遺産は奪わせない

広川朔二

遺産は奪わせない

母が息を引き取ったのは、肌寒い三月の夜だった。その日は少しだけ熱が下がり、昼間にはわずかに笑顔も見せていた。だが、夕食の準備をしようと台所に立ったほんの十数分の間に、母は静かに、その呼吸を止めていた。


「母さん!」


何度も呼びかけ心臓マッサージを試み、救急車を呼んだ。運ばれた病院での「ご臨終です」という言葉でようやく現実が脳に届いた。


通夜と葬儀の段取りは、すでに何度も想定していた。延命措置をしないという意思確認、互助会の契約、地元の寺との連絡先――すべてファイルにまとめてあった。

母との十年は、そういう準備の連続だった。


兄と姉には、すぐに連絡を入れた。兄の宗一郎からの返信は淡白だった。


《了解。通夜の日程だけ決まったら教えて。仕事あるから。》


姉の美和子からは、電話ではなくスタンプ一つだけの返信だった。


母の死から二日後、葬儀場には久しぶりに顔をそろえた三人の兄妹がいた。とはいえ、心の距離は随分と遠かった。兄も姉も、ここ数年は一度も母の様子を見に来ていない。介護のことも、入退院のことも、何度伝えても反応はなかった。仕事が忙しいだの、家庭があるだの、言い訳は山ほどあった。


「で、話なんだけど」


焼香が終わった後、兄が声をかけてきた。親族控室。まだ通夜の余韻も残る中で、宗一郎はあっけらかんとした口調で言った。


「遺産のこと、俺のほうで手続き進めといたから。ほら、お前、手続きとかよくわかんないだろ?」


「……え?」


「だからさ、相続のこと。とりあえず代表者として俺が申請してる。役所には『全員同意済み』ってことで出してるから」


「ちょっと待って、それって……」


「放棄ってことで通すよ。介護とかしてたのはわかるけど、うちにも教育費とか家のローンあるし、こっちはこっちで大変なんだよね。な? そっちに残った家もあるし、それでチャラってことで」


口調は軽いのに、言葉の一つ一つが鈍器のように重く、胸に刺さった。姉の美和子は、それを当然のことのように隣でうなずいていた。


「私たちも忙しい中で時間作って来たんだし、手続きまで面倒見てくれるなんて、助かるよね」


何かがおかしい――いや、すべてがおかしい。母の介護に顔も出さず、葬儀に遅れて来て、話すことがこれなのか。


その日の夜、宗一郎から封筒が届いた。中には一枚の紙が入っていた。


《相続放棄に関する同意確認書》


すでに日付も記入済みだった。筆跡を見た瞬間、背筋が冷たくなった。その署名欄には、自分の名前が書かれていた。自分では、絶対に書いていない字で。


署名されたはずのない同意書を前にして、身体が震えた。恐怖ではない。怒りとも少し違う。そこに込められていたのは、「絶対に見下してくるつもりでいる」という兄姉の強い意志だった。


「バカにするのも、いい加減にしてくれ」


ポツリとつぶやいたその声は、自分でも驚くほど冷静だった。


それから数日間、仕事の合間を縫って市役所や法務局を回った。手始めに戸籍謄本と遺産分割協議書の提出状況を確認し、登記情報を調べた。兄が勝手に進めていた手続きは、まだ完了していない。だが“進行中”であることは明白だった。


「相続の代表者が長男で、他の相続人はすでに同意済みになっていますね」

窓口の女性職員の言葉に、胸の内がざわつく。


同意なんて、していない。母の介護に費やした時間――日々、汚物を拭き、風呂に入れ、褥瘡じょくそうに薬を塗り、徘徊を止め、深夜の救急車にも付き添った時間。そのすべてを、兄姉は「当然のこと」として踏みつけにしていた。


「よろしければ、家庭裁判所に相談されるといいかもしれません」


法務局の職員がそう勧めてくれた。相続放棄に関するトラブルは、珍しい話ではないらしい。


その足で、家庭裁判所の無料相談会に申し込んだ。対応してくれた若い司法書士は、幸司の話を丁寧に聞きながら首を傾げた。


「うーん、それ、もしかすると筆跡偽造の可能性がありますね。鑑定までは費用がかかりますけど、録音とか、介護の記録とか、何か証拠になるものはありますか?」


証拠。


その言葉で、ふと思い出した。母がデイサービスに通うようになった頃から、介護の記録として日記をつけていた。何気ないやりとりを書いたメモ帳もあるし、食事や服薬の写真、笑顔を見せてくれたときの動画もスマホに残っている。中には、母がはっきりとこう言っている場面もある。


「こんなにしてもらって、幸司には感謝しかないわぁ……あんたには、全部あげたいくらいよ……」


記録をかき集め、整理しながら涙がこぼれた。母の声が、画面の中で優しく響いていた。


その日の夜、仏壇に向かって静かに誓った。


「母さん。全部、取り返すから」


翌日、司法書士から紹介された弁護士事務所に予約を入れた。その足で、兄が手続き中だと言っていた銀行にも行き、母の遺言書の存在を尋ねた。預けている場合があるからだ。


すると、窓口の行員が「こちらの記録にあります」と言って、封筒の存在を示してきた。それは、公正証書による正式な遺言書だった。開封はまだされておらず、弁護士の立ち会いを経て開示できるという。


