Chapter 1
* 日直
浅葉くんとのあの件以来、きみはちょっとだけ変わったのかもしれない。少なくとも、毎日教室に入って、「きよちゃん!おはようっ!!」と、大きな声で元気いっぱいにきみに挨拶してくれる浅葉くんに対して、「おはよう」と、声はまだまだ小さいけど、一応挨拶に応じるようになった。
でも、どちらかというと、浅葉くん以外のクラスの子にとって、無口のきみはやはり近づきにくいのかもしれない。副委員の遥ちゃんはある日、恐る恐るにきみのところに来て、小さい声で聞いた。
「あの、木村さん、日直のことなんですけど、櫻井くんと組んでもらえますか」
このクラスでは、日直は毎日二人制になっている。
「いいよ」
きみは問題集をやりながら適当に答えた。別に誰とでもいいし、副委員で決めればいいのに。
「うん、助かります!木村さんありがとうっ!!じゃ明日の日直、木村さんと櫻井くんで決まりね~」
えっ?
遥ちゃんはよほどうれしそうに日直シフト表を持って自分の席に戻った。ただ日直を決めただけなのに、何でそんなに喜ぶのかな…
すると、まるできみの疑惑を見抜いたかのように、浅葉くんは後ろで言った。
「きよちゃん、日直、本当にそれでいいの?」
「いいよ、別に誰とでもいいし」
「いや…きよちゃん転校してきたばっかりだから、たぶんまだ知らないと思う…」
「何が?」
「ぼっちゃんのことだよ。うちのクラス、誰もぼっちゃんと日直を組みたくないよ…」
「えっ?なんで?」
「だってぼっちゃんはお坊ちゃまだからさ、掃除とかぜんぜんできないよ。家にはお手伝いさんがいっぱいいて、掃除とか全部やってもらってるし。だから、何ていうか…明日、絶対きよちゃんのほうが疲れると思うけど…」
浅葉くんは苦笑いを浮かべてこう言った。ちょうどその時、櫻井くんが廊下から入ってきたので、話はそこで止まった。
ふーん~そうか~
このクラスに入って、櫻井くんとはまだ一言もしゃべったことはなかった。
次の日、浅葉くんの言ったことは的中した。
きみより櫻井くんのほうが先に教室に来ていた。ゴミ箱のゴミ袋を替えようとしたが、うまく袋を開けることができない。確かにゴミ袋の開け口はくっついていて開けにくいけど、濡れた雑巾で指を濡らしてからやると、すごく簡単になるんだから。
そういう常識的なことも知らないなんて、ありえない。
もうそのまま見ていられないきみはゴミ袋を横取りして、さっさとやり始めた。気まずそうに、櫻井くんは前に行って、黒板を拭こうとした。しかし、背が小さいせいで、黒板の一番上のところには、足をいくら伸ばしても届かない。きみの前で椅子に乗って拭くのがカッコ悪いとでも思っているのか、どうしたらいいかわからなくて、ただ黒板の前でうろうろしている。
なんか…情けない…
ゴミ袋をやり終えたきみは雑巾を持って黒板に向かった。手を軽く伸ばしただけで、一番上のところはきれいに拭ける。となりの櫻井くんをちらっと見たら、今よりも気まずそうな顔をしている。
きみもそんなに背が高いわけじゃないけど、櫻井くんのほうが小さ過ぎるだけだ。届かないのはしょうがない。それで、一日の黒板拭きは、自然に全部きみの仕事になってしまった。
きみはやっと分かった。どうして昨日遥ちゃんはそんなに恐る恐るにきみに頼んできたのか。どうして昨日浅葉くんはそんなにきみのことを心配していたのか。
なるほど。
クラスの名簿を一度見たことがある。櫻井くんの下の名前は、確かに「巧」って言う。なのに、何でこんなに不器用なんだろう…
となりの櫻井くんを見て、きみは思わず首を傾げた。
