第37話 メジャーリーガー

 三年生になって、周囲はすっかり受験モードに切り替わっていた。


 この時代、大学入学共通テスト(旧:センター試験)の前身である「共通一次試験」が1月に実施されていた。国公立志望の生徒はまずこれを受ける必要がある。後継になるセンター試験とは違い、私立大学では全く使えないという特徴がある。とはいえ、所属している理系クラスではあまりこの違いは関係ない。理系に進む生徒は基本的に国立志望が多くなる。このクラスも例外ではなく国立志望ばかりだからだ。

 スポーツ推薦組は大体秋にセレクションを受けて大学進学が決まることになる。

 俺も声は掛かっていたが、ドラフトで良い球団に指名されたらプロに行くつもりだったので、全て保留にしている。

 野球部員は春のセンバツの結果もあって進路が比較的容易に決まりそうだ。クラスメイトの殺伐とした雰囲気と野球部の雰囲気の差が面白い。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


 夏の予選が始まってしばらくして、俺は顧問を引き連れて偵察に出ていた。午前中に奈良市内で用事を済ませてから、阪奈道路に新しくできた餃子の王将[1]に立ち寄る。

 阪奈道路の王将は、生駒山の麓にある大型店舗で、自動車専用道路の途中にいきなり現れる巨大な建物だった。ドライブ中に突如視界に入るその姿は、なかなかインパクトがある。


 頼んだのは天理ラーメン定食。これ結構好きなんだよなぁ。

 関西地区にある餃子の王将では店舗ごとにオリジナルセットがあって、天理ラーメンがメニューにたまにある。

 天理ラーメンは名前の通り、奈良・天理のご当地ラーメンだ。醤油ベースのスープにたっぷりの白菜が入っている。知名度は全国区じゃないが、個人的にはかなりうまいと思っている。奈良に来たなら一度は食べておくべきだ。


 そんなことを考えていると、顧問が口を開いた。


「今から見に行く選手、本当に現地で見る必要あるのか?」


 地方大会で完全試合を達成した選手ではあるけれど――と、言い添えてくる。


「いや、彼はすごいですよ。僕たちは今から時代を見に行くんです」


 そう返して、会計はいつものように顧問に任せた。

 これから見る選手の姿を想像して、自然と胸が高鳴っていた。


 大阪大会の舞台は藤井寺球場。近鉄バファローズの本拠地だ。築60年近く経つ古びた球場で、外野が人工芝なのが俺にはどうしても馴染めない。正直、あまり好きな球場ではなかった。


 目当ての試合の前の試合がまだ終わっていなかった。バックネット裏に腰を下ろして周囲を見渡すと、見慣れた顔がいた。阪急のスカウトだ。軽く挨拶を交わして、ついでに今年の阪急の低迷についてクレームを入れておく。


「今年の田中選手、被本塁打の数がひどくないですか?」


 田中選手は俺が推しているアンダースローのピッチャーだ。今はキャリアの晩年。全盛期からは程遠く、今季の防御率は4.33。それでもチーム内では一番まともな数字というのだから、阪急の先発陣は末期的状況にある。


 そんな話をしていると、ようやく目当ての試合が始まった。

 見に来たのは、堺の公立高校のエース。地方大会で完全試合を達成した注目の選手だ。

 マウンドに立つ彼を見ながら、俺は隣のスカウトに尋ねた。


「どうですかね?阪急としては、評価してます?」


「球威は認めるけど……あのフォームがな。プロじゃ通用しないんじゃないか」


 確かに、彼のフォームは一風変わっていた。

 一度捕手に背を向けるように体をひねってから投げる――のちに「トルネード投法」と呼ばれるスタイルの萌芽が、すでにそこにあった。球威はあるが、制球は荒れる。しかも投げる動作の都合で盗塁への対応がまったくできない。


 後に彼は社会人野球を経て近鉄に入団する。しかし、この独特なフォームの修正を求められ、それに反発。球団に複数年契約を突きつけて、交渉は決裂。任意引退扱いとなり、そこからメジャーリーグへと挑戦していく。