──きっとある。母は言っていた。「ちゃんと書いたから、安心してね」と。


幸司は静かに頷いた。もう、ひとりで黙って耐えるだけの時間は終わりだ。





調停の場は、冷たい空気が張り詰めていた。家庭裁判所の一室。中央にテーブル、左右に幸司とその代理人弁護士、そして兄・宗一郎と姉・美和子、その背後に顔を伏せるような態度の弁護士が並ぶ。


宗一郎は、開口一番こう言い放った。


「もう済んだ話でしょ。遺言なんて残してない。相続放棄の書類だって、こいつが同意してたんだ。何を今さら」


だが、幸司側の弁護士が静かにファイルを開いた。


「それについて、本日、正式に申し立てをさせていただきました。筆跡鑑定の結果、この同意書は依頼人のものではないと判断されています。また、弁護士立ち会いのもと、公証役場にて保管されていた公正証書遺言が確認されました。これが、原本の写しです」


宗一郎の顔色が変わる。美和子が小さく「えっ」と声を漏らす。


弁護士が読み上げたのは、母が自筆の想いと共に残した遺言内容だった。


> 「長年にわたり私の介護を一身に引き受けてくれた幸司に、実家の不動産及び預貯金の大部分を相続させます。幸司以外の子らには、法定相続分の一部を与えるが、それ以上の相続は一切望みません。」


──それは、十年の介護が報われる瞬間だった。

母は、ちゃんと見ていてくれた。記憶も、判断力も、最後まで確かだった。


だが、反撃はそれだけにとどまらない。幸司はもう一つのファイルを差し出した。


「これは、母の介護日誌と、日常の記録です。訪問看護の報告書、ケアマネとの連絡記録、介護認定の結果、そして……兄と姉に送ったメッセージアプリのやりとりも含まれています」


調停委員がそれらに目を通しながら、宗一郎に視線を向けた。


「ここに“母がまだ元気なんだから、介護なんて大げさ”“そっちが好きでやってるんだろ”といったメッセージがありますが、これはご本人のものですか?」


「そ、それは……昔の話で……」


「それに、この文書を無断で提出された件について、虚偽による法的手続きの悪用が疑われています。状況によっては、民事ではなく刑事的措置の検討も必要かと」


宗一郎と美和子は、明らかに動揺していた。さっきまでの余裕ぶった態度は、跡形もない。沈黙の中、幸司は静かに、しかしはっきりと言った。


「母の介護をしたことは、私にとって“負担”じゃありませんでした。だけど……こうして死後にまで、母の気持ちを利用して金を取ろうとしたあなたたちのことだけは、絶対に許せません」


調停は、その後も数回行われたが、結論は動かなかった。遺言と証拠により、幸司が遺産の大部分を正当に相続することが決まり、兄と姉には法定相続分のごく一部のみが分配されることとなった。


さらに筆跡偽造に関しては、弁護士の手により刑事告発が検討され、宗一郎は後日、地方紙の小さな記事にその名が載ることになる。


調停が終わった翌月、春の風がようやく柔らかさを帯び始めた頃。幸司は、実家の仏壇の前に座っていた。蝋燭の火が小さく揺れ、母の遺影が微笑んでいる。


「全部、終わったよ。母さん」


兄と姉は、それぞれわずかな取り分だけを手にして、調停の最終日には無言のまま立ち去った。遺言の存在、筆跡偽造の件、そして、かつてのメッセージアプリやメールの記録が全て裏目に出た彼らは、もう二度と幸司の前に現れることはなかった。


家の名義は幸司のものになり、預金も管理できるようになった。だが、幸司はすぐには何も変えようとは思わなかった。母の使っていた食器も、好んでいた座布団も、まだそのままだ。


今はまだ、こうして話しかけることでしか、心の隙間を埋めることができない。


「俺は、ちゃんと見てたから。母さんが笑ってくれた日も、苦しそうに眠れなかった夜も、全部覚えてるよ」


母の介護が「犠牲」ではなく「時間」だったことを、ようやく誰にも脅かされずに胸を張って言えるようになった。


その夜、幸司は古いアルバムを開いた。若い頃の母の写真。浴衣姿で祭りに行った帰り、縁側でスイカを頬張る姿。病気になる前の、活気に満ちた顔。


ページの間に、ふと一枚の封筒が挟まっているのに気づいた。宛名には、自分の名前が手書きされていた。


「幸司へ。もし、これを見つけたなら」


震える指で封を開けると、そこには母の筆跡でこう綴られていた。


> 「あんたがいてくれて、本当に幸せでした。

>  老いていくのは怖かったけど、毎日隣で笑ってくれたから、私は笑っていられたよ。

>  家は、あんたが好きにしていいよ。壊しても、直しても、売っても構わない。

>  でも、できたら……いつか、誰かの居場所にしてあげてほしい。

>  私があんたにしてもらったみたいに。」


涙が頬をつたうのを拭いもせず、幸司は封筒を抱きしめた。


──いつか、この家を介護施設とつなぐ在宅ケアの拠点にするのもいいかもしれない。母と過ごした時間が、別の誰かの支えになれば――そんな未来を、今は思い描ける。


静かな夜。窓の外では、小さく桜が咲き始めていた。すべてを乗り越えた幸司の顔には、かつての疲労ではなく、確かな自信とやすらぎの影が宿っていた。


母が愛したこの家で、また一歩、新しい春が始まる。

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