7. 愛と陽だまりの出会い I meet the Sunny Spot.

 ――マドレーヌの味がしない。


 ◇◆◇

 

 「元々この世界には、寿命も性別も……神も存在しなかった……?そしてお母様が、お母様が――」

 「って言ってんだ――分からねぇか?」

 

「……な、なんでそんなことを……?」

 

 先ほどまで感じていた暖かさが霧消むしょうし、暗闇の荒野が訪れる。こわくて母の目を見られなかった。

 

「なんで?……ぁあ〜そうだなぁ。その方が都合が良かったから……だなぁ……。地獄パンドラに詳しいお前なら知ってるだろ?


 だ。いや〜地獄パンドラの奴らはとんでもねぇこと考えるよなぁ。あいつらこそまさに……あまりに……ってやつだ。


 まぁ彼奴等のにはこの俺でさえ辟易へきえきとするぜ……ククッ、まぁその方法に助けられて来たんだがなぁ。

 

 そうだ、パンドラ文献を紐解ひもといてるうちに気がついたんだよ……彼奴等ヤツらのおおよそ文学界リテラチュアの人間には考えつかねぇ人間的すぎるやり方は、文学界こっちじゃ本当に使えるってなぁ。

 

 なんせこっちの世界のやつはそんなに非道な方法は思いつかねぇからなぁ、初めて俺がこの世界でやったら効果的なモンばっかだったぜぇ。差別はいい!とくに分割統治はなぁ。地獄パンドラ最大の発明だろうなぁ。」

 

「分割統治……地獄パンドラの歴史書で読みました……あるグループを統治する際に、優遇する少数グループと不遇に扱うその他大勢を作り、グループ同士で争わせることによって自分たちが手を汚すこともなく簡単に治めることができる方法……。」

 

「流石に地獄パンドラのことは詳しいなぁ……。パンドラ公国のうるせぇ公王を黙らして、やつを信奉する輩も黙らして、ミルシュトラーセ家に不満を持つ民衆も黙らせる。最高の手段だった。

 

 俺がやったのは単純だ。両性具有者セラフィタ擬きを徹底的に排斥はいせきして。両性具有者セラフィタ連中に取り入り、人間体アニマの連中を国を挙げて差別して、獣神体アニムスの連中の支持を得る。いやぁ〜実に簡単だったぜぇ。なんせ制度さえ作りゃあ、争い合ってくれんだからなぁ。本当に馬鹿な連中だぜ……。

 

 おれは人間体アニマの奴らやアニマ・アニマがどんな扱いを受けてきたかしっかりとこの目で見てきた。だからお前を絶対にアニムス・アニムスにするための方策をってやろうってんだ。こんなにいい母親が他にいるか?……いねぇだろ?これはおれなりの愛情なんだぜ。

 

 まぁ……晴れてアニムス・アニムスになったらおれの軍に入ってムカつく公王周りの貴族とファンタジア王国の奴らをブチ殺してもらうが……。


 まぁよなぁ……?だって俺たちは親子だからなぁ……助け合っていかねぇと。」

 

 ――はるひちゃんを犠牲にして?はるちゃんをそんな立場に追いやって?それで、それで何が得られる――?


 得られるものは、“おかあさまの愛”――。


 ◇◆◇

  

身体の右側のソファが沈み込んだのを感じた。気がつけばエレクトラはアイの横に座っていた。それをただ遠くから眺めていた。

 

「アイ……瞳を見せろ……。」

 

 アイがおもむろろに顔を上げると、産まれてはじめての距離でお母様の顔が感じられる。

 

 ――お母様の顔こんなに近くで見るのは初めてだ。

 ……そうか、抱きしめてもらったことがないからだ――


「オマエの瞳の色は本当にオイディプスちちおやそっくりだな。」

 

 ――それ以外はあのマグダラのサクラクソおんなうり二つだが。


「……。」


 ――おかあさまが、――アイだけを――!


