第33話 とある賢者の回顧

 ――500年前。過去のロイ、ジェイク・パーソンズは、いつものように統領としての勤務に励んでいた。

 柔らかな光が差し込む小さな執務室で、彼は黙々とペンを走らせている。


 コンコン。


「失礼するわ」


 丁寧なノック音と共に、カディアの穏やかな声が部屋に届く。ジェイクはその声を聞くなり、慌てて執筆途中の紙を机の中に滑り込ませた。

 カディアはジェイクの返事を待たずに入室する。そしてまるで我が家にでも居るかのように、我が物顔でソファーへと腰かけた。

 やけに誇らしげな顔をするカディアに呆れ気味なジェイクだったが、このような態度はいつものことであるため、特に言及することもなく、いつものように彼女へ話しかける。


「おはようカディア。今日は機嫌が良さそうだな」


「分かる? これよこれ」


 カディアはそう言うと、自身が持って来た紙袋を揺らして見せた。

 何の変哲もない茶色の紙袋。真ん中にはブランドを示すものなのか、何かのロゴが描かれている。ジェイクはそれに見覚えが無いのか、疑問符を浮かべた。


「それは?」


「知らないの? 最近できた茶菓子屋の商品。毎朝行列をつくるほどの人気で、なかなか手に入らないのよ。店がブレンドした紅茶と焼きたてのクッキーが美味しいらしくて、前から気になっていたのだけれど……ふふ、今朝は運が良かったみたい。どっちも買ってきたから、あなたにも分け与えるわ。感謝しなさい?」


「はは、ありがたく頂くよ」


「ふふっ、全く、開闢の賢者が聞いて呆れるわね。少しは城の外を散歩したらどう? こんな部屋に籠ってちゃ、民を束ねる王として失格だわ」


「そうだな……検討してみよう」


「またそうやって……いつからこんなに引き籠るようになったのかしら? それにしても、知らないなんて驚きね。郊外ならまだしも、マルヴォルではもっぱらの噂よ? それに、開店許可の書類もあなたが署名したはずよね?」


「……言われてみれば、確かに。そうだったかな」


「ちょっと、しっかりしなさいよ? 私の仕事をこれ以上増やさないでちょうだい」


「ははっ、すまんすまん」


 ジェイクは悪びれもなく朗らかに上辺の謝罪をし、逆にカディアは怪訝そうな顔を浮かべて呆れていた。


 カディアは袋から茶葉を取り出し、お湯を入れようと席を立つ。そして、ふと気になったように、彼女はジェイクの顔をまじまじと見始めた。


「ん? どうかしたか?」


「えぇ、ちょっと……あなた、またシワが深くなったようね?」


「そ、そうか?」


「少しは休みなさい。最近の仕事も大した量じゃないでしょう? はぁ、なんで人間はこうも脆い生き物なのかしら。昔はあんなにハンサムだったのに……」


「いやいやいや、今もハンサムだろう? ……ハンサムだよね?」


「ぷっ、はいはい。イケてますわよ統領様。それじゃお湯を沸かすから」


 カディアはジェイクをひとしきり嘲笑った後、慣れた手付きで棚からティーセットを出した。そのまま魔法ですぐに水を沸騰させると、手際よくティータイムの準備を始める。


 時刻は8時。普段ならば仕事に勤しむジェイクだが、今日は大人しくカディアの気まぐれに付き合っていた。

 ジェイクは素直にペンをしまい、カディアが準備を整え終わるまで、静かに瞑目している。その顔は、どこか疲れているようにも見えた。


「できたわよ。ちょっと、今から寝る気?」


「ん、すまん。……最近、あまり寝られなくてね」


「へぇ、何かあったの?」


「……いや、なんでもない」


 含みのある間を置き、ジェイクはそう答えた。

 カディアは彼女らしくもなく一瞬だけ心配する素振りを見せ、しかし悟られることのないようすぐに普段の調子へと戻る。幸いにも、ジェイクに勘付かれることはなかった。


 ジェイクは目の前に出されたティーカップを口元へ運び、音を立てないように紅茶を啜った。口の中に広がる芳醇な味わい。ジェイクは素直に頬を緩め、一口を終えたところでテーブルにカップを戻すと、堪えていたものを吐き出すように、感嘆の溜息を零した。