4時限目の英語は今日はテストだ。きみは早めにトイレから戻って、きれいに洗った雑巾を机のそばに掛けた。となりの櫻井くんはまだ単語帳を復習している。一方の一之瀬くんはいつもと同じように、気楽にDSをやっている。
まじめで成績がいい子と、本当に頭いいから成績がいい子とは、やはり違うのね。じゃ、自分はいったいどっちなんだろう。
この対照的な二人を見ると、きみはいつもそう考えてしまう。
きみにとって、英語のテストは一番楽かもしれない。学校だと、中学一年からやっと英語の授業が始まるけど、きみの場合は幼稚園から英語をやり始めた。アルファベットだけの言語が新鮮で好きで、ぺらぺらと英語がしゃべれることを誇りに思っているから。
でも、一番の理由は、やはりおばあちゃんだった。おばあちゃんは、きみの歌った英語の歌が一番好きだった。歌のリズムに乗って拍手したり、きみの撥音をまねしたりして、とても楽しそうに見えたから。
できれば、今も、おばあちゃんに聞いてほしいなぁ…新しい英語の歌、ちゃんと覚えたのに…
きみはとっくにできた解答用紙を裏返して、ずっと空を見つめている。今日は雲一つもない青空だ。でも、なんだか雲があったほうがいい。おばあちゃん、もしかしたら雲になっているのかもしれないから。
おばあちゃんのことを思い出すと、目の前は、いつもかすんでくる。
静かな教室の中に、急に水滴が落ちてくる音が聞こえた。
きみは慌てて手で目を拭いた。
いや、違う。自分の涙じゃない。だって、手の甲には、涙なんて全然ないもん。
「あ…」
後ろの浅葉くんは、唖然とした声をあげた。
きみは無意識にそばを見た。となりの席から、水滴が絶えずに垂れてきて、床に大きな水溜りもできてしまった。
櫻井くんだ。顔が真っ赤になって、鉛筆を握ったままうつむいている。席からだけじゃなく、ズボンのすそからもぽたぽたと水滴が落ちている。
うそ…
後ろの浅葉くんと目が合った。口が開いたままびっくりしている。きみもきっと、同じ表情なんだろう。
いいえ、浅葉くんときみだけじゃなかった。だんだんと気づいたクラスのみんなが、あきれた顔で櫻井くんのところを見つめながら、ざわめき始めた。
「おい…うそだろ~?!」
「もう中1だぜー」
「やだ…なんか匂わない?」
「ははは、ちびだからちびったんじゃない~?」
「ありえないや…」
確かに、ありえない。
英語の小林先生はすぐ櫻井くんの席に来た。同じく呆れた顔だ。小林先生は学校中公認の美人先生で、若くて美しくて、声もとてもきれいで、男子のみんなにすごくモテている。こんな小林先生の授業でそんな恥ずかしいことをしちゃったなんて、もう最悪でしょう…
やっぱり、ありえないよ…
こんな出来事は初めてのせいか、小林先生もさすがに困ってしまい、何を言ったらいいかわからなくなったようだ。みんなはどんどん集まってきて、櫻井くんを囲んだ。笑い声やしゃべり声が一層大きくなって、今はまだテスト中だということを忘れてしまった。
「ほら、みんな自分の席に戻って!まだテスト終わってないでしょ?おしゃべりはやめて早くやりなさい!ほかのクラスに迷惑なんだから~」
「は~い!!」
美人の小林先生の言ったことだから、騒いでいる男子もすぐ聞き受けた。でも、やはり櫻井くんのことを面白がっている何人かが、意地悪そうにからかった。
「先生、ぼっちゃんのほうが俺らに迷惑なんだけど~」
「そうだよ、くっせーし、そんな教室にいたくねえーよぉ~」
「それじゃ続けてテストをやる気になりませ~ん!」
当の本人は鉛筆を握ったまま、頭をもっともっと下げた。すそからの水滴は、今でも絶えることがなく、床の水溜りに落ち続いている。
確かに、今はとてもテストを続けられそうな状況ではない。ていうか、みんなの関心はもう全部テストから櫻井くんのほうに移ってしまった。「これからどうするの?」のような、ずるい笑い顔をしている。