 ――こいつの見目みめがもう少しでも俺の夫オイディプスに似てりゃあ、いやもう少しでもあのクソ売女ばいたに似てなけりゃあ、もしかしたら――


「アイ……。」


 エレクトラが両手を広げる。アイは何が起こったのか理解できなかった。これまで自分の前でお母様が身体を動かすのは自分に暴力を振るうときだけだったからだ。アイが動けずにいると、エレクトラは苛立いらだったようにアイを抱きしめる。


――こいつ……こんなに小さくて、やわっこかったのか。


「お……お母様……お母様ぁ!」


 生まれてこの方人前で決して涙を見せようとしなかったアイが泣いてしまった。冷たい夜の中で独りあざを抑えてうずくまることよりも、母親の胸に抱かれてその腕に全てを投げ出して染み込んでくるあたたかさに包まれるほうが、アイにはもっと泣きたくなるのだった。泣くと殴られると知っているのに。

 

 ……しかし、今回はそうはならなかった。


「泣くな泣くなめんどくせぇ。折角せっかく抱いてやったのに泣くとはどういう了見だテメェ。そんなに嫌なのかぁ?」


 口調はいつもと変わらないが声にとげは感じられない。


「ちが……ぢがいます……うれじくて……。」


「あーあーわかったわかった、もう泣いててもいいから、ほらマドレーヌ食え。」


 アイを抱いて左手が塞がっているので、今度はでマドレーヌを持ちアイの口に近づける。アイは見放されないように必死でそれを食べようとする。でもするのはなみだの味ばかりであった。でもアイにはそのマドレーヌの匂いと泪の味がとても美味しく感じられた。

 

 母の胸の中でほおばったその“泪味のマドレーヌ”のことは一生涯忘れることはないだろうと……そう、思った。


 ◇◆◇

 

 泣きつかれて寝てしまったアイを見やりながらエレクトラは考える。


 ――泣きつかれて寝るとか……しかも服を掴まれてるから動けもしねぇし、やっぱり変に優しくするもんじゃねぇなぁガキなんてもんは。すぐにつけあがりやがる。

 

 それにしても……さっきはこいつの姿を見ているのに耐えられなくて、ついこいつを抱きしめたが……やっぱり気に食わねぇな。目以外あのクソビッチと瓜二つとコイツが、オイディプスサクラの交わった証であるコイツが、のうのうと俺の屋敷を歩いているのが許せねぇ。コイツの姿を見るたびにあいつらの交わりを思い出させてイライラさせてくる。

 

 だからコイツのことは好きになれねぇんだ。同じめかけの子でも……見た目がサクラに似てねぇだけ、父親似のエゴペーのほうがマシだ。まぁ、獣神体アニムスの俺はガキを作りづれぇからしゃあねぇとはいえ……納得がいかねぇ。オイディプスが俺以外のやつにもてあそばれるのが……気に食わねぇ。

 

 ……まぁいい、コイツが計画通りにアニムス・アニムスになったら、俺はこころをもつものプシュケーという“戦略”兵器とアニムス・アニムスという“戦術”兵器の両方の軍事力を兼ね備えた最強のを手に入れられる。

 

 ――あいしてるぜぇ、俺の兵器あい


◇◆◇

  

 アイは雨のそぼ降るベンチに座ってある人を待っていた。雨の音を聞いているとなんだか思考が深きに沈んでいく気がする。なにをかんがえようとしてたんだっけ――?そうだ――


「……アイくん。」


 雨音の中でも誰かはすぐに分かった。アイをそう呼ぶのはる一人の友達だけだからだ。


「はるひ……ちゃん。」


 お互いに何も言わずに、隣に座って空を見ていた。アイは雲間くもまから差し込む光によって照らされた雲のきらめきを見ていたが、はるひはその光との対比によってさらに暗くなった周りの雲の影を見ていた。

 

「雲間から差す光ってね、パンドラ地獄語で天使の梯子はしごって言うんだって。あれをみるといつも何かを思い出しそうになるんだー。」

 

