【短編】月詠さんは俺の彼女なんで

タツキ屋

第1話

 五月にしては汗ばむほどの陽気が、昼休みを告げるチャイムの音とともに教室を満たした。


 弛緩した空気が、授業の緊張感から生徒たちを解き放つ。教科書を鞄に滑り込ませる音、椅子が床を擦る不協和音、そして週末の計画に弾む声。それは、どこにでもある高校の、ありふれた昼下がりの光景。

 

 俺――神楽坂 蓮は、窓際の一番後ろの席で、その喧騒をどこか遠くに感じていた。


 手にした文庫本の頁は、もう十分近く同じ場所を開いたままだ。文字は網膜を滑るだけで、意味を結ばない。俺の意識は、数メートル先、教室の中央で友人たちと談笑する、月詠 桜に吸い寄せられていた。

 

 肩まで伸びた髪は、窓から差し込む光を吸い込んでは、絹のような艶を放つ。大きな瞳は、ふとした瞬間に遠くを見つめるような深みを湛え、時折見せる微笑みは、まるで春の陽光に綻ぶ花のようだ。旧家の令嬢という出自を抜きにしても、彼女の持つ気品と、誰に対しても隔てなく接する優しさは、自然と人を惹きつける。結果として、桜は男女問わず多くの生徒から好意と羨望の視線を集めていた。

 

 そして、俺の許婚でもある。


 この事実は、俺たち二人だけの、そして家同士が結んだ重い約束。学校では絶対に知られてはならない、深い秘密だ。


 俺たちは幼い頃に婚約し、その運命を受け入れている。いや、受け入れているどころか、俺は桜を心の底から大切に想っているし、彼女もまた、言葉にはせずとも、同じ想いを返してくれていると信じられるだけの確かな絆が、そこにはあった。


 だが、学校では、俺たちは互いにほとんど言葉を交わさない。それは、周囲の過度な詮索や、心ない嫉妬を避けるため。そして何より、二人きりで過ごす僅かな時間を、誰にも邪魔されずに慈しみたいという、ささやかな願いからだった。


 この「秘密」が、俺たちの間に、どこか甘酸っぱい緊張感と、共犯者のようなスリルをもたらしていたことも、否定はしない。本当の関係を隠し、「ただのクラスメイト」を装うことは、時として息苦しく、もどかしかったが。


 同じクラスになったのは、神様の悪戯か、それとも試練か。毎日、彼女の姿を間近で見られる喜びと、この二重の秘密を守り通さねばならないという重圧が、常に胸の中でせめぎ合っていた。


 今日も、桜は友人たちに囲まれ、穏やかに微笑んでいる。その光景を遠くから見つめるだけで、胸の奥が温かいもので満たされる。しかし同時に、彼女のその笑顔が、自分以外の誰かに向けられるのを見るたび、心の隅で黒い靄のような独占欲が鎌首をもたげるのも感じていた。この、息苦しいほどの想いを、いつまで押し隠していられるだろうか。


 その時だった。


 教室の前方のドアが開き、数人の男子生徒が、わざとらしいほど快活な声を響かせながら入ってきた。


 佐伯を中心とした、いわゆるクラスのムードメーカー……いや、正確にはそう振る舞うことで自分の立場を誇示したいタイプの一団だ。彼らは、迷うことなく桜たちのグループへと進んでいく。

 

「よお、月詠さんたち、今週末って暇してる?」

 

 佐伯が、馴れ馴れしい、それでいて計算されたような笑みを浮かべて桜に話しかけた。桜の友人たちは、一瞬驚いた顔を見せた後、どこか期待の入り混じった表情で互いの顔を見合わせている。

 

「え? 佐伯くん、どうしたの急に?」


 桜の友人の一人が、代表して尋ねた。

 

「いやー、実はさ、隣のクラスの奴らと合同で、ちょっとしたお出かけ企画してて。映画見て、その後みんなで軽く食事でもどうかなって。女子、ちょっと人数足りなくてさ。よかったら、一緒に行かない?」

 

 グループデート、という名目の、あからさまなナンパだろう。佐伯の視線は、終始、桜に固定されていた。他の女子生徒たちは、「えー、どうしようかな」「映画、何観るの?」と、まんざらでもない様子だ。


 だが、桜だけは、明らかに表情を曇らせていた。俺には分かった。ほんのわずかに寄せられた眉根、微かに強張った口元。彼女は、こういう押しの強い誘いや、軽薄なノリが昔から苦手なのだ。


