Section8-1:再びイリスの元へ

 月明かりだけが頼りの深夜、ロシュフォール家の別荘は森に囲まれて静まり返っていた。


「今夜も眠れないわね」


 イリスは窓辺に立ち、暗闇の彼方を見つめていた。別荘に来てから三日目の夜。彼女の白銀の髪が月光を受けて幻想的に輝いている。彼女の横顔は美しく整っていたが、その紫色の瞳には言いようのない寂しさが宿っていた。


 セドリックとの別荘暮らしは、表面上は平穏に過ぎていた。優雅な朝食、散歩、読書、夕食——すべてが上品で洗練されていた。しかし、イリスの心は常に別の場所にあった。


「ヴァルト…」


 その名を口にするたび、胸が痛むような、でも温かいような不思議な感覚に包まれた。あの日、王都で別れてから十日。彼の姿を見ないまま、イリスはセドリックに連れられてこの別荘に来ていた。


「お嬢様、まだ起きていらっしゃるんですか?」


 振り返ると、小さな明かりを手にしたユナが入ってきた。彼女の茶色い髪は三つ編みを崩し、寝間着姿だった。


「ユナ、ごめんなさい。起こしてしまったかしら」


「いいえ!」ユナは元気よく首を振った。「ちょうどお水を飲みに行こうと思ったところです。でも…」彼女の表情が心配そうになった。「お嬢様、毎晩こんなに遅くまで起きていると、体に良くありませんよ」


 イリスは小さく微笑んだ。このユナの素直な心配が、今の彼女には何よりの慰めだった。幸い、セドリックは「お付きの者を一人だけ」という条件を受け入れてくれて、ユナを連れてくることができた。


「大丈夫よ。少し…考え事をしていただけ」


「ヴァルトさんのことですか?」


 その質問に、イリスは少し驚いた。「どうして分かったの?」


 ユナは少し照れたように笑った。「だって、お嬢様がそんな顔をするのは、ヴァルトさんのことを考えているときだけですもの」


「そんな顔って…」


「はい!」ユナは突然、真剣な表情で眉をひそめ、でも目は少し遠くを見るような表情をした。「こんな感じです!」


 その滑稽こっけいな真似に、イリスは思わず笑みを浮かべた。「そんなに分かりやすいかしら」


「ええ、とっても!」ユナは嬉しそうに言った。「でも、それが素敵なんです。お嬢様が誰かのことをそんなふうに思うなんて…」


 イリスは窓の外に視線を戻した。「ユナ、あなたは…この別荘での生活、どう思う?」


「え?」ユナは少し考えて答えた。「とっても豪華で、お料理も美味しくて、セドリック様も親切で…でも」


「でも?」


 ユナは声を落とした。「なんだか、お嬢様がとらわれの姫みたいで、私、少し心配なんです」


 イリスはその言葉に胸を突かれる思いがした。確かに表面上は何も不自由のない生活。セドリックは彼女に優しく、森の中の美しい別荘での日々は平和そのものだった。けれど…


「ユナ、実は…」イリスは何かを告白しようとして、急に言葉を切った。


 窓の外、森の中に小さな光が見えた気がしたのだ。


「あれは…」


 イリスは身を乗り出して目を凝らした。間違いない。森の中を移動する松明の灯りだ。それも一つではなく、複数。


「ユナ、誰か来たわ」


「まさか、こんな夜中に?」ユナも窓際に駆け寄った。「山賊…なんてことはないですよね?」


 イリスは首を振った。「ここはロシュフォール家の領地よ。そんな者たちが近づくはずがないわ」


 二人は息を殺して見守った。灯りは別荘に近づきつつあるが、規則正しい動きをしている。まるで警備の者たちのようだ。


「お嬢様、セドリック様に知らせたほうが…」


「待って」イリスは再び目を凝らした。灯りを持つ人影の中に、ひときわ背の高い人影ひとかげが見えた気がした。そのたたずまいは…


「ヴァルト…?」


 イリスの心臓が激しく鼓動を始めた。彼女の直感は確かだった。あの姿は、間違いなくヴァルトだ。でも、なぜ彼がここに?しかも夜中に?


