パルス・キャスト時に双方の負荷が高くなりますが、問題ありませんか? 承認を求めますアイラさん?」
中空から抑揚のない冷たい音声が響いて危険性を告げた。アイラの承認を待つ。クライアントが同調を開始してから20分は経っているだろうか。現段階で、既に彼の負荷は相当なものになっているはずだ。出力を上げることで、さらなる苦痛に見舞われるかもしれない。しかし、そこにアイラが同調することによって、その負担を少し肩代わりできるはずだ。やるしかないのは分かっている。
「いいわ、私が同調を始めたら遠慮なくやって!」
アイラは迷わず返答し、自らも繭型ポッドに入って横になり、神経ナノチューブを首裏のインタフェースに接続した。コンソールに近づいてきたリズ・スリーを視界の隅で確認し命令する。
「リズ、頼んだわ」
こんなことなら、今日はニュートラル・ホワイトだったわね、と思いながら彼女は目を閉じた。リズ・スリーがコンソールをタップする微かな音を聞きながら、彼女は、エルピスに記録された白い闇に落ちていった。
エルピス・カートリッジに記録されている記憶がアイラの中に流れ込みはじめる。最初に感じたのは痛み。続け様に身体の芯に何かが突き刺さるような感触――そう、エラが出力を上げたのが分かった。
頭の中が痺れる。しかし、まだクライアントと同調していないのか、白濁した記憶の奥のあるだろう波音の気配すら感じることができない。足りない。同調するのではなく、こちらから引き寄せなければならない。
Zut!(クソっ!)
「エラ、あと5%! こっちに回して!」
アイラは心の中で叫ぶ。
遠くでエラな応答したような気がした次の瞬間、全身に鋭い痛みが走ると、微かに波音が響き、ノイズ混じりの誰かの声が途切れ途切れに聞こえた。怒鳴り声と猫撫で声。しかし、まだ足りない。
「あと2%だけ! やって!!」
そう唸るように念じ、クライアントの記憶を掴むように強引に手を伸ばす。視界が揺れ、白と黄昏色が混じり始め、波打ち際の白波が微かに浮き上がってくる。しかし、これでも、まだ足りない。
もう少し。
あとちょっとだけなのに。
そう思った時、彼女の伸ばした手に力強い何かが重なり、白い幕を一気に引き下した。同時に「同調完了、パルス・キャストを定刻通り開始します」とエラが告げた。ヴァレリア標準時間6:00、ぴったり予定されていた再演時刻であった。
視界が開けると、波間に膝まで浸かった状態で、沈んでいくアウレオンを震えながら見つめている女性――自分を確認できた。潮風に髪が揺れる。クライアントの記憶の中で、彼の妻の姿を発見した時点からの再演のようだ。多分、まだ遠くにいて、こちらを見ているはずだ。
自分の手に視線を落とすと、健康的に見える血色の良いシミ一つない肌の下に、痣に覆われた痩せた腕が透けて見える。彼が望む妻の姿と、記録されている実際の姿がブレて重なっているのだ。白い麻のドレスもところどころ破けていて、脚は擦り傷だらけだ。口内には微かに滲んだ血の味がする。
これは最悪だ。そもそも彼の中の記憶が全部間違っているのだ。海辺で散歩だって? 冗談じゃない。これは絶望と諦めによって、現実から逃げるためにアウレオンと共に海に沈もうとしている女性の姿ではないか! しかも、これは――彼の“十二番目”の妻との記憶だと、エルピス・カートリッジから流れ込んでくる記録が告げている。
そして、これから起こることの何もかも全てをアイラは把握した。把握したくなかった。血のように赤くなって沈みゆく美しいアウレオンをただ見つめながら、彼の妻――彼女が感じていたであろう絶望がアイラの中に入り込んできた。いや、実際の彼女の感情は麻痺してしまっていて何も感じていなかったかも知れない。これはクライアントが見ていた彼女の姿、エルピス・カートリッジに記録された姿である。それ故に、絶望を感じているのは、他の誰でもなく、ここにいるアイラ自身であることを意味している。この人工海岸から海面に映るアウレオンの赤い反射の中に一刻も早く身を沈めてしまいたい思いに駆られ、一歩前に進もうとする。
