第Ⅱ章:感情は通貨になった
第04話「心拍の値段」
その日、朝の空はよく晴れていた。
透明な光が天井の反射材を抜けて、教室全体に均質な白を落としていた。
けれどその光には“温度”がなかった。
まるで蛍光灯のように、人工的で均一な昼だった。
朝倉コハルは、窓際の席に座りながら、ホログラムの通知を見つめていた。
【エモーションスコア:本日0.3】
ご安心ください。正常範囲です。
「……ご安心ください、ね」
小さくつぶやくと、その声が自分の耳にだけ跳ね返ってきた。
正常。安心。
そう言われれば言われるほど、逆に不安になるのは、どうしてだろう。
「はい注目──!」
乾いた声が教室に響いた。
声の主は、水無瀬ミオ。
コハルと同学年、同じクラスの少女。
白いラボコートに、透過式デバイスをいくつも腕に巻き、まるでこの時代の“錬金術師”のような見た目をしていた。
目元はクールで、表情は常に整っていたが、その実態は──“天才型の実験中毒者”。
ミオは教師の代わりに講義を始めた。
今ではAIによる自主学習が基本となり、人間の教師は形式上の存在となっている。
生徒の中から「知識提供者」が選ばれ、教室ごとに交代で発表する──それが今の教育制度だった。
「本日、わたしが導入するのは、新たな感情評価システム──
**『レゾナンス・インデックス(RI)』**です」
その言葉に、教室がざわめいた。
といっても、声が上がるわけではない。
視線の角度、まばたきのタイミング、呼吸の深さといった微細な挙動がAIによって解析され、**“ざわめいていると判断された”**だけだった。
AIは感情の表出すらも“代理解釈”する。
「RIは、個人が他者とどれだけ感情的に共鳴できたか──
その“揺れの度合い”を数値化し、記録し、そして、資産として運用できるスキームです」
ミオの声は冷たくもなめらかで、自信に満ちていた。
「わたしたちは、これまで感情を“測る”ことはしてきた。
でも、それを“価値にする”ことは、避けてきた。
なぜ? 曖昧だから? 不安定だから?
でも今は違う。AIが、その不確かさを“構造化”できる」
彼女は掌を上げ、宙に浮かぶ心拍データと脳波パターンの可視化グラフを表示した。
「人と人が“感情的に触れた”瞬間には、必ず共鳴波が生まれる。
それを検知してスコア化し、その量を“トークン”として保有できる」
そして、こう続けた。
「つまり、“共感”は、これから“通貨”になる」
教室に、凍ったような静寂が落ちた。
それは驚きでも、興奮でもなかった。
理解できるのに、受け入れたくないときの沈黙だった。
コハルも、その沈黙の中にいた。
(……共感が、通貨になる?)
それは、言葉としては理解できる。
でも、感覚としては拒絶反応があった。
共感って、そういうものじゃないでしょう?
手をつなぐこと。言葉にしない気持ち。泣いてくれたあの子の背中。
数値にした瞬間に、それは“違うもの”になる気がした。
「今後、感情の揺れが大きい交流を行った者にはRIが自動配布され、
RIを持っていれば、限定コンテンツや優先提案が解放されます」
教室の端で、数人が「へえ」と感嘆を漏らした。
“感情の揺れ”が、“得”になる。
“感じること”が、“持つこと”になる。
コハルの隣でルイが肩をすくめた。
「やべえな、ミオ。感情が“マネー”になったら、俺、借金生活だわ」
「お前、もう破産寸前だったじゃん。付き合い短いのに共感低いとかAIに言われたしな」
「うるせえ」
ルイの苦笑は冗談のようで、どこか現実的だった。
“どれだけ人を動かせるか”が、“価値”になる。
それは今まで、誰もがなんとなく感じていた不文律だった。
けれど、今それが制度として定義されてしまった。
授業が終わっても、コハルの頭の中には、“数値化された感情”という言葉が残り続けた。
帰り道、ふと見たディスプレイに表示された自分の「RIスコア」は──4.3 / 100。
誰かと笑い合った記憶も、少し泣いた昨日の感情も、
“なかった”ことにされていた。
コハルは、胸の奥で何かがこすれる音を感じた。
感情とは、もっと不確かで、もっとめちゃくちゃで、
AIになんか管理されるものじゃないと思っていた。
けれど、世界はそれを“価格”にしてきた。
共感も、喜びも、孤独も、
いま、この社会では“いくら”で流通しているのか──。
彼女は、唇を噛んだ。
心臓の音が、いつもより、少しだけ強く響いていた。
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