 そして、俺だけが気づける、助けを求めるような、微かな眼差しをこちらに向ける。それは、過去にも何度か見たことがあった。

 

「いいじゃん、月詠さんも行こうぜ! 俺、月詠さんと一緒に行けたら、超嬉しいんだけどなー」

 

 桜が返答に窮しているのを察してか、あるいは無視してか、佐伯はさらに畳み掛ける。

 

 その下心が透けて見える言葉と、ねっとりとした視線に、俺の中で張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。


 もう、限界だった。この息苦しい仮面を、今、ここで、半分だけでも外してしまってもいいのではないか。いや、外すべきだ。許婚であることはまだ言えない。だが、これ以上、彼女を不快な状況に晒しておくわけにはいかない。


 俺は、読んでいた文庫本を静かに、しかし確かな意志を持って閉じ、ゆっくりと立ち上がった。教室の喧騒が、一瞬、潮が引くように遠のいた気がした。


 俺の唐突な行動に気づいた数人のクラスメイトが、怪訝そうな視線を向けてくる。だが、そんなものは最早どうでもよかった。


 一歩、また一歩と、桜たちのグループへと近づいていく。佐伯の、不躾な視線が、まだ桜に注がれている。その光景が、俺の腹の底に、冷たい怒りの炎を灯した。

 

「……悪いな、佐伯」

 

 俺の、自分でも驚くほど低く、そして冷たい声が、教室の空気を切り裂いた。


 佐伯が、驚きと不快感をない交ぜにした表情で、こちらを振り返る。


 桜も、その友人たちも、信じられないものを見るような目で、俺を見つめていた。彼女の瞳が、俺とぶつかり、微かに揺れた。


 その揺らぎに、俺は確信を得た。今しかない、と。


 俺は、躊躇うことなく桜の隣に立ち、その華奢な肩を、優しく、しかし有無を言わせぬ強さで抱き寄せた。彼女の身体が、びくりと震えるのが、腕を通して伝わってくる。ふわりと香る、彼女の甘い、けれどどこか澄んだ清潔な香り。それは、俺だけが知っている、彼女の本当の香りだ。

 

「こいつは、俺の彼女だから。……悪いけど、今週末は、俺と先約があるんでな」

 

 俺は、佐伯の目を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げた。


 教室中の視線が、まるで物理的な圧力となって、俺たち二人に突き刺さるのを感じる。一瞬の静寂。そして、次の瞬間、教室は爆発するような、しかしどこか困惑の混じったざわめきに包まれた。

 

「え……? れ、蓮……くん……?」

 

 腕の中で、桜が、震える声で俺の名前を呼んだ。その声色には、驚きと、戸惑い、そして、隠しきれない、ほんの少しの……安堵と、微かな喜びが滲んでいた。


 彼女も、この状況に気づいてくれただろうか。俺が「許婚」ではなく「彼女」と言った意味を。


 俺は、彼女の顔を覗き込み、今まで誰にも見せたことのない、とびきり優しい、そして少しだけ独占欲の滲む笑顔を向けた。それは、まだ全てではないけれど、今の俺が出せる、精一杯の本当の感情だ。

 

「なんだよ、桜。今更、照れることないだろ? 俺たち、そういう仲なんだから」

 

 そう言って、彼女の額に、軽く、しかし確かな愛情を込めて、唇を寄せた。周囲の女子生徒たちから、今度こそ悲鳴に近い感嘆の声が上がる。

 

「きゃあああっ!」

「え、え、え? どういうこと!? 神楽坂くんと月詠さんって……付き合ってたの!?」

「嘘でしょ!? 全然知らなかったんだけど!」「ていうか、今の『俺の彼女だから』って何!? キスした!? 額にだけど!」

「あの神楽坂くんが、月詠さんのこと『桜』って呼んだ! 月詠さんも『蓮くん』って!」

「ヤバい! ヤバすぎる! 少女漫画の世界じゃん! 公開告白ってやつ!?」

 

 周囲の喧騒は、もはや心地よいBGMのようだ。腕の中の桜の温もりと、彼女の甘い香りだけが、俺の世界の全てだった。この瞬間、俺たちの周りの景色が、まるで色鮮やかなフィルターがかかったように、輝き始めたのを感じた。これが、秘密のベールを少しだけ破った先にある世界か。まだ、全てを明かしたわけではないが。

 

 呆然と立ち尽くす佐伯に、俺はもう一度、今度は少しだけ声のトーンを落とし、しかし有無を言わせぬ響きで言った。

 

「……そういうわけだから、悪いが、諦めてくれ」

 

