第20話 お姉さんと据え膳

 私はストローを意味もなくいじりながら、話し始めた。


 アパートの階段で酔い潰れたあの日の夜、隣人の大学生に助けてもらい、その子にゲロを吐いてしまったこと。

 お詫びにお菓子を渡したら、一緒に食べないかと誘われ、そこから宅飲みに誘ったりしているうちに、いつの間にか週一ペースで部屋にお邪魔するようになったこと。


 その他、酔った勢いでかけた迷惑の数々。

 そんなこんながあって仲良くやれていること。


 一通り私が話し終えると、実里はどこか驚いたような顔で口を開いたまま私を見つめていた。

 てっきり途中で茶化してくるかと思ったのに、ずっと静かだった気がする。


 私がその様子を疑問に思っていると、こほんと咳払いをした彼女の顔が妙に真剣なものへと変貌した。


「水萌、それちょっとヤバくない?」

「……え? ……え、え?」


 開口一番に飛んできたその一言に、私は固まった。

 ぽかんと口を開けたまま、間抜けな声を繰り返す。

 

「ヤバいってゲロのこと……? 確かにあれは」

「ちが〜う! ヤバいのは水萌、あんたのバグりまくった距離感よ! 二十五歳にして男子大学生の何たるかをまるで分かっていない!」

「実年齢……というか、えっ……バグ? 私、分かってない……の?」

「はぁ……水萌、いい? 大学生の男の子ってね、それはもう性欲の一番お盛んな時期なわけ。女に飢えまくって朝から晩まで脳内でエ◯動画再生してんの。脳みそ海綿体でできてんの。〇〇〇ブレイク寸前なの」


 実里はテーブルに身を乗り出して、指をピンと立てながらとんでもないことを力説する。

 目はやたらとギラついてて、お店に配慮してか声は半分くらい囁きなのに、なぜか凄まじい迫力がある。


「その晴翔くんって子も例に漏れず」

「そんなはずないと思うけど……」

「あたしが言うんだから間違いない。昨晩も水萌にあんなことやこんなことをする妄想で◯◯◯◯(自主規制)が捗っただろうなぁ……」

「ちょっと実里!?」


 店内BGMのスローなジャズが一瞬ピタッと止まったような錯覚すら覚える。

 

「要するにね、ヤる気がないのに男子大学生の部屋に上がり込んで酔っ払ってむらむらさせた挙句に爆睡はあり得ないってこと。据え膳もいいところよ」

「むらむら……してたのかしら、晴翔くん……」

「疑うまでもないでしょ」


 あの時は家主を硬い床に寝かせてしまい自分はふかふかのベッドで眠ってしまったことに罪悪感を覚えていたが、もっと他に反省すべき点があった……?


「たぶん一回挿れるかどうかの瀬戸際まで行ったんじゃないかなぁ」

「い……挿れるって……モーニングコーヒーを……?」

「何言ってんの? セ◯◯◯に決まってんじゃん。セ◯◯◯よ、セ◯◯◯」

「分かったから連呼するのやめてっ!?」


 分かってる、さすがに分かってる。挿れるって、モーニングコーヒーの話じゃないことくらい。ちょっとボケてみただけ。

 私だって立派な大人のお姉さんだ。人並み程度に知識はある。


 だけど、晴翔くんが私で……なんて考えもしなかった。


「顔赤くしちゃってさ~。水萌って見た目はいかにも百戦錬磨な感じなのに処女ってのがすごいギャップだよね。◯〇モンで言ったら伝説中の伝説よ」

「う……だってそれは……」


 手っ取り早くその辺にいる男を捕まえて経験をしておけば、なんて言われたことは何度かあった。

 だけど私にはその気持ちが分からなくて。

 

「貞操観念があるのは知ってる。初めては本当に好きな人と、でしょ?」

「そんなちゃんとしたものでもないけど、なんとなくね……改めて言葉にされると結構恥ずかしい………」

「今更でしょー。肝心の好きな人が高校の時から今に至るまでずっと見つかんないままなのも知ってるし……まあそんな水萌だからあたしは今まで口を酸っぱくして、男の前で安易に酔ってタガを外すなって忠告を重ねてきたわけだし、これまでだって過度に酔っぱらう相手は選んでた……じゃあつまりその晴翔くんって子は水萌のお眼鏡にかなったってこと?」

「それは……」

「平たく言えば、好きなのかどうか」


 晴翔くんを恋愛対象としてみることができるのか。

 実のところ、考えたこともなかった。

 実里のようにただただ友だちみたいな感覚で接していたから。

 ゲロ吐いたのにあんなに優しくしてくれて、笑わせてくれて、元々隣人だったこともあってか自分でもびっくりするくらいすぐに信用していた。晴翔くんの前でなら酔っても大丈夫だって、思っちゃってた。


 だから……。


「……分からない。晴翔くんは凄く面白い子で、ノリ良くて、優しいからなんでも受け入れてくれて……一緒に居ると心地が良い、だから特別に思ってる。実里みたいに、私にとって大切な存在なの」


 好きって言葉にするのも違う気がして、変に濁すような言葉だけが口からこぼれた。


 だって好きって言ったら結婚とかその先も……ってことだよね?

 だったらなんか違う気がする。

 漠然と、上手く言葉にすることの出来ないもどかしさはあるけど。


 それでも確かに、私の中で彼はかけがえのない大切な存在になっている。


「ふ~ん……あたしみたいに大切な、ね。知り合って間もない大学生くんに並ばれたってちょっとショックだなぁ。酔った勢いのやらかしに付き合ってるのもあたしだけだと思ってたし。別に気の許せる子ができてたなんて……!」


 冗談めいた口調で言う実里。


「あの日は別の子と予定があるって言ってたから」

「あは、そだったね」


 焼肉の件はその日に実里の都合が悪いと事前に聞いていたため、せっかくだし晴翔くんを誘うことにしたのだ。

 彼のレスポンスの早さやフットワークの軽さになんとか救われた形となる。


「と・に・か・く!」


 実里は手元のグラスをくるくると回しながら、私の目をじっと見据えた。


「その大学生くんは無防備な格好で自覚のないスキンシップを重ねてくる水萌にムラムラしてる可能性が99.9%ってわけ。だからいつ襲われてもおかしくな…………襲われても? …………いや、待って」

「な、なに」


 饒舌にまくし立てていた実里の口が、ふいにぴたりと止まった。眉がわずかに跳ね、瞳の奥で火花が散るような光が弾ける。それはまさに、脳内を一筋の電流が駆け抜けたような――直感に支配された顔だった。

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