第12話(2)

その日は突然訪れる。


「失礼いたします、ピョートル・アリョシュコフでございます。決裁を頂戴しに参りました。」


巻き戻った後で彼に会うのはこれで2度目であり、心づもりはしていたが、入室して来た姿を見ると脳が震えた。

受け取った書類も同様に新規の証明案件であった。

説明を聞く。

E伯爵が帝都に邸宅を改装するため、費用の融通を受けるのに、領内の土地の一部に抵当を設定する、その契約書のサインの認証である。

サインは、公証に保管してあるものと一致していることを、職員2人の目で確認を取り、上役にも諮った。

申請に添えられるべき書類にも不足はない。

代理として窓口に足を運んだ執事も、子爵による身分保証書を持っている。

書類はピョートルの説明順に並んでおり、アレクサンドラは戻ったり飛ばしたりせずに目を通すことができた。

今回は特におかしいところは見つからず、こちらに印を、と追加で差し出された認証書を受け取り、アレクサンドラは公証長の印を取り上げた。

この手の認証は公証の最も基本的な職務の1つであり、かつ公証長に直接決裁を要請できるということは、ピョートルがまだ一般職員の中層の職位から動いていないということか、とアレクサンドラは殊更ゆっくり印を書類に押し当てた。

相手がピョートルであっても、ピョートルの気性をある程度知っていても、何らかの口は利かなければならない。

他の職員から、声がけがあるという情報は聞いているはずだ、このまま黙って終わらせれば不自然に感じるだろう。

1度目に構うなと声を荒らげたこともあり、無言で終わればまだ機嫌を損ねたままだと誤解をさせてしまう。

丁寧に印を離す冷静な表情の裏で、心はどうしようかどうしようか、と右往左往し、とうとう書類を返す段階になって、アレクサンドラはようやく口を開いた。


「あなた……公証の仕事は長いの」

「はい、勤めさせていただいてから7年目になります」

「そう。今の職務はどう、もう慣れてはいると思うけれど」


他の職員と寸分違わず同じ問いを発することができて密かに安堵していると、ピョートルは少し躊躇いながら、


「そうですね……正直に申し上げますと、少々物足りなく感じております」


と言った。


「物足りない?」

「はい。基本の職務が非常に重要だという認識がございましたので、いち早く習得しようと専心し、近年は目標が達成できたと自負しております。

若輩者ではございますが、自分ではもう少し難易度の高い職務にも挑戦できると思っております。

機会を与えてくだされば、きっとお役に立ってみせる所存でございます」


アレクサンドラは、少しの沈黙を経て、残念ながら自分は補佐であり人事権は持っていないが、そのような希望があることは、機を見て父伯爵に伝える、と微笑みと労いの言葉を返した。

ピョートルは、期待の眼差しで書類を受け取って下がっていった。



要するに、適切な能力評価を受けていないことを主張したいのだろう。

眉間を指で解し、アレクサンドラはアカンサス模様の天井を見上げる。

上昇志向は際立っているとは思っていたが、ここまで強かったのか、とアレクサンドラは、例の、ピョートルが上役の不手際を処理した案件を思い出した。

彼の迅速な立ち回りは他から見ても見事であり、だからこそ、かつてアレクサンドラはピョートルを重用した。

もっとも今の彼女は、父伯爵が昇格の判断を下さなかったことに安堵していた。

抜擢されれば、アレクサンドラとの接点が劇的に増え、再び破滅への道が開かれる、そう思うと父伯爵に感謝もした。


それからまた、いきなり全ての中堅と上役とを飛び越させて、アレクサンドラの側近に等しい地位に付けたのは過剰だったのではないか、そういう気持ちがアレクサンドラには生まれていた。

能力は適切に評価する必要がある。

ピョートルの功績は称賛を受けるべきものだった。

しかし、だからといってあの抜擢は、ピョートル本人はもちろんそれで満足するだろうが、彼以外の追い抜かれた者達はどう思うのか、職員を僅かだが知り始めてから、徐々にそう考えようになっていた。

思い返せば最初の時も、父伯爵は、他に示しが付かないとピョートルの抜擢を渋った。

あの時は、能力の高い者を適切に評価しないのはおかしいと、と父伯爵を内心で侮っていたが、公証の組織全体で考えれば、評価の方法があれではおかしい、アレクサンドラの方が誤っていたとしか思えなくなっていた。

しかも無茶な引き立てを行っておきながら、その引き立てをした本人が地獄へ突き落としたのは、最悪の一手だった。


……どうして、彼を降格させたのだっけ。

アレクサンドラは目を閉じて考える。

引き上げたのは優秀だと感じたから、降格させた原因は、気に食わない者と認識が変わっていたところ、職責を超えて出しゃばったからだった。

変わったのは、確か、婚約者がいると聞いてから、という記憶が残っている。

聞いた時の血の沸騰と、直後に急降下した冷たさも、今更ながら思い出した。

婚約者がいるなどそう珍しいことでもないのに、どうしてあの時そこまで険悪に思ったのか、それから、"今"のピョートルには既に婚約者がいるのかどうか、それらをつらつらと考えるうち、ガツン、というあの衝撃に襲われそうな予感がして、アレクサンドラははっと目を開けた。



後日、ピョートルの上役の訪問を受けた際に、ピョートルの働きぶりと能力についてさりげなく尋ねてみると、上役の評価には侮蔑が多大に含まれており、そのまま参考にすることはできなかった。

ただ、連呼された青二才、という言葉が元々持っている妬みから、能力は高いという評価はしていることは推測ができたため、その部分だけ拾い上げておいたが、ピョートルの希望は、父伯爵へ何と言って伝えたらいいか迷い、棚上げになった。

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