 アイがふわふわとした雲のような口調で話す。


「地獄の人が天使のことを言うなんて可笑おかしいね。……きっと、地獄の人達も天使に憧れたからじゃないかなぁー。」


 はるひも日だまりのようなまとまりのなさで返す。


「この雨ってアイくんのこころー?」

 

「ちがうよ〜。はるひちゃんー。」

 

「んー?」

 

「はるひちゃんのおとーさんとおかーさんに会いたくてねー?」

 

「うんー?」

 

「今日お家に言ってもいい?」

 

「……いいよ。」

 

「じゃあいこー」

 

「そうしよー」

 

「「あははっ!」」

 

 2人は薄氷うすらいを踏み鳴らし歩くように、春日邸かすがていへと向かった。アイにはどうしても確かめたいことがあったのだ。


 ◇◆◇


 春日邸は不知火陽炎連合本部のすぐ近くにあった。なんでも連合の下っであった時分の平民から末端貴族、末端貴族から有力貴族に、それぞれ階級の変わるたびにどんどん連合本部に近づいているらしい。しかしその心は連合からどんどんと離れていっている、とははるひの談だ。

 

 あと、家が遠かったときは貴族の妻集まりで、お母さんが毎回マウントをとられて大変だったそうだ。なんでもすぐ近くに住んでないの真の貴族ではないとか、ここまでは貴族だけどここより外側に住んでたらダメだとか、住んでる場所ぐらいでばかみたいにマウンティングしてくるらしい。


 ◇◆◇


「ただいまー」

 

「おじゃま……します。」


 堂々と帰宅するはるひの後をおっかなびっくりついていく。扉を開けた途端に、ふわりと香る他人の家の匂い、金曜日の昼の生活感がそこにはあった。

 

「おかえりなさい。はるひ?今日はお外でアイ様と遊ぶって言ってなかった?」

 

「お母様お初にお目にかかります。アイ……エレク……いえ、ただのアイでございます。」

 

「あらあらあら!家に連れてくるなら言ってよー!おもてなしの準備もあるんだから!アイ様、私ははるひの母、春日ひまりでございます。此方こちらから挨拶に伺うべきところを大変申し訳――」

 

「ひまり様!わたくしは今は唯のアイでございます。はるひちゃんの友人の。ですからどうかそのように……!」

 

「ん、……んー。……よしっ、わかったわアイちゃん!あなたもそんなにかしこまっちゃいやよ?唯の友達のおかーさんなんだがら!」

 

「あ、ありがとうございます。」

 

 アイはなんだか陽だまりのベンチに座っているような、ぽかぽかとした気持ちになる。

 

「ほらほら、お昼ごはんはまだ?だったら食べていってよ!」

 

「いえ!……あ、ありがとう……ございます。」

 

「ほらはるひ!早く手伝って!あいちゃんは何かジュース飲む?」

 

「うるさいなぁ!おかーさん!」

 

「あ、いえわたくしもお手伝いさせて頂ければと……。」

 

〜?それじゃあだめね〜。」

 

「あ……えっとあいも……あいも!てつだいたい!……です。」

 

「よ~し、じゃあ2人とも手を洗っちゃって!」

 

「はーい!」

 

「は、は〜い……!」

 

はるひが自分の踏み台を使っているので、アイが水に手が届かずにアワアワしているのに、ひまりが気づいてアイを持ち上げる。

 

「わっわぁ!」

 

 抱きしめられるような格好になってまたアイはぽかぽかとした気持ちになる。それがなんだかわからない。

 

「アイちゃん、軽いわね〜、はるひより軽いんじゃない?ちゃんとご飯食べさせてもらってるの?」

 

「おかーさんデリカシー!」

 

「さ、最近は……はい。」

 

「……。なるほどね~。これは腕によりをかけてお料理しないとね〜。」

 

 「お!お料理ならわたくしも!」

 