「素晴らしい味だ」


「そう? グルメなあなたが言うのなら期待できるわね」


 カディアもそう言って紅茶を味わう。ジェイクの言った簡単でありながら上級な賛美に、彼女も心の中で共感した。格や高貴さに口うるさいカディアでさえ、納得できるほどの品だった。

 驚くことに、この紅茶は一般の市民にも手が届く代物だ。カディアはそれを考え、時代の進歩を実感する。まだこの国に名前が無かった頃を思い出し、仲間達と培った努力の一端ともいえるこの紅茶に、彼女は感慨深く瞳を閉じる。


 2人だけの空間に、心地の良い静寂が訪れた。ジェイクもカディアも声を出そうとはせず、優雅なティータイムを楽しんでいる。両者は、紅茶の味だけでなく、自分達の思いまでをも味わっていた。

 世界は平和になりつつある。ジェイクもカディアも、この紅茶が誰の元へも届けられる未来を信じ、希望が宿った。


「……あぁ、忘れていたわ。ほら、クッキーもどうぞ」


「そうだったな。一枚だけ頂こう」


「? 何を遠慮してるの? たくさんあるのに」


「今日はあまり食欲が無くてね。もちろん残りは後で頂くよ。残してくれよ?」


「もう、図々しいわね……言っておくけど、一枚も残してあげないわよ?」


「んな殺生な」


 ジェイクとカディアは下らないやり取りをしつつ、それからも談笑を続けた。


 そして一時間が経ちそうな頃、お開きにしようと言い出したカディアに、ジェイクは突如として話を持ち掛けた。


「カディア、これから2人で散歩にでも行かないか?」


「え……」


 ジェイクがプライベートで誰か一人を誘うのは、カディアが知る限り初めてのことだった。ジェイクが誰かを誘う時は、決まって仕事か、研究開発の話のみ。

 昔、そんな彼の性質を知らなかったカディアは、恥ずかしい思いをしたことがある。乙女心を弄ばれたように感じた彼女は、もう絶対にぬか喜びはしないと決めていた。だからこそ、今回も慎重に事を進めようとする。


「それは……デートのお誘いかしら? あなたが?」


「……まぁ、そうとってくれて構わない。最近は仕事でしか仲間達と関わっていないと思ってね。俺も仕事ばかりだったし、丁度いいかな、と。どうかな?」


「……他にも誰か誘うのかしら? セシリとか」


「いや、そんなつもりはなかったな。皆忙しいだろうが、誘ってみるか?」


「いいえ。私とあなたの2人でいいわ」


 恋敵や邪魔者が来る可能性が排除され、カディアは内心でガッツポーズを決める。

 未だ問題はあるものの、昔に比べればそれは塵のように少なく、仕事も落ち着いている時期だった。逆に言えば新たな発展に奮起するべき時だったが、仕事人間であるジェイクからの折角の誘いである。彼女に断る選択肢は無い。


 カディアにとってこの機会は……長年夢見ていた身を固めるための好機。言わば婚活に他ならない。正念場である。


「分かった。じゃあ仕事も切り上げるから、少しだけ待っていてくれ。時間はかからない」


「了解したわ」


「……そこに居るのか?」


「? 部屋を出ていた方がいいかしら? 見られたら困るものでも?」


「いや……やっぱり大丈夫だ。すぐに終わらせる」


 ジェイクはそう言うと、少しぎこちない動きで机から何かの紙を取り出す。そしてそのままペンを握り、静かに文字を書き連ね始めた。

 重要な書類なのだろうと無関心を貫くつもりだったカディアだが……何故かジェイクが挙動不審である。軽微な違和感だが、ジェイクと長い仲である彼女にははっきりと分かった。

