第1章「タイムラインと無音の朝」
第1話 眠たい体育館
月曜の朝。
「またか」と思いながら、ぼくは列の中で静かに立っていた。
体育館の中は、なんとも言えない湿り気に包まれている。
暖房が効いているはずなのに足先が冷えるのは、床のコンクリートがじっとりと冷たいからだろうか。けれど、それ以上に、この空間を覆っているのは「退屈」だった。
目には見えないけれど、誰の体にもまとわりついて、動く気を失わせていく。そんな退屈。
背中を丸めるでもなく、姿勢を正すでもなく、ただその場に“存在している”だけの生徒たちが、前を向いて並んでいる。全員が一様に無表情で、目線の焦点もどこか曖昧だ。まるで、空気ごとスリープモードに入っているみたいだった。
スピーカーからノイズ混じりの音が鳴る。
少しの間を置いて、ゆっくりと校長先生の声が聞こえてきた。
「えー、おはようございます。今日も、みなさん元気そうで、たいへん結構です……」
体育館の天井から吊られたスピーカーは、音の輪郭をわずかにぼかしてしまう。
それが逆に、眠気を誘っている気がしてならない。
校長先生は壇上のマイクの前に立っていた。
毎回同じグレーのスーツに、同じ眼鏡、同じリズムで言葉を並べていく。
決して嫌いではないけれど、正直に言えば、話の内容は毎週ほとんど頭に入ってこない。
「さて……今日は“時間を守る”ということについて、お話をしたいと思います」
ああ、それ、前にも聞いたな、とぼくは心の中でつぶやいた。
視線を斜め前に落とすと、前列の男子が小さくあくびをかみ殺していた。
その左隣の女子は、スマホの通知がこないかそっとポケットを触っている。
もっと後ろからは、誰かがそっとペットボトルのキャップを開ける音が聞こえた。
みんな、静かだ。でも、それは決して集中しているからじゃない。
“この時間をどうにかしてやりすごそう”とする、集団の無言の知恵だった。
ぼくは、こっそりと足元をずらし、片方のかかとだけを上げた。
コツン、と小さく音がして、それだけでなんとなく罪悪感を覚える。
けれど、その音さえも、この空気を壊すには小さすぎた。
天井を見上げる。高くて、無機質な鉄骨が並ぶその先に、細い採光窓がある。
そこから差し込んだ朝の光が、埃を浮かび上がらせている。
その一粒一粒が、空気中をふわふわと舞いながら、まるで止まっているかのようだった。
時間が、ぴたりと動きを止めたような感覚。
なのに、時計の秒針はしっかりと動いている。
ぼくの胸の中にだけ、時間が取り残されたみたいな違和感が広がっていった。
「“時間を守る”というのは、他人への思いやりでもあります。自分の行動が、誰かの流れを止めてしまうこともあるのです」
校長先生の声は、たぶん誠実だ。
決して間違ったことは言っていない。
でも、言葉って、ただ正しいだけじゃ、届かないこともあると思う。
それは、きっと校長先生自身もわかっているんじゃないか――
いや、わかっていても、どうしようもないのかもしれない。
ぼくは、ポケットの中でスマホをそっと握った。
このあいだ投稿した“朝礼あるある”のツイートが、今朝だけで300回以上リツイートされていた。
「今週も“音漏れマイク選手権”開催中」とか、「校長の話は3分後から“夢の世界”へ誘導してくれる」とか。ちょっとした言葉遊びに、みんなが笑って、共感してくれた。
あの言葉たちは、誰にも言えなかった“ぼくの本音”だ。
文字にして投げたら、驚くほど多くの人がそれを受け取ってくれた。
でも、こうして立っている今のぼくは――何も言えない。
口を開く勇気もなければ、目線を合わせる自信もない。
ただ、いつもと同じように、校長先生の声を聞き流して、終わるのを待っているだけ。
届かない言葉と、届いたはずの言葉。
その落差が、ぼくの胸の奥でひっそりとぶつかり合っていた。
ふと、視界の端に、校長先生の目線が引っかかったような気がした。
一瞬だった。
でもその目が、まっすぐこちらを向いていたような――そんな錯覚。
ぼくは反射的に視線をそらした。
同時に、心臓がひとつ強く脈を打った。
それでも、何事もなかったかのように、朝礼は続いていた。
この空気の中で、誰もがそうしてきたように。
だけど、ぼくの中で何かが、ほんの少しだけきしんだ気がした。
次の週も、また朝礼はある。
でも、そのときの“ぼく”は、本当に今日と同じでいられるだろうか。
(第2話「校長レトロ説」につづく)
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