「本当にヴァルトさんですか?」ユナも目を見開いて尋ねた。


「ええ、きっとそう」イリスは唇を引き結んだ。「でも、何か不吉な予感がするわ」


 彼女が言い終わらないうちに、別荘の正面玄関から物音が聞こえた。男たちの声、それから馬のいななき。誰かが到着したのだ。


「行ってみましょう」イリスは決然と言った。


「で、でも、お嬢様!こんな夜中に」


「ヴァルトがここに来たのには、必ず理由があるはず。私は知りたいの」


 イリスは足早に部屋を出て、階段を降りた。ユナもあわてて後を追う。一階の広間ひろまには、すでにセドリックが寝間着の上に上着うわぎを羽織って立っていた。彼の青い目が驚きに見開かれている。


「イリス!どうして起きているんだ?」


「外から音がしたから」イリスは簡潔に答えた。「誰が来たの?」


「それが…」セドリックが答えようとした時、広間の扉が開いた。


 そこに立っていたのは、旅装束に身を包んだヴァルトだった。彼の服はところどころ破れ、顔にはり傷がある。明らかに長旅と苦闘の痕跡こんせきを残していた。


「お嬢様」


 その声を聞いた瞬間、イリスの膝頭ひざがしらから力が抜けそうになった。目の前の彼は幻ではない。本物のヴァルトが、今、ここに立っている。


「ヴァルト…」


 彼女は思わず一歩前に出たが、セドリックが彼女の前に立ちはだかった。


「一体どういうつもりだ?」セドリックの声には、珍しく緊張がにじんでいた。「こんな夜中に現れるなんて」


「お許しください」ヴァルトは深く頭を下げた。「急を要する用件でした。お嬢様の身に危険が迫っています」


「危険?」イリスとセドリックが同時に声を上げた。


 ヴァルトは周囲を見回し、声を潜めた。「この場では詳しく申し上げられません。ですが…」


 彼はイリスの目をまっすぐ見た。その琥珀色の瞳には、切迫した思いが宿っていた。


「お嬢様、すぐにここを離れなければなりません」


 その言葉に、部屋が静まり返った。イリスは自分の心臓の鼓動が耳に響くほどだった。


「待て」セドリックが険しい表情で言った。「そんな突然の話を信じろというのか?何の証拠もなしに」


「証拠ならあります」ヴァルトは懐から一通の手紙を取り出した。「これはノクターン侯爵から王宮の魔法技術院に宛てた書簡です。内容をご覧ください」


 彼が差し出した手紙をイリスが受け取ろうとすると、セドリックがさえぎった。「危険かもしれない。俺が」


 彼は手紙を開き、目を通した。読み進むにつれ、彼の顔色が変わっていく。


「これは…本物か?」


「残念ながら」ヴァルトはうなずいた。「ラヴェンデル男爵邸で見つけたものです」


「どういう内容なの?」イリスが問いかけた。


 セドリックは顔を上げ、ためらいがちにイリスを見た。「君の父親が…君を王宮にし出すという約束をしている。"異能者"として研究するため、と」


 イリスの全身が凍りついた。父の計画を聞いてはいたが、実際に証拠を突きつけられるとは。「父は本当に…私を売ろうとしていたのね」


「それだけではありません」ヴァルトの声がさらに低くなった。「明日、王宮からの使者がここに到着する予定です。お嬢様を"保護"すると称して連れ去るために」


「明日?」イリスの血の気が引いた。「でも、どうしてここに?父は私が別荘にいることをどうやって…」


「おそらく私が原因です」セドリックが重い口調で言った。「父に手紙を出したんだ。君との滞在について報告するために」


 イリスはセドリックを見つめた。彼の青い目は悔恨に満ちていた。


「知らなかったんだ…」彼は言葉を絞り出した。「君の父親と王宮が共謀していたなんて」


 ヴァルトはセドリックをじっと見た。「ロシュフォール様、あなたが関わっていないとすれば…今すぐにでもお嬢様を安全な場所へ」


「もちろんだ」セドリックはきっぱりと言った。「俺も一緒に行く」


「それは…」ヴァルトの表情に警戒けいかいの色が浮かんだ。


「ヴァルト」イリスが割って入った。「セドリックは信頼できるわ。彼はずっと私に"選択肢"があると言ってくれていた。自由を得るための」


 ヴァルトは静かにうなずいた。「分かりました。では急ぎましょう。荷物は最小限に」


「わたしも手伝います!」ユナが前に出た。「お嬢様の荷物をすぐにまとめます!」


「ありがとう、ユナ」イリスは彼女に微笑みかけた。「あなたも一緒に来てくれる?危険かもしれないけど」


「もちろんです!」ユナの目は決意に燃えていた。「お嬢様がどこへ行かれようと、私はついていきます!」


「私は馬を用意させる」セドリックが言った。「東の小屋こやなら、夜番の目が届かない」


 皆がそれぞれの準備に散っていく中、イリスとヴァルトが一瞬いっしゅん二人きりになった。