 平静を取り繕うジェイクに、カディアは疑問を口にする。


「それ何を書いているの?」


「ん……弟宛ての手紙だよ。最近、連絡も取っていなかったからな。元気にしているか気になって……」


「……本当? あなた、さっきから様子がおかしいわよ」


「えっ……バレてたか?」


「舐めないでちょうだい。私の洞察力はあなたも知っているでしょう?」


「う、うん……その、一応言うが、公務中に別のことをしてるって言いふらさないでくれよ?」


「……呆れた。これから私も遊びに行くって言うのに、わざわざチクるとでも? 私をなんだと思ってるの??」


「う、その……カディアならやりかねないかな、って」


「……お望み通り、外で待つことにするわ。私が、邪魔みたいだからね?? あと今日のデート、全部奢ってもらうから覚悟なさい」


「はい……」


 ジェイクの不躾な発言により、機嫌を損ねたカディアは苛立った様子で部屋を出て行った。けたたましく悲鳴を上げて閉まった扉に、ジェイクは頭を抱えて溜息を吐く。あれほど楽しかったティータイムの余韻は、もう既に無い。

 ジェイクはいつもこうである。外交もそこそこ務める彼だが、時たま配慮に欠ける発言が自然と出てくるのだ。特に、女性相手に。


 ……しかし、先ほどのジェイクのカディアに対する態度は、彼が意図していたものだった。彼の計算通り、へそを曲げたカディアは自ら退室し、部屋に残るはジェイク一人のみ。このチャンスを逃すまいと、ジェイクは筆の動きを速める。

 すぐに執筆を終わらせ、ジェイクは書き終えた紙にサインをした。机の鍵が付いた段に紙を忍ばせ、彼は急いでカディアの元へ向かう。


 誰も居なくなった部屋に音は無く、『遺言書』と題された紙は、机の中にひっそりと残っていた。




「――悪かったよ。そろそろ機嫌を直してくれないか?」


「……ふん」


 ジェイクとカディアが城を出てから、かれこれ数十分が経過していた。しかし2人の間に会話は無く、街の喧騒の中をひたすらに歩いているだけだった。

 先に話し掛けたのは、この状況を見かねたジェイク。彼は素直に謝罪を述べ、しかしカディアは、鼻を鳴らしてそれを一蹴する。カディアと長い付き合いだからこそ、ジェイクは今の彼女の拗ね方が尋常でないことを悟る。


 どうしたものかと困り果てるジェイク。カディアはそんなジェイクの様子を盗み見て憤慨する。何故こんなことになっているのか、まるで見当も付いていないかのような彼の態度に、カディアは我慢できずに苦言を呈した。


「ミスタージェイク……私達、知り合ってからどれくらいの時間が経っているのでしたっけ?」


「ミ、ミスターって……えーと、俺が20代の頃だから……80年近く、かな」


「そう。もう随分長いこと一緒に居るわね」


「そうだな……?」


 回りくどいカディアの文言は、ジェイクへ気付きを与えるに不十分だったようだ。

 聡明であるはずのジェイクが、何故このような機微に疎いのか、カディアは今でも不思議でならなかった。自由気ままな面を持つカディアが、自分に非があるのではと思ってしまうほどに。

 しばらくの沈黙の後、このままでは埒が明かないと考え至った彼女は、目の前の鈍感な男のため、先に折れてやることにした。


「ジェイク、本気で思ってるの? 私があなたを裏切るようなマネをすると?」


「……あぁ、そのことか。あれは冗談半分のつもりだったんだ。本気なわけないじゃないか」


「半分は、本気だったのね??」


「いやいや、考えてみてくれ。君は俺を揶揄うのが好きだろう?」


「……いつの話をしてるのよ」


 カディアは過去に、毎度とも言っていいほどジェイクにちょっかいをかけ、わざと迷惑をかけていた。しかし、それは数年前までの話である。カディアとしては、もう忘れて欲しい昔のことであり、彼女自身、とっくに気にも留めていないことだった。