「じゃ、今日の日直誰なの?今掃除してもらって、後で個別にテストの時間を延ばすから」
そう言いながら、小林先生は黒板の日直表に目をやった。次の一瞬は微妙な顔を浮かべて、何も言えなくなってしまった。
みんなは大爆笑した。
「先生~今日の日直、ぼっちゃんなんだけど~」
「これって、まさかの自業自得?」
「うわぁ~もう面白すぎて、腹いてぇーよ~ははは~~」
運が悪いときに限って、悪いことがどんどん増えてしまう。今の櫻井くんは、まさにそういう状態に陥ってしまった。
「おい!お前らいい加減にしろよっ!ぼっちゃんもわざとじゃないから、ちょっと向こうの気持ちも考えろよっ!!」
もうみんなのあざ笑いを見ていられなくて、ちょっと怒った口調で注意したのは、浅葉くんだ。
いかにも、浅葉くんらしい。
「俺らもわざとじゃないだろ~?あいつ、自分でちびったんだから~」
「だからもうやめろっつーの!」
「お前がそう言うんなら、じゃお前が掃除してやれば?」
意地悪な何人かの男子は、にたりと笑った。
「いいよ!掃除するよ!!かわりに、もうぼっちゃんをからかうのをやめろっ!!」
浅葉くんは席を立って、教室の物置にあるモップを取りに行こうとした。
その時、きみは浅葉くんを止めた。
「あたし行くから」
「えっ?」
浅葉くんはちょっと驚いた声を上げて、きみを見た。いいえ、浅葉くんだけじゃなく、今のきみの話を聞いたみんなは、急にしんとした。
「あたしも今日日直だから」
きみはそう言って、解答用紙を小林先生に渡した。今度は小林先生のほうがちょっとびっくりした。
「えっ?木村さん、テストもういいの?」
「はい、できましたから」
そっけない口調で、きみはみんなの驚いた顔を無視して、直接モップを取りに行った。
助かったような表情で、小林先生はちょっとほっとした。
「じゃ、誰か櫻井くんを保健室に連れてってくれる?学級委員は?」
前元くんと遥ちゃんは、ちょっと困ったように手を上げた。
「あ、女子はちょっと不便かな…じゃ、前元くん、お願いできる?」
「でも、テストがまだ…」
「後で時間延ばしてあげるから~」
「うーん…」
前元くんはやはり嫌がっているようだ。今の櫻井くんと一緒に歩いたらカッコ悪いと思っているのかもしれない。それとも、汚いと思っているのか…
学級委員のくせに、結構虫がいい。だからきみは、前元くんが嫌いだ。
「先生、前元くんがイヤだったら、俺が行きます!」
また、浅葉くんだ。
きみはモップを持って、櫻井くんの席に来た。浅葉くんと目が合って、お互いににっこりとした。
浅葉くんは、本当にいい子だ。
「お前はただテストやりたくねえだろ~?」
先の連中がまた意地悪そうに言った。さすがの浅葉くんもちょっと怒った。
「はっ?お前ら、何言ってんのよっ!!」
「ほら、喧嘩はやめてってば~」
小林先生の言ったことに、男子のみんなは逆らえない。
すると、もう一人が解答用紙を持って、小林先生に渡した。
「先生、俺もできましたから、浅葉くんの代わりに行っていいです」
まさかの、一之瀬くんだ。
そういえば、今みんなが櫻井くんのことを面白がって集まっていた時、たった一人席でテストをやっているのが、一之瀬くんだったような気がした。あともう一人、大原くんはテストの途中で寝てしまったらしく、ずっと自分の席にいた。
「あら~素敵~じゃ一之瀬くんお願いね~浅葉くんもありがとう~」
やっと事件がうまく解決しそうになって、小林先生もうれしく思っているようだ。
しかし、ずっとうつむいたままの当の本人は、急に思いかげない言葉を口にした。
「…僕、保健室には行きません」
えっ?!
