第2話 スパイ

〝総統府〟〝国務省〟〝国防省〟〝産業省〟〝教育省〟……ツクヨミの中に東和民主共和国の行政機構のデータが流れ込んでくる。名称、大臣、官僚幹部名、職務、下部組織、所在地……エトセトラ、エトセトラ……。それらを分析、要約し、アーカイブをSaIのメモリーチップに保存した。

(アマテラス、終わったよ。本日分は終了)

 ツクヨミは眠っている彼女に声をかけた。

(……えっ、あ、あぁ……)

 千絢は目を覚まし「ふぁー」とあくびをしながら背筋を伸ばした。

 SaIの丸メガネが細胞培養装置や遺伝子組み換え装置などを映す。

「スサノオ……」

 最後に見たのは、灰色の人型ロボットだった。スサノオもツクヨミ同様、東和民主共和国について学んでいた。彼の機械的AIは創造力においてバイオAIに劣るが、演算速度では優れている。搭載するメモリーもSaIを越えていた。

『千紘さん、目覚めましたか?』

 彼は灰色の口をわずかに開いて流暢に話した。その人工音声は若い男性のもので、優しい口調は好感が持てる。

「ええ、今は何を?」

『東和の伝統料理を学んでいます。料理というものは、なかなか奥が深いものです』

「ツクヨミもスサノオも偉いわね。私は任せっきりで申し訳ないわ」

『千絢さんは、お気になさらず……』

(そうですよ、アマテラス。私たちは高度なデータ処理を得意としている。そのためにこの世界に生まれたようなものです。気にすることはありません)

(それなら、私は何のために生まれてきたのかな?)

(生物というものは、目的を持って産まれるものではないのです。産まれた後に、目的を持つのです)

(ツクヨミだって生物よ。脳細胞なのだもの)

(私は単独では生存できないモノです。そう言う意味では、生物ではないのです)

(それなら、何?)

(そうですね。アマテラスの補助器具です。SaIと同じです)

(そんな悲しいこと言わないで)

 悲しい? 生物でないということは悲しいことなのだろうか?……ツクヨミには分からなかった。

「それじゃ、私は先に帰ります」

『お疲れさまです』

 スサノオに見送られて研究室を出る。ドアを開けると事務室の神山の視線が千絢に向いた。もう一つ、別な視線があった。彼の正面に掛けたスーツ姿の青年のものだった。

「お疲れさん」

 神山が笑みを浮かべた。青年は真顔で千絢を見つめていた。それが刺さるようで怖い。彼を見ないようにした。

「……いえ。必要なことなのですよね?」

「次の仕事が決まったよ」

 神山が言った。

「今度も家出人捜しですか?」

「いいや。イベントに参加してもらう。流通小売業界の交流会だ」

「小売……父の関係ですか?」

 千紘の父親はチェーン・ストアの経営者だ。

「それもあるけどね……」

 そう切り出したのは青年だった。その声は、思いのほか若そうだ。彼は立ち上がり、ポケットから名刺を取り出した。

「……僕、中央小売業協会の寺岡健斗てらおかけんとといいます。今度、東和民主共和国で向こうの商工部との交流会が開かれるのです。それに、早瀬さんに参加してもらうことになりました」

「私が東和民主共和国に、ですか?」

「早瀬さん一人ではないですよ。日本の代表団は80人。僕もその一人です。向こうでは、早瀬さんのサポートに当たります」

 彼の態度は誠実なものだった。

「彼が一緒だ。スサノオもお料理ロボットとして参加する」

 神山が言った。

「お料理ロボット?」

「交流会イベントでそれぞれの国が商品やアイディアを発表します。そこで模擬店を開きます。その調理係がスサノオです」

 青年が述べた。

「それでスサノオが東和民主共和国の伝統料理を学んでいるのですね?」

「はい。神山博士には、スサノオの貸し出しをお許しいただきました。今回、日本の代表団の最大の目玉です」

(スサノオがお料理ロボットとは、役不足だ)

 ツクヨミが知るスサノオは戦闘用ロボットだ。

「そういうわけだ。日本代表として、しっかり務めてくれよ」

「は、はい……」

(博士、何を考えているんだ?)

(ツクヨミ、どういうこと?)

(スサノオをお料理ロボットにしたり、アマテラスを日本代表団に入れたり、裏の目的があるはずだ)

(それって、泊里さんたちがバンパイアになったことと関係があるのかしら?)

(そうだね。きっと、そうだ。……東和民主共和国に入国してから、何かを探すことになるのかもしれない)

「……でも私、パスポートを持っていません」

「それならここにある。まあ、座りなさい」

 神山がテーブルをトントンと指でたたいた。そこには灰色のクリアホルダーがあった。

 寺岡が腰を下ろす。千絢は彼の隣に座った。

「見てみなさい」

 神山がクリアホルダーを押してよこした。中には数枚の書類とパスポートがあった。

(パスポートなんて初めて)

 アマテラスの声が弾んでいた。

(嬉しそうだね)

(だってパスポートよ。私の証明書よ)

 パスポートを開くと丸メガネをかけた千絢の顔写真があった。

「……これは……」

(千速美琴?)

 パスポートにあるのは千絢の名前ではなかった。

「君の新しい名前だ。いや、東和にいる間だけの名だ。両親の氏名や君の経歴などはその書類にある。頭に叩き込んでおきなさい」

「偽造パスポート……」

「違う。日本国が発行した本物だ」

 千絢の視線がパスポートから神山に、それから寺岡に移った。彼が小さくうなずく。

(どうやら政府ぐるみということらしい)

(どういうこと?)

(アマテラスは、日本国の正式なスパイになったということだ)

 数日後、千絢は……いや、千速美琴は東和民主国に向かうチャーター機の機上の人となっていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る