 カディアは彼女らしくもなく、物悲しい気持ちになった。彼女の言う通り、2人の付き合いは長い。しかし、その関係性にはまるで進歩が無い。約80年の時を経て尚、彼らの関係は仲間止まり。その先を望むカディアにとって、この認識の齟齬は看過できるものではなかった。

 しかし、カディアはその気持ちに蓋をした。ジェイクに悟られたくなかったという理由もあったが、一番は彼女の余裕である。まだ時間はあるのだ。ここで急いても仕方ない。カディアはそう思った。


「だけど、そうだな……。俺が悪かった。無神経だったよ」


「いえ……もういいわ。私の日頃の行いでもあるしね」


「……明日は槍でも降るのか?」


「本当に私のこと何だと思ってるのよ……」


 結局、不躾な本音を零すジェイクにカディアは溜息を吐き、しかし昔から変わらぬ彼の中身に、彼女は安心感を覚えた。

 そう思うと、カディアの心はふっと軽くなる。彼女はこれを機に、幼児のようにいじけるのは止め、この幸せな時間を噛みしめることに決めた。




 2人はただ街を歩き回った。何か特別なことをしたわけじゃない。目に入った場所に留まっては、また他の場所へと足を向ける。休憩を挟み、その度に何気ない会話に花を咲かせる。地味な一日でありながら、しかしジェイクとカディアは満足そうに笑っていた。


 そんな何気ない日も終わりを迎えようとしている。日はとっくに沈み、綺麗な星が浮かぶ夜空の下、2人は何も無い野原に居た。

 汚れなど気にせず、彼らは並んで草の上に座る。


「……綺麗ね」


「ああ」


 丸一日と言っていい程の時間を共有していた2人。思いのままに語り尽くし、もう話すことなどなく、ただ星を眺めている。しかしカディアから不意に出た一言は、今もジェイクの心に響いていた。

 ほとんど無言の時間が続き、カディアは名残惜しさを覚える。このかけがえのない時間が終わってしまうことを、彼女は知っていた。


「楽しかったな」


「……そうね」


 終わりを告げたのはジェイクだった。何ともなさそうに言うジェイクに、カディアは寂しさを覚えた。情けないほど気持ちに尾を引いているのは、自分だけなのかと。

 意外なことに、ジェイクはそんな彼女の様子に気が付いていた。


「また来ればいいさ。近いうちにね」


「……ふふ、そうね」


 ジェイクがこちらを気遣うような言葉を掛けるなど、カディアは露ほども考えていなかった。デリカシーの無いジェイクを知っているからこそ、その彼の反応が特別であるとカディアは感じ、思わず頬を緩める。

 進展があったと言うにはあまりにも乏しい変化。しかし今のカディアはそれで満足だった。自身の願いが成就するのも夢ではない。彼女はそう信じてやまなかった。




 帰路に着き、段々と街の光も消えて行く時間。ジェイクは城に、カディアは自宅に帰るため、余韻に浸りながら静かに歩いた。

 岐路に差し掛かり、2人は別れの挨拶を交わす。


「今日は楽しかったわ。はぁ、また明日から仕事ね。……じゃあ、おやすみなさい」


「あぁ……また明日。おやすみ。気を付けて歩くんだぞ」


「ぷっ、はいはい。あなたの方が心配だわ」


 吸血鬼を心配する人間など、ジェイクくらいだろう。カディアはそれが可笑しくてたまらなかった。

 最後に良い思い出ができたと気分よく帰ろうとするカディア。……背を向け帰ろうとする彼女を、ジェイクは呼び止めた。


「カディア」


「? 何かしら?」


「その……君が仲間で本当に良かった」


「……? 何よ急に。私が敵になるとでも?」


「あーそうじゃなくて……君と仲間になれたことが、心から嬉しかったんだ。それだけだ」


「……ちょっと、やめなさいよ。そんな恥ずかしいこと、よく言えるわね?」


「ははは、今言っておきたくてね」


「そう。じゃ、私は帰るから」


 カディアはぶっきらぼうに言葉を吐き捨て、そのままスタスタと歩き始めた。彼にこんな顔は見せられない、と焦りを隠して。彼女は恥ずかしそうに頬を染め、耳も真っ赤になっていた。