教室中はこの一言でまだざわめいた。もっと唖然したのは、小林先生だ。
「でも、このままだと…」
「大丈夫です…僕、テストやります」
鉛筆を握った櫻井くんは、テスト問題をやり始めた。4時限目の時間はもう半分以上過ぎたのに、解答用紙にはまだ4分の1しか書いていない。さっきまでずっと我慢していたから、とてもテストに集中できなかっただろう。でも、今は違う。周りのざわめきを無視しているかのように、櫻井くんはすらすらとテスト問題を書いている。
やっぱり櫻井くんって、変わってる子だ。でも、ある意味で、それもそれで、すごい。
櫻井くんの気持ちがわからないわけでもない。そもそもテストを無駄にしたくないからずっと我慢していたし、もし今の状況で保健室に行っちゃうと、テストも続けられなくなるし、じゃ前の我慢のほうこそ全部無駄になっちゃうじゃん。自分なら、同じことをすると思う。
モップを床にかけて、きみは無言のまま掃除し始めた。
でも、櫻井くんのせいで、日直の仕事がまた増えてしまった。しかもこんな掃除なんて…
そう、やっぱり、ありえない。
きみが掃除し始めると、みんなもやっと静かになって、テストに戻った。モップを洗いに廊下に出たら、いつの間にかもう教室の外でDSをやっている一之瀬くんはきみを見かけて、声をかけた。
「なんか手伝うことある?」
「いい」
「そう~じゃ俺ゲームやるね」
「うん」
きみはそのままモップを持ってトイレに向かった。すると、後ろには、一之瀬くんが急にきみを呼んだ。
「木村さん」
「なに?」
「いや、なんか、すごいなぁーと思って。ほら、すごく成績いいから」
「一之瀬くんこそすごいんじゃない~いつもDSなのに、こんなに成績がいいなんて」
「ゲームも結構脳トレになるから」
「そうね」
初めて一之瀬くんと交わした会話だ。言葉の数は少ないけど、お互いに言おうとしていることが、ちゃんとわかる。
一之瀬くんは笑って、またDSに集中した。きみもまたトイレに向かった。
ライバルだけど、一之瀬くんのことが、絶対嫌いじゃない。
きみが床掃除を終えた時、4時限目の英語テストも終わった。教室に戻ったら、みんなは急いでいるようにお弁当などを持って、グランドに向かって行った。
そういえば、今日のお昼の休み時間にバスケの試合があるようだ。確かに前元くんも出るって、前女子の誰かが話していたような気がする。
あ、だからか…
前元くんがテストの時間を延ばしてもらっても嫌がっている理由が、やっと分かった。バスケの試合に間に合わないことを恐れているからだった。
うん…それなら、許してやってもいいけど。
きみは席に戻って、文庫を読みながらお弁当を食べた。となりの席には、櫻井くんはまだうつむいたまま座っている。いつまでじっとするつもりかは分からない。本当のことを言うと、ちょっと一瞬だけでもいいから、席から立ってほしい。ずっと席にいると、床掃除はきれいにできないから。
きみは、大のきれい好きだ。
お昼の掃除も、結局きみ一人の仕事になってしまった。バスケの試合のおかげで、今日教室でお昼を食べたのはきみだけだったので、ゴミも掃除もそんなに大変ではない。教壇や黒板、そして金魚の跳ねた水を拭いて、きみは窓ガラスを開けて、ベランダに出た。
教室のベランダには、花がたくさん咲いている。その花に水をやるのも日直の仕事だ。
きみはもともと花が好きなわけではない。ただおばあちゃんがいつも大事に花を育てていたから、知らず知らずの間に、きみも花のことに詳しくなった。水をやるときは下から上へ、葉にくっついている雫に手を触れてはいけない、など。そして、一番大事なのは、感謝の気持ちで花を育てることだ。
菊の花がベランダにきれいに咲いている。晴れ渡っている秋空から時々風が吹いてくる。ちょっと肌寒い感じもするが、とても気持ちいい。
きみはベランダの手すりに依って、陽射しを浴びている。お昼の教室がこんなに空いているのは初めて。そういうゆったりとした時間が、大好き。
まだ席に座っている櫻井くんに目をやった。両手を膝に置いて、やはりうつむいている。しょんぼりとした顔で、一言もしゃべらない。さっきからかわれた時は、一瞬半べそをかくようになったが、浅葉くんが助けてくれたので、セーフだったようだ。