静かに揺れる波の音の中に、荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえてきた。それを察して彼女の身体が強張った。
Oui, je n'ai pas pu m'en sortir.(ああ、逃げられなかった)
「やあ、マリー? 探したじゃないか?」
『このクソ女が! 余計な手間を掛けさせやがって!』
彼の望む記憶の優しく包み込むような声と、怒りに満ちた真実の声が、背後から同時に耳に届く。片や心地良く心を撫でるように、片や鼓膜を突き抜け心を引き裂くように。
彼女は振り向く。怯えているであろう表情を笑顔に変えながら。
「アントニオ? こっちに来てよ、アウレオンがとても美しいわ」
『ア、アントニオ……お、お願い……こっちに、こっちに来ないで……』
彼女の懇願する弱々しい声に蓋をするように、アイラは穏やかな声色を重ねた。なるべく齟齬が埋まるであろう言葉を選ぶが、記録との乖離が激しく頭の中がぐらぐら揺れる。
小走りに、そして荒々しく、駆け寄ってくる彼の姿は、先程ポッドで見た老人とはまるで別人で、頭頂部が薄くなり始めているが、まだまだ若く生気があり、力が満ち溢れているように見える。優しい笑顔と鬼のような形相が混ざり合う、なんとも醜い表情しており、アイラは思わず海の方へ一歩引いてしまう。ダメ、ここは堪えなければ。
海の中に入ってきた彼は、右手を彼女の左肩にそっと触れ、沈みゆくアウレオンの方へとやんわりと身体を向けさせる。真実の彼は力任せに肩を鷲掴みにして、強引に引き寄せるようにしたが、彼女が抵抗した弾みで海の方へと身体を向いた。
「本当だね。こんな美しい光景を独り占めにできるのは、なんて贅沢なんだろう!」
『逃げたって無駄なことくらいわかるだろ? ここには俺たちしかいないんだからなっ!』
美しさに感嘆の声を上げる一方で、いやらしい笑みを浮かべながら勝ち誇っている声が重なる。なぜなら、ここは彼が所有する別荘を中心に据えたプライベート・ビーチであり、叫んだところで誰にも声は届かないからだ。静かな夫婦の時間と、激しい暴虐の時間。
彼はそのまま自身の胸元に彼女を引き寄せて、大事な物を愛でるように彼女の髪を撫でる。アイラも彼にもたれ掛かるように身体を寄せるが、もう一方は、彼女の髪の毛を掴み力一杯に引っ張ってから跪かせる。彼の手のひらが彼女の頬に触れる。彼の平手打ちが彼女を痛めつける。
「『ああ、アントニオ』」
なんとか彼女の声に合わせることができたが、次の瞬間には、爽やかな柑橘系の香水の匂いと、油ぎった男性特有の獣臭さが同時に鼻腔を刺激して、アイラは吐き気を催す。
「君は本当に綺麗だな」
『お前は本当に無様だな』
見上げた彼の瞳に、慈愛と、蔑んだ相手への歪な欲望の色が浮かぶ。それは自分だけの大切な存在への愛情と、支配した所有物への欲情に他ならない。本当に最低だ。
やがてアウレオンが水平線の向こうへ沈んで、闇が訪れる。始まるのだ。彼が“散歩”と呼んでいる思い出の出来事が。
「さあ、こっちへおいで」
『さっさとあっちへ歩けっ』
彼が彼女の手を、優しく、そして激しく引いて行く。彼女は恥じらいながら、顔を苦痛に歪ませながら、このプライベート・ビーチの片隅にある岩陰へと連れられていく。
こんなものが“散歩”であるものか。あそこへは行きたくない。ああ、嫌だ。こんなの耐えられない。
そして、岩陰に辿り着くと彼は彼女を優しく、冷たい砂の上に横たわらせる。突き飛ばして転ばせる。
彼が来る、彼が――。
「マリー、君は永遠に僕の物だよ」
『パパっ! それは僕の所有物だって言ったよね?!』
彼が愛を囁き始めたのと同時に、背後から息を切らせて走ってきた、まだ幼さが残る彼の息子――青年が怒鳴り声を上げた。
「『お願い、アントニオ――』」
彼女の言葉は続かなかった。
ああ、おぞましい。
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