 カディアからすれば、今日は進展のありすぎる日だった。あのジェイクが、朴念仁に片足を突っ込んでいるあの男が、自分の想像を越え、積極的に距離を縮めて来たからだ。時間をかけてゆっくりと距離を縮めようとしていたカディアは、思わずたじろぎそうになるのを必死で堪えていた。

 そして彼女は夢想する。ジェイクの思いを。もしかしたら……彼も、私を好いているのではないかと。そんなことを考える自分が恥ずかしく、しかし期待せずにはいられない。


 生娘のように枕に顔を埋めるカディア。そして、次第に気付く。仲間で良かったと言ってくれたジェイクに、自分はまともな返事をしていないと。

 そんな恥ずかしいこと、到底口にすることは出来ない。そう考えた彼女は、しかし何の返事も無ければ、それはそれで不義理なのではと相反する思いもあり、気持ちのせめぎ合いに悶えていた。


「~! ……はぁ…………ま、気が向いた時でいいわね」


 恥ずかしさに耐えられなかった彼女は結局、妥協の逃げ道を選んだ。意気地が無いのではと自問し、どれもこれもジェイクが悪いと結論付ける。

 カディアは埒が明きそうにない問題に蓋をし、眠ろうと目を閉じた。不思議なことに、彼女はすぐに入眠した。それほどに心が晴れやかだった。

 カディアは明日が待ち遠しく、自身を出迎えてくれるであろう最愛の人間の顔を夢見る。その寝顔はまさしく、恋する乙女のもの……。


 ――翌朝、カディアを出迎えたのは、ジェイクの訃報であった。




 死因は老衰だった。解剖医によると、臓器不全は生前からのものだったようで、兆候が全く無かったことが不思議だという。脳からも巨大な腫瘍が発見され、認知症などの病を患っていなかったのが奇跡だと。


 多くの国民がジェイクの死を悼んだ。国葬が開かれ、数週間もの間、国のシンボルでもある木を模した国旗が空を舞っていた。国の各地で、銅像も建てられた。


 その一方で国営の危機が懸念されたが、ジェイクが用意していた遺言書が発見され、大事には至らなかった。

 内容のほとんどは国のこと。国の方針を、セシリ、グランツ、ウェンリー、シャビナドゥ、カディア、この計5人に託すと。彼らはジェイクの死を嘆き、しかし国を支えようと決意を固め、各々ができることを懸命にこなした。


 次期統領は、カディアが務めることになった。これは大勢からの推薦であり、さらに彼女が立候補したからだ。カディアはジェイクの献身を無駄にしてはいけないと奮闘しつつも……どこか夢心地に居た。




 カディアは人間の寿命が短いものだと知らなかった。いや、知ってはいたが、彼女はせいぜい500年程度だろうと思っていた。人間のうち、100年も生きる者は少ないという事実を知ったのは、ジェイクが死んだ後のことだ。

 この酷い誤解が生まれた原因は、彼女が高貴な吸血鬼だからだろう。


 吸血鬼の女性は、死ぬまでその美貌が衰えることはない。しかし逆に、男は一生の半分以上を老齢の姿で過ごす。一説では、吸血鬼は高貴なものであるため、威厳を必要とした男は、そうやって進化してきたのではないかと噂されている。

 だからこそ、カディアは年老いていくジェイクを目の当たりにしても、それが老化ではなく、成長だと思っていた。転生特典の影響により、ジェイクが健康を維持したまま年を重ねていたことも、その要因の一つになってしまったのだろう。