「ヴァルト…」イリスは彼に近づいた。「本当にあなたなのね」


「はい、お嬢様」彼の目に温かな光が宿った。「約束通り、戻ってきました」


「あなたの怪我は…」イリスが彼のり傷に目をやった。


「些細なものです」ヴァルトは小さく微笑んだ。「ラヴェンデル男爵の屋敷からい出すのに少し手間取っただけで」


「本当に…無謀な人ね」イリスの声が少し震えた。「でも、戻ってきてくれて…ありがとう」


 ヴァルトはまっすぐ彼女を見つめた。「お嬢様のためなら、何でもします」


 その言葉に、イリスの胸が熱くなった。これまでいつも彼女を守ってくれたヴァルト。今度は、彼女も何かできるはずだ。


「今度は私があなたを守るわ」イリスはふいに言った。


 ヴァルトの目が少し見開かれた。「お嬢様…」


「ほら、急ぎましょう」セドリックの声がして、二人は我に返った。「東の門から出られるよう手配した」


 三十分後、彼らは夜の森の中を馬で進んでいた。イリスとユナ、セドリック、ヴァルト、それに二人の信頼しんらいできる家臣たち。月明かりだけを頼りに、静かに、しかし急いで進む。


「どこへ行くの?」イリスがヴァルトに尋ねた。


「まずは森の奥にあるふるびた寺院へ」ヴァルトが答えた。「そこで一晩過ごし、明日の夜に次の場所へ移動します」


「森の中に寺院なんてあったのね」


「ええ、廃れていますが、雨風はしのげます」


 イリスは前を行くヴァルトの背中を見つめた。彼の姿は月光の中でけ込むかのようだったが、その存在感は彼女の心に強く響いていた。


(これが私の選んだ道)


 彼女は密かに決意を新たにした。父のしばりから逃れ、自分の力を受け入れ、そして…ヴァルトと共に歩む道。


 突然、森のおくから不気味な風が吹いてきた。イリスの髪が舞い上がる。


「何か来る!」ヴァルトが鋭く叫んだ。


 次の瞬間、森の中から黒いかげのような存在が現れた。それは人の形をしていたが、普通の人間ではない。漆黒しっこく外套がいとうをまとい、仮面かめんで顔を隠した人影だった。


「魔法技術院の追っ手!」セドリックが絶叫ぜっきょうした。「来るのが早すぎる!」


「罠だ!」ヴァルトが叫び、イリスの前に立ちはだかった。「お嬢様、私の背中につかまって!」


 追っ手は五人ほど。全員が黒装束で、手には奇妙なつえのようなものを持っていた。その先端が不気味に光っている。


「イリス=ノクターン」先頭の黒装束が声を上げた。「貴女はノクターン侯爵様のご命令により、王宮魔法技術院の保護下に入っていただく」


「断る!」イリスはきっぱりと言った。「父の命令だとしても、私は行かない!」


「従わないのであれば…」黒装束が杖を掲げた。「力ずくでも連れて行く!」


 杖から紫の光が発せられ、彼らの前方の木が一瞬でこおりついた。


「術者だ!」セドリックが剣を抜きながら叫んだ。「分散して逃げろ!」


 混乱の中、イリスは背後から何かにつかまれた感覚があった。振り返ると、一人の黒装束が彼女のドレスのすそを掴んでいた。


「来い!」


「離しなさい!」イリスは抵抗したが、相手は非情に彼女を引っ張る。


 その時だった。


「イリス様!」


 ヴァルトの鋭い叫び声と共に、彼が一閃いっせん。黒装束の腕をぎ払う一撃で、イリスは解放された。


「下がってください!」


 ヴァルトはイリスを守るように前に立ち、獣人特有の鋭い爪をき出しにした。その瞳は金色に光り、全身から獰猛どうもう気配けはいを放っていた。


「術者たちを迂回します!」セドリックが叫んだ。「イリス、私についてきて!」


「でも、ヴァルトは!」


「私は大丈夫です」ヴァルトが言い放った。「お嬢様の安全が最優先です。セドリック様に従ってください」


「でも…」


「お願いします」ヴァルトの声には切迫感があった。「必ず後を追います」


 イリスは苦渋くじゅうの決断を迫られた。ヴァルトを置いていくのは耐えられないが、彼の言うことには理があった。


「必ず無事で来て」イリスは強く言った。「これは命令よ」


 ヴァルトの顔に小さな微笑みが浮かんだ。「かしこまりました、お嬢様」


 イリスはセドリックとユナに続いて森のしげみの中へ入っていった。背後では、ヴァルトと残りの家臣たちが黒装束とたたかっている音が聞こえる。


(ヴァルト…必ず無事に)


 彼女は心の中で祈りながら、闇の中を走り続けた。これが彼女の選んだ自由への道——それは決して容易なものではないことを、彼女は理解し始めていた。


 でも、振り返るつもりはなかった。

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