正直に言って、櫻井くんは結構かわいい子だ。背が小さいけど気が強い。お坊ちゃまだから、小さい頃から英才教育を受けてきて、とても礼儀正しい。まじめな性格で、普段の勉強はもちろん、体育の授業のとき、背が小さいからといって、陸上など、いくら他の男子に追い越されたとしても、一生懸命追いつこうとしている。
誰かに負けるのが嫌だというより、ベストを尽くさず、自分に負けるほうが、一番嫌なようだ。
きみも、そうなのかもしれない。
ベランダからずっと見ていたら、きみは櫻井くんのある異変に気づいた。小さい体がずっと震えている。どうしたのかと思うと、また秋風が吹いてきた。ちょっと、寒い。
なるほど。
きみがベランダのドアや窓を全部開けたせいで、風が教室に吹き込み、びしょ濡れのズボンを穿いたままの櫻井くんにとって、とても寒いのだ。
あら、悪い。
きみはずぐベランダから戻って、ドアや窓を閉めた。さっきみんなの態度を思い出して、櫻井くんの姿を見ると、なんだかかわいそうに思った。
「体操服に着替えれば?」
このクラスに入って、きみから誰かに話しかけるのは、櫻井くんが初めて。
「いやです…」
そうだね。みんなが制服を着ているとき、一人だけ体操服だと、すぐお漏らししちゃったってばれちゃうから。小学校からそれが決まりで、中学生になってまだお漏らししているのが、やはり恥ずかしいことだ。
でも、このままだと風邪を引いちゃうかもしれないし、濡れたズボンで移動するわけにもいかないし。午後はまだ音楽の授業があるから、着替えもしないで音楽教室に行くのは絶対無理だろう…
保健室にはパンツしかないはずだ。ズボンのほうは、自分で何とかしなきゃならない。
「じゃ家に電話して、着替えを持ってきてもらえば?」
「家の者に知られたくない…」
そうだね。お坊ちゃまだからね。中1で学校でお漏らししちゃったなんて、執事やお手伝いさんに知られると恥ずかしいし、お父様やお母様に叱られるかもしれないね。
なんか、面倒くさい子だね。
やはり普通の家庭でいいと、きみは思った。一星がまだ幼稚園のときも一回失敗しちゃったことがあって、その時は先生からおばあちゃんに電話して、おばあちゃんはすぐ着替えを持って迎えに行ったのだ。これぐらいの失敗なんて子供にとって普通のことだと、おばあちゃんは言っていた。
でも、中1はまだ子供と言えるかどうか、正直わからない。
きみの思いはまたおばあちゃんのほうに飛んでしまった。すると、そばから、男の子のすすり泣く声が急に聞こえてきた。
もちろん、櫻井くんだ。
悔しそうに、恥ずかしそうに、膝にこぶしを握ってうつむいたまま、泣き出した。これも相当我慢していたせいか、目から涙がぽつぽつと溢れ出て、膝に落ちた。
もう…これじゃズボンがもっと濡れるじゃない…どうぜ我慢するんなら、トイレも涙も、最後まで我慢しろよ…
ありえないっていうか、なんか、残念な子だね、櫻井くんは。
きみは教室を出て、早足で家に向かった。この学校に転校してきた一つの大きなメリットは、家から学校まで徒歩3分ということだ。近くて、何か忘れ物をしたときは、とても便利なのだ。
男子制服のズボンに似たような黒いズボン、一星が持っているような気がする。身長も一星と同じくらいだから、櫻井くんにはぴったりのはずだ。
普段はそっけなく見えても、きみは意外と、優しい子だ。困った人を見かけたら、思わず助けたくなる。
いいえ。前の学校でいじめにさえ遭わなければ、きみはきっと、素直に明るくて、優しい子なのだ。
ズボンを持って学校に戻ったとき、みんなはまだグランドで前元くんの試合に夢中になっている、さっきと同じように、教室には櫻井くん以外誰もいない。
よかった。間に合った。
まだ席に座っている櫻井くんは、どうやら泣きやんだようだ。
「これ、貸すから、着替えて。パンツなら、保健室にあるはず」
「えっ?」
やっと頭を上げた櫻井くんは、顔には涙か鼻水か、とにかく濡れている。目の前のきみを見て、一層恥ずかしそうに、慌てて手で顔を拭き始めた。