 「お、アイちゃん料理できるの!?私は平民の出だから自分で料理するけど……ミルヒシュトラーセ家もそうなの?」

 

 「えっと……いえ使用人の方が作って下さるのですが……。わたくしもよくお菓子やお料理を作ります……お母様に食べて頂けたら、仲良くなれるかなって……思って。こころをもつものプシュケーだとわかってからは、忙しくてあんまりですが。」

 

 そもそもは使用人に食事に細工されて体調が悪くなるから自分で作り始めたのだった。それが転じて料理や菓子作りが好きになった。そして好きが高じてお母様に食べて欲しくなった。結局お母様は一度も食べて下さらなかったが、兄姉たちはおいしいおいしいと食べてくれた。そのたびにぽかぽかと心があたたかくなるのだった。


 そういえば、とアイは思った。さっき感じた気持ちと似ているなぁと、独りごちるのであった。

 

 「へぇーアイちゃんはえらいねぇ!子供に作ってもらえるなんて、お母さんだったらみんなうれしいと思う!アイちゃんのお母さん喜んでくれたでしょ?」

 

 アイはちくりと胸が痛んだが嘘をついた。

 

 「はい!おかあさまはとても喜んでしょくして下さいました!とても……とてもうれしかった……です。」

 

 うつ向いて服のすそを掴んで話すアイをみたひまりは、膝をつき目線を合わせ、アイの両の手を握りながら話す。

 

 「……。そうなんだ。アイちゃんのお母さんは幸せ者だね。こんなかわいい子にそんなに思ってもらえるなんてさ。」

 

 「……そう、でしょうか?」

 

 不安げな上目づかいで見やる。

 

 「うん……。そうだよ、我が子に思ってもらってうれしくない母親なんていないんだから!ね、じゃあ今日お料理教えてあげるからさ。一緒に作ってさ。それで、アイちゃんのお母さんを驚かせてあげようよ!ね!」

 

 「は……はい!おかあさまに喜んでほしいです!」

 

 今日一番のアイの笑顔。その子供らしい無邪気な笑顔に照らされたひまりは、きゅぅうっと胸が締め付けられた。その笑顔の中におおよそ子供のものとは思えない、深いかげりをみたからだ。

 

 ――ああ、この子は……この子は――。

 

 「ほら!アイちゃんいこ!だっこしたげる!はるひはどうする?」

 

 「ん~あんまり興味ないからアイくんがご飯作るの眺めててもいい?」

 

 「はぁ……あんたは、ホントにアイちゃん大好きね~、まぁいいでしょう!」

 

 ひまりがパンッと手を合わせた音に、アイがビクッと大きく身体を震わせてしまう。そのままひざまずいて呼吸を荒くする。

 

 「アイちゃん!?ごめんね……びっくりさせちゃったね。」

 

 「ぁ……ぃえ……こちらこそ申し訳ありません。取り乱してしまって……。」

 

 アイは身体中の古傷が痛むのを、一番うしろの席で映画のスクリーンを見るように遠く感じていた。そんなことより、ひまりの気分を害していないかが気にかかるのだった。


 ◇◆◇

 

「アイちゃんの得意料理はなに?それを一緒に作りましょうか?」

 

「オムライス……と最近はマドレーヌ……も練習していて……。」

 

 浅ましくも褒めて欲しくて聞かれていない得意なお菓子まで答えてしまう。

 

「マドレーヌ!アイちゃんはお菓子も得意なのねー!こんなに小さいのに、すごいのね〜!」

 

「え……えへへ。」

 

 ひまりはアイが望んだ言葉をくれる。それが心地よくて、もっともっとと欲張ってしまう。

 

「でも……今日はできたらはるひちゃんの、好きなものが作りたい……です。」

 

「まあまあまあ!はるひ聞いた?!ラブラブね〜。アイちゃんと結婚したら幸せよ〜絶対逃さないようにね!」

 

「えへ……。」

 

「聞いてるし!アイくんの前でそんなこと言わないで!デリカシー!!」

 

