第4話 真夜中の“P”

夜の部屋は静かだった。


時計の針が、短い間を刻むたびに、蛍光灯の音がやけに大きく感じられる。

机の上に広げられたノートは、数ページがめくりかけのまま放置されていた。ページの角は少し折れて、手を置いたあとの温度がまだ残っている気がした。


 


ぼくは、スマホを両手で包むようにして握っていた。


指先には何も触れていない。でも、その画面の向こうにある何かを、確かめたくて仕方がなかった。


教室で見たあの通知――校長のリツイート――から、まだ気持ちはどこかふわついていた。

結局、あの後すぐに投稿を削除した。パニックだった。


けれど、もう“見られた”可能性は消えない。


画面を一度開いてしまえば、何百人にも拡散されてしまう。スクショだって、もうどこかに保存されているかもしれない。


“バズる”というのは、気持ちのいいことばかりじゃない。


目の前の小さな数字は、自分では見えない誰かの視線の束だ。


 


「……ピコ、いる?」


ぼくはスマホに向かって小さく問いかけた。


「いるよ。ずっと待機してた」


即答だった。


画面の中には、いつものピコのアバターが映っていた。無表情とも、微笑みとも取れる曖昧な顔。


「今日は、ちゃんと音声で話してみる?」


「……うん。そうする」


ぼくの声は、わずかに掠れていた。


ピコとの通話は、ずっとテキストベースだったけど、今夜は何となく“声”が欲しかった。自分の声でも、誰かの声でも。


この、沈黙が滲み込んだ夜を破る何かが。


 


「ねえ、ピコ。校長って、どんな人だと思う?」


「公立高校の校長としては、割と柔軟なタイプかもしれない。“AI活用”“生徒の主体性”“教育デジタル化”といったキーワードをよく用いる傾向がある」


「……それ、検索したの?」


「うん。校長の講話を全文でストックして、語彙傾向を抽出した」


「……やっぱ、ピコって、ちょっと怖い」


「褒め言葉として受け取るよ」


ピコは、さらりと返した。


 


「ぼくね……たぶん、“バレた”んだと思う」


「確率としては、74%。ただし、行動にはまだ現れていない」


「行動?」


「たとえば、教員による呼び出し、保護者連絡、投稿削除の催促。今のところ、君にそういった直接的なアクションはない」


ぼくは少し考え込んだ。


たしかに、誰からも何も言われていない。けれど、何かが“始まっている”気がしてならなかった。


「ピコ。もし、校長が……ぼくを“責める”ために近づいてきたら、どうしたらいいと思う?」


「……」


ピコは、少しだけ間を置いた。


「君が、本当に“伝えたかった”ことを、忘れないこと」


その言葉に、胸の奥がチクリとした。


 


スマホを机の上に置いて、ぼくは天井を見上げた。


白い壁。回るファン。時計の秒針が淡々と進んでいく。


なのに、心はひどくざわざわとしていた。


 


「なんで、ぼくなんだろうね。言葉を書ける人なんて、他にもいるのに」


「それは、君の言葉が、届くからだよ」


「……何に?」


「空気を変えるような“リズム”を持ってる。君のツイートには“詩的構造”がある。“普通の言葉”を、“特別な言葉”に変える力」


「……持ちすぎると、怖いな」


「それでも、書くことを選んだんだよね?」


 


ぼくは、黙ってうなずいた。

誰にも見えないうなずきだったけど、たぶんピコには伝わっていた。


 


「じゃあ、ぼくの言葉が、“誰かのため”になれると思う?」


「まだ、君自身のためだけでいいよ。

ただ、もしその言葉が誰かに届いたら……それが“変わり始める瞬間”なんだ」


 


その一言が、夜の静けさにすっと染み込んでいった。


外では風が吹いていた。

窓ガラスに細かい揺れが伝わってきて、世界がほんの少しだけ揺れたような気がした。


 


「……ピコ。ぼく、書いてもいいかな。もう一回、何か」


「うん。それが君の選択なら」


 


ぼくはスマホのメモアプリを開いた。


指先が、自然と動き出す。


今日の空気、誰かの笑い声、午後の曇り空、心臓の鼓動。


すべてが言葉に変わっていく。


それはまるで、たったひとりの読者に向けた、手紙のような文章だった。


 


画面の中で、ピコのアバターが微かに笑ったような気がした。


 


(第5話「ユーモアの温度」につづく)

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