もういいよ、隠さなくても。今日はもうお漏らしから泣き顔まで、丸見えだったから。おかげで、日直の掃除も普段の倍より大変だ。
「このままじゃ風邪引くから」
「うん…」
きみはズボンを櫻井くんに渡した。ぐずぐずしながらズボンを受け取った櫻井くんの手は、やっぱり冷たい。
「早くしないと、みんな教室に戻っちゃうよ」
「うん…」
櫻井くんはやっと席から立った。一歩歩いて、自分の靴がまた床を濡らしてしまったことに気づいて、恐る恐るに足を止めた。
もう、ホントに、世話の焼ける子だ。
「じゃまず雑巾で靴とか拭いて」
「うん…」
今日のことで頭が真っ白になってしまったせいか、櫻井くんはとにかくきみの言うことをよく聞いた。靴をちゃんと拭いて、ズボンを持って、ちょっと変な歩き方で保健室に向かった。着替えに時間がかかったのか、保健室の先生にいろいろと聞かれたのか、戻ってきた櫻井くんは、顔がまた真っ赤になっている。
床や椅子をちゃんと拭いたきみは櫻井くんに目をやった。思った通り、一星のズボンでぴったりだ。
「似合うじゃん」
「うん…」
櫻井くんは、なぜか「うん…」しか言えなくなったようだ。
でも、気持ちは、わかる。
きみはなんだかスッキリして、文庫を持って、グランドに行った。たまには、前元くんの試合も見てあげようか~
きみがグランドに着いたとき、ちょうど前元くんが最後のシュートを決めたところだった。ボールにきれいな弓形を空中に描かせて、自信満々にガッツポーズをした前元くんは、言いたくないけど、本当にカッコよかった。その活躍で、試合も勝った。
試合から戻ったみんなは、もう午前のことを忘れてしまったかのように、また櫻井くんとはしゃぎ始めた。中には、さっき櫻井くんをからかった子もいる。
「おい~ぼっちゃん!午前の数学の宿題って、何だっけ?」
「ごめんごめん、今日音楽の教科書持ってくのを忘れちまった…後の授業で一緒に見ていい?」
それを見て、きみは前浅葉くんの言ったことを思い出した。うちのクラスには絶対いじめなんかないって。
うん、本当みたいね。
放課後の日直はみんなが行ってから始まる。雑巾を持って黒板を拭こうとしたきみを、櫻井くんは呼んだ。
「木村さん…」
「なに?」
「もう帰っていいですよ、僕が全部やりますから…」
「えっ?なんで?」
「だって午前中、僕何もしてなかったから…逆に迷惑をいっぱいかけてしまって…」
櫻井くんは、また恥ずかしそうな顔を浮かべて、小さい声で言った。
「いいよ、別に」
「でも…」
「あなた一人で、日直のこと全部やれるとでも思ってんの?」
きみは黒板を拭きながら、いつものそっけない口調で聞いた。
「それは…やってみないとわからないんで…」
「あたしはいやだよ」
「何が?」
「もしちゃんと掃除とかできてないんだったら、明日になると、あたしまで村尾先生に叱られるから」
「…ごめんなさい…」
「いいよ、謝らなくても。早く、後ろのゴミ袋まとめて」
「うん」
黒板拭きを終えて、振り返ってみたら、櫻井くんは一生懸命ゴミ袋をまとめている。下手くそだけど、確かにがんばってやっている。
それも、いかにも、櫻井くんらしい。
日直の仕事が全部終わって、きみはかばんを取って、急いで一星を迎えに行こうとした。一瞬櫻井くんと目が合ったら、向こうはまた何か言おうとしているようだ。
「なに?あたし、急いでるから」
「いいえ、あの…」
「だから、なに?」
「今日はありがとう…ございました…」
同級生に向かって敬語を使うなんて、さすがお坊ちゃまの櫻井くん。
きみは思わず吹き出した。
「お礼を言うんなら、今度一星に言って」
「一星?」
「このズボン、弟のものだから」
「うん…後で洗ったらすぐ返しますから」
「いいよ、別に急がなくても。それじゃ」
「うん…また明日」
まだ洗っていない雑巾を手に持ったまま、緊張しているようにきみにお礼を言った櫻井くんは、やっぱり、どこかちょっと残念。
でも、同級生にお礼を言われるのも、久々だね。
きみは一星の学校に向かいながら、ふとそう思った。
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