「んー、そうねぇ、じゃあ今日ははるひの大好物のハンバーグの作り方を教えてあげるね。胃袋掴んじゃって!」

 

「おかーさん!!」

 

「はい!粉骨砕身ふんこつさいしん頑張ります!」

 

「まだちょっとかたいわねぇ……リラックスリラックス!……ここを自分のお家だと思っていいのよ?もっと気を抜いて。」

 

「じぶんのおうち……?」

 

 アイにはその言葉の意味が分からなかった。自分の家と気を抜くという2つの概念が結びつかなかったからだ。アイにとっては家とは常に気を張って、何か叱りつけられることはないかと、ビクビクと家族の生活音におびえる場所だった。

 

「Make yourself at home!《くつろいでね!》よ」

 

「!……ありがとう……ございます。」

 

「ごめんね、アイくん、おかーさんミーハーで。最近の書いた小説にはまってるみたいなの。」

 

 興味なさげにソファに寝そべり、胸の上で自分のヘルツを弄りながら補足する。

 

「あ、あいも!……わたくしも大好きです、地獄パンドラ文学……!」

 

 アイは初めて自分と同じ趣味の人に出会えた喜びでつい口調が崩れる。それどころか好きな作家をまくし立ててしまう。

 

「ウィリアム・シェイクスピアですか?それともルイス・キャロル?それともそれともっチャールズ・ディケンズ?ジョナサン・スウィフト!まさか……トマス・モア!?


 ……あっすっすみません……つい喋りすぎてしまいました、ふ、不快にさせなたら大変申し訳ありません……。」

 

 いつもは殴られないように気を張って発言や行動に自分を出さないようにしているのに、この家にいると何故か気が緩んでしまう。その理由がまだ分からなかった。

 

「不快なんて!アイちゃんはいっぱい難しいことをしってて偉いね〜。なでなで〜。」

 

 頭を撫でようと手を上げると、アイの身体はまたビクッと大袈裟に震えて、頭を庇うように両手を上げてしまう。来たるべき衝撃に備えて――。

 

「……。」

 

 それをみたひまりは、瞳にかなしみといつくしみをたたえていたが、目を閉じているアイには分からなかった。


 そしてアイのその姿を見て、はるひの胸の上にある心がざわざわと形を変えていることにも気がつけなかった。


 ◇◆◇

 

「……?」

 

 いつまでたっても予想した痛みが来ないので、不思議に思っていると、ふわりと頭に柔らかく触れるものがあった。思考と現実との間隙かんげきがあまりにも大きすぎて、理解できない。脳が理解を拒否している。

 

「……よしよし、この世界は、そんなにこわがらなくても大丈夫だよ……?」

 

 抱きしめられながら、やさしく撫でられているのだと、理解した。理解したが、認めたくなかった。アイが最初に感じたのは喜びでも幸せでもなく、怒りだった。それも抑えきれない程の憤怒ふんぬであった。

 

 あれほど渇望かつぼうして、先日生まれて初めて、こころをもつものプシュケーにまでなって初めて、おかあさまの役に立って初めて、母に与えられた抱擁と愛情を、他人の母親からいとも容易たやすく、こんなにも簡単に、与えられるということが、認められなかった、許せなかった。


 だって、じゃあ今まで耐え忍んできたのは、今まで頑張ってきたのは、あんなにも切望していたのは、なんだったのだ?みんなはこんなに簡単に愛情を与えられるのか?じゃあ自分は?なんで自分は?なんで自分だけが……自分だけが。

 

「なでなで、アイちゃん大丈夫だからね。はい、トントン……これをするとはるひはすぐに泣き止むんだよ?アイちゃんは今泣いてるわけじゃないけど、泣いてるように見える。泣いてるように聞こえるよ。」

 

 ほとんどのの母親がそうするように、抱きしめながらやさしく背中をトントンと心臓の鼓動こどうのリズムでたたかれる。そこからたくさんのあんしんなきもちと、ぽかぽかとあたたかいいもちがながれこんでくる――。