 当時のプロ野球には、海外FAなんて制度はなかった。なぜ彼がメジャーに行けたのかというと「任意引退」という状態が鍵になる。

 任意引退選手は日本国内の球団には所属できない。これは、近鉄が相変わらず保有権を持っているためだ。ただ、日米協定の都合で任意引退選手はメジャー球団からすればただのFA(フリーエージェント)選手扱いになるという、抜け穴のようなルールが存在していた。


 抜け穴が存在した背景として、そもそもこの時代に、メジャーリーグへ行こうとする選手が現れるとは、誰も思っていなかったのだろう。それくらいプロ野球とメジャーの実力差は圧倒的だった。


 選手会のストライキの影響で、本来は日本球界に来るようなレベルではない、メジャーでスタメンを張る選手が一時的にヤクルトでプレーしたことがある。月間打率は6割。3打席連続本塁打。圧倒的な成績を残してたった一年で帰国し、その翌年に引退した。

 引退間際の選手でもこの打率だった。いかに日米間でレベル差が大きかったかが分かる。

 だからこそ、そんな世界に単身飛び込んでいった彼の勇気には、素直に敬意を抱かざるを得なかった。

 試合は、援護が得られずに彼の高校が敗れた。

 彼はまだ2年生、まだ甲子園を目指すチャンスはある。ベンチへ戻る彼の背中に拍手を送りながら、俺は地球の反対側にある夢の舞台に思いを馳せていた。


 その後、次の試合のデータを読み込んでいると、不意に女子高生から声をかけられた。


「もしかして……庄内くんですか??」


 変装していたはずだったのに、あっさり見破られたらしい。

 曖昧な笑みを浮かべると、女の子は嬉しそうに声を上げる。黄色い歓声が周囲に響き渡り、周囲の視線が一気に集まった。


 やばい、と感じた頃にはもう遅かった。

 人、人、人。俺の周囲はいつの間にか人だかりに囲まれていて、試合観戦どころではなくなっていた。黄色い声が飛び交い、誰かが写真を撮ろうとカメラを構えてくる。中には名前を連呼してくるやつもいた。


 顧問の姿が見えたとき、心底ほっとした。

「車、出せますか」と小声で告げると、顧問も事態を察したようでうなずく。


 10分後、俺は後部座席に身を沈め、押し寄せる人波をかき分けるように球場を後にしていた。

 本当は、このあとにあるPFの試合を見たかったのにな。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


 帰りの車内では、ずっと物思いに耽っていた。

 メジャーか。平成以降のプロ野球選手なら、一度は意識したことがあるはずだ。俺も例外じゃない。


 正直に言えば、今の日本のプロ野球なら、俺は即戦力として活躍できる自信がある。

 日本球界のレベルが急激に上がるのは、もう少し後の話だ。


 もしプロに進めば、その時点でメジャーへの道は事実上閉ざされる。メジャーという進路もあってもいいのかもしれない。

 そんな考えに浸っていると、突然車が止まった。顧問が地図を広げながらぼやく。


「……道、間違えたかも」


 どうやら、阪奈道路を走るはずが、別の道に入り込んでしまったらしい。


「国道308号?まぁ国道だし、きっと大丈夫っすよ。地図によると暗峠ってとこを越えれば生駒市に抜けるみたいですし」


 軽い気持ちでそう言った俺だったが――まさか、このあとにとんでもない地獄が待っているとは、このときはまだ知る由もなかった[2]。


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[1] 阪奈生駒店は惜しまれつつも2015年閉店。悲しい


[2] 国道308号の生駒山を越える暗峠区間は傾斜が日本で一番大きい国道として有名。

 庄内君は顧問の軽自動車を後ろから押しながら生駒山を越える羽目になった。

 国道は道路構造法で最大勾配を12%と定められているが、暗峠は最大勾配37%。頭がおかしい。馬力のない車は途中でエンストする(1敗)。ベタ踏みしても10km/hとかしかでない。関西在住の方は是非お試しを。

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