 佐伯は、顔を青褪めさせ、何か言いたげに口をパクパクさせたが、結局何も言えず、ただ震えているだけだった。彼の仲間たちも、気まずそうに視線を逸らし、そそくさと彼の背後に隠れるようにしている。彼らにとっては、まさに青天の霹靂だっただろう。

 

「ふふ……」

 

 腕の中で、桜が、くすくすと小さく笑う声が聞こえた。顔を上げた彼女の瞳は、まだ驚きと喜びで潤んでいて、頬は林檎のように赤い。


 けれど、その表情は、今まで見た中で、一番幸せそうだった。まるで、ずっと待ち望んでいた瞬間が、ようやく訪れたかのように。

 

「……もう、蓮くんの、いじわる……でも……ありがとう」

 

「正直に言っただけだ。……いや、まだ全部じゃないけどな」


 俺は小さく付け加えた。


「それとも、何か不満でも?」

 

「……ううん。……むしろ、……すっごく、嬉しい……かも……」


 彼女は、俺の胸に、さらに強く顔を押し付けてくる。その愛らしい反応に、俺はもう一度、彼女の柔らかな髪にそっとキスを落とした。

 

「じゃあ、桜。昼飯、屋上で一緒にどうだ? 今日は、お前が前に美味いって言ってた、出汁巻き卵、入れてきたんだが」


 以前、二人きりでピクニックに行った際に、彼女がそう言ってくれたのを覚えていた。

 

「……うんっ! 食べる!」

 

 俺たちは、周囲の興奮冷めやらぬ喧騒を背に、ごく自然に手を取り合って教室を出た。


 廊下に出ると、桜が、ふと足を止め、俺を見上げてきた。その瞳には、まだ少しだけ信じられないという色と、そして確かな喜びが浮かんでいる。

 

「……ねえ、蓮くん」

 

「なんだ?」

 

「……本当に、良かったの? みんなの前で、あんなこと言って……。『彼女』だなんて」

 

「ああ。もう、隠しているのは疲れた。……それに、お前が他の男に言い寄られるのを見てるのは、もう我慢ならなかったからな」


 俺が正直に言うと、彼女は、嬉しそうに、そして少しだけ照れたように微笑んだ。


「本当は……もっとちゃんと言わなきゃいけないこともあるけど、それはまた、改めて」

 

「……ふふ。……うん。でも、私、嬉しかった。ずっと、隠してるの、ちょっとだけ寂しかったから。……これからは、少しだけ、堂々と、蓮くんの隣にいられるのかな……?」

 

 その、控えめながらも期待に満ちた言葉に、俺は思わず笑みがこぼれる。

 

「……ああ、もちろんだ。お手柔らかに、とは言わないでおくよ」

 

「えへへ。……じゃあ、遠慮なく、ね? 蓮くん、覚悟しててね」

 

 二人で顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出す。まるで、長年つけていた重い鎧を少しだけ脱ぎ捨てたような、そんな解放感があった。

 

 秘密のベールは、完全に破られたわけではない。けれど、一番大きな壁の一枚は、確かに取り払われた。それは、俺たちが、息苦しい仮面の一部を脱ぎ捨て、ほんの少しだけ本当の自分で、互いに向き合うことを選んだ、ということ。


 そして、その選択が、俺たちの周りの世界を、もっと鮮やかで、もっと輝かしいものへと変えていく始まりだったのだ。許婚という、本当の関係をいつか明かせる日まで、俺たちはまず「恋人」としての一歩を踏み出す。


 屋上へと続く階段を、手を取り合って上る。五月の爽やかな風が、俺たちの髪を優しく撫でていった。それはまるで、新しい始まりを祝福するファンファーレのようだった。

 

「ねえ、蓮くん」

 

「ん?」

 

「……大好き」

 

 その言葉は、まだ全てを語ってはいないけれど、紛れもない真実。世界中に響き渡る、愛の宣言だ。

 

「……知ってる。俺もだ、桜。世界で一番」

 

 まだ隠していることはある。けれど、この気持ちだけは、もう隠す必要なんてないのだから。俺たちは、互いの温もりを確かめ合うように、もう一度、しっかりと手を握り合った。


 青空の下、俺たちの新しい日常が、今、始まった。それは、きっと、今まで以上に甘く、そして、輝きに満ちた日々になるだろう。そしていつか、本当の全てを語れる日が来ることを願いながら。


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長編のラブコメもやってます。是非ご一読ください。

https://kakuyomu.jp/works/16818622172028042874

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