 そして、カディアはその身分や性格から、他人への興味に軽薄だった。関わりがあった人間はジェイクただ一人のみであり、仕事の関係上、人と関わる機会も少ない。

 さらには、ジェムピース国の人口、その半分以上が人間以外の魔族で構成されていることもあり、身近で人があの世へ旅立つことなど滅多に起きない。カディアにとって身近な人の死は、これが初めてのことだった。




 それからカディアは、仕事にのめり込むようになった。ジェイクが残したものを守るため、彼が残していったものが変わってしまわないように、彼女は人生を国に捧げ始めた。

 そして何より……後悔に押し潰されてしまわないように。


 カディアは今でも、あの日の出来事を鮮明に思い出す。人生で最も尊い時間であり……決して覆らない後悔の最後。彼女の心の秒針は、あの時に止まってしまった。




「……ん」


 クマが深い目をこすり、カディアは起床する。あれから500年も経つというのに、彼女は今でもあの日を夢に見た。

 眠気でまともに働かない頭を無理やり起こし、いつものように仕事へ向かう。

 隣の部屋だというのに、執務室までの足取りは重い。机に座ればなんてことはない。彼女は自分にそう言い聞かせ、今日も今日とて気合を入れた。


 そして執務室の扉を開けると……。


「……あ、おはようございます」


 自身よりも早く出勤している秘書を見て、カディアは目を鋭く細める。

 ……カディアは、ロイが気に食わなかった。

 

 カディアが初めてロイを認知したのは、魔法学園ジェイフォードでのこと。ロイはジェイクと似た魔法を扱っていた。

 カディアはセシリにロイと接触するよう促し、その素性を洗おうとした。


 そして気づけば、セシリがロイを秘書に推薦した。カディアは最初、何が起こったのか分からなかった。接触からの数日間で、何があったのかと。

 しかしセシリが正気であると分かったカディアは、彼女の厚意を無下にするわけにもいかず、訝しみながらもロイを傍に置いてみた。


 その結果は、カディアの予想とは裏腹に、充分なものだった。ロイは秘書として有能であり、初めてとは思えないほどに仕事をこなしていた。あれほど山積みになっていた仕事も目に見えて減り、これにはカディアもその働きぶりを認めざるを得ない。


 しかし、問題は昨日のこと。ロイはカディアに、改革を進言した。


 カディアは激怒した。平静を取り繕う努力も虚しく、彼女からは怒気が滲み出る。彼女の中で重ねつつあったロイの信頼は、風に吹かれた塵のように消え去った。




『……ガキのくせに』


 統領としてのカディアは、ロイを認めている。彼が言ったことには一理あり、この国のためを思うならば、改革が必要だと。最善を取る場合、自身がその座を退くことになっても、それが未来のためであると。

 ……しかし、彼女はそれを認めるわけにはいかなかった。カディアには、そんなことよりも大事な思いがある。


 カディアはジェイクを失って以来、変化を嫌う思想が根付いていた。彼女は誓ったのだ。ジェイクが残してくれたこの国を、思い出を、失うわけにはいかないと。それはカディアが思うジェイクの未練であり……そして何より、彼女自身の願いだった。


 カディアはこの国を変えたくなかった。ジェイクとの思い出が、風化してしまうような気がして。あの日々が過去になってしまうことを、認めたくなかった。


「? カディア様?」


「っ! なんでもないわ。さ、仕事をしましょ」


 心配そうな声を上げるロイに、カディアはどうしようもなく苛立つ。しかし、ここで衝動のまま怒鳴りつけるのは彼女のプライドが許さない。

 そんなみっともないことは、統領として相応しくない。カディアは自分にそう言い聞かせた。


 カディアは自身の心に蓋をし、今日も勤勉に働く。……心の内を吐露すべき相手がすぐ傍に居ることに、彼女はまだ気付いていない。

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