 ◇◆◇

 

 アイは決して泣かなかった、もっともっと小さい頃、いじめられて親に泣きついたとき、父親には『男は泣くんじゃない』と殴られた。母親には『気持ち悪いから泣くんじゃねぇ』と蹴られた。

 

 だからアイは決して人前では泣かないのだ、泣けないのだ。アイは今すぐこのさっき会ったばかりの友達の母親に抱きつきたかった。泣いてすがりたかった。『こんなに悲しいことがあったの』といいたかった。甘えさせてほしかった。泣きたかった。でも永い間涙をこらえてきたから、人前では絶対泣かなかったから、泣けなかった。泣かなかったのではなく、泣けなかった。

 

 まるで涙が『今まで自分を“恥ずべきもの”として扱ってきたのに手のひらを返すな』といっているように。今までひどい扱いをしてきたじゃないかと訴えるように。その時アイは気づいた。

 

 自分はどこか自分が酷いことをされてきたのだと、“ときめてたかくくっていた”のだと。父親に、母親に、周りの人たちに、殴られるたびに、蹴られるたびに、なじられるたびに、自分を“かわいそうな人間”だと思うことで自分を守ってきたのだと。そして、と決めていた。それをしないことが唯一の生きていてもいい理由だった。誰にも愛されない自分の唯一の。

 

 でも自分は自分のかなしみに、涙に酷いことをしてきたのだ。親に『お前は見苦しいから、離れに一生隠れていろ』と、家に人が来るたびに言われていた。同じことをしていんだ。涙に。『』と。何年も。自分はされてほんとうに苦しかったのに。自分がされてほんとうに嫌だったことだったのに。それをのうのうと自分のことをあわれみながら、していたのだ。だから泣けないのだ。泣く資格など自分にはないのだ。んだから。のだから。


 ◇◆◇

 

「ぎゅー。アイちゃんは抱き心地がいいねぇ。こうやって抱きしめてさ。そうやって人は愛しさを分け合うんだよ?幸せな気持ちになってこない?」

 

 幸せだった。あたたかかった。でも決してアイは抱きしめ返さなかった。その気持ちを認めなかった。だってそうすることに罪悪感があったから。もしここではるひのお母さんからの愛情を認めると、抱きしめ返してしまうと、お母様が悲しむ気がした。


 そんなことはないと分かっているけど。でも、他人に抱きしめられて愛情感じているのが、申し訳なかった、お母様に。お母様に泣いて謝りたかった。認めると、お母様を裏切ってしまう気がした。は、のように思えた。だから、ほんとうに、ほんとうに抱きしめかえしたかったけど、与えてくれた分のお返しをしたかったけど、アイにはできなかった。

 

「……ありがとう、ございます。もう落ち着きました。すみませんでした。」

 

「いいんだよ?まだ小さい子供なんだしさ。それに子供じゃなくたって、大きな大人だって抱きしめられて泣いていいんだよ。だって人間なんだから。。」

 

 はるひの目は一部始終をめた目で眺めていた。それは“母を取られた嫉妬”からか、好きな人の哀しい姿をみたからか、それとも――。

 

「よしっじゃあお料理しよお料理!あっ、わたしが好きなのは“ブロンテ姉妹”でした!」

 

「『嵐が丘』『ジェイン・エア』ですね……!」

 

「おっ流石アイちゃん知ってるねー!元気も出てきたかな?じゃあまずは――」


 ◇◆◇

 

 しばらくアイとひまりは仲睦なかむつまじく――まるで本当の母と息子のように――料理をした。そして、それをはるひは手の中の心をいじくりながら眺めていた。彼女のこころは誰も知らない。

 

 アイは幸せを感じそうになるたびにチクチクとお母様への罪悪感で胸が締め付けられるのだった。


 ◇◆◇


「できたー!」

 

「はい……!」

 

「いやーアイちゃんがここまで料理上手だとは思わなかったよ!すごく助けられちゃった!ありがとうね。」

 

 ――“助けられた”。 

 ――“ありがとう”。

 

ずっとずっとお母様から欲しかった言葉だった。こんなに簡単に。……こんなにさらっと。

 

「い、いえ、薫陶くんとううけたまわり――」

 

「――アイちゃん!」

 

叱責しっせきされるかと思って身構えるアイ、どんなにここがやわらかい場所であっても、長年染みついた癖はそう簡単には剥がれ落ちてはくれない。

 

「また、堅苦かたくるしくなってる!ほら!」

 

「えっと、すっごくたのしかったです。……あ、ありがとう。」

 

「うんうん、こちらこそありがとうだよー。しめしめ……もう少しで敬語も無くせるなぁ。」

 

 最後はアイに聞こえないように小声で、悪い顔をえて発せられた。


 ◇◆◇

 

「ほら!はるひもみてみて!将来のこんなにかわいい旦那ちゃんが!は・る・ひ、のために!!はるひのためだけに!作ってくれたんだよ!ほらほらよく見て、なんかいってあげて!」

 

寝そべって何か暗い目で、アイの一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくを見つめていたはるひを引きずってくる。

 

「おかーさん!わかったから!ひっぱんないで!……えーとそうだね、私の大好物のハンバーグ、ほんとにおいしそうで……アイくん本当に料理上手だったんだね。貴族なのに自分で料理する人なんか春日家ウチくらいだと思ってたよ。」

 

「ありがとうは!?本当に、“ありがとう言わない星人”だよこの子は!ほら!ありがとうは!『わたしに毎日オミソシルを作ってください』は!地獄パンドラではプロポーズのときこう言うんだよ!おかーさん知ってる!『私のかわいい旦那ちゃんになって下さい』って!」

 

 耳元で、でも決して小さくない声でまくし立てる。

 

「おかーさん!!うるさいうるさい!えっと、私のためにありがとう。わたしはお料理はからっきしだから……アイちゃんさえよければ、これから私に毎日オミソシル?がなにか分かんないけど……地獄パンドラの料理なのかな?

 

 ……私に“毎日オミソシルを作って”ください!

 それで、私の“かわいい旦那ちゃん”になって下さい!!」

 

 捨鉢すてばちになって腰を90度曲げて右手を前に突き出す。

 

「……あはは!うふふっあはっあはははは!」

 

 アイがこらえきれなくなったように、鈴の音がコロコロ転がるように笑い出す。親と子でこんな気安いやりとりを見たのが初めてだったからだ。

 

「「あ、アイ……くん(ちゃん)?」」

 

「うふふっ!はい、『ふつつか者ですが、こちらこそよろしくおねがいします!』あはっ!」

 

「「…………。」」

 

 不快感を与えないための笑みではなく、初めてのアイの日が昇ったような笑みに照らさせて、親子は全く同じリアクションでポカーンとしてしまう。しかし、考えていること、感じていることは真逆であった――。


 ◇◆◇

 

 ――アイちゃんってこんなふうに笑える子だったのね!本当にかわいくて、花が咲いたようにわらう子だったんだ。かわいいなぁ。よしっ!このおうちにいる間にもっともっとアイちゃんを笑わせよう!大笑いさせてやろう!もっといろんなアイちゃんをみたいわっ!


 ――アイくんってこんなふうに笑える子だったんだ……。確かにかわいいけど、泣いた顔はもっともっと綺麗だった……。アイくんは本当は“かわいいじゃなくて綺麗”なのに。あの、がまた見たい。それか、あのかなしみをたたえた微笑を――。


 ◇◆◇

 

 ……それに、アイくんはさっきから自分の軽はずみな言動が私のおかーさんを傷つけているということに、気がついていないんだ……お金持ちだから、偉いから……。


 ――なんで好きなのに嫌いな気持ちになるんだろう?もしかして、嫌いだけど好きなのかな?どっちが私の“ほんとうのこころ”なんだろう?

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