2-3.予兆
悠斗の通う東京都立瑞穂高等学校は、狭山丘陵の豊かな自然に抱かれるようにして建っていた。校舎自体はどこにでもあるような、少し古びたコンクリート造りの建物だ。特段、目を引くような建築様式ではない。しかし、その周囲を彩る風景が、この学校に独特の落ち着きと潤いを与えていた。
春の柔らかな日差しが、校庭の隅にまだわずかに残る桜の花びらを淡く照らし出し、風が吹くたびに、名残を惜しむかのようにらはらはと舞い散っている。校舎の背後には雑木林が広がり、萌え始めた新緑が目に眩しく、鳥のさえずりが絶えず聞こえ、都会の喧騒とは無縁の、穏やかな時間が流れていた。そんな長閑な風景の中に、ありふれた校舎が佇んでいるのだ。それはまるで、日常と非日常の境界が曖昧になるような、不思議な調和を醸し出していた。
先ほどの落下物騒ぎの動揺をなんとか内心に押し込め、悠斗は昇降口で靴を履き替え、二年生の教室へと向かった。心臓はまだ少し速く打っているし、ヴァルに半ば強制的に引き出された異常な身体能力の余韻が、妙な気怠さとして体に残っている。
二年三組の教室のドアを開けると、春休み明け特有の少し浮ついた喧騒が悠斗を迎えた。瑞穂高校では一年から二年への進級時にクラス替えがないため、見渡す限り知った顔ばかり。久しぶりの再会を喜び合うグループや休みボケでまだ眠そうに欠伸をしている者たちなど様々だ。席順は一年の終わりの時そのままに皆着いているようで、玲於奈と麗は席に先に着き、小声で何か話していた。
「お、大空、おはよー! 生きてたか!」
「おう、山田。お前もな!」
クラスでも特に明るく、お調子者で、そして情報通として知られる山田が、にやにやしながら声をかけてきた。
自分の席に向かいながら、悠斗は玲於奈と麗に目配せする。玲於奈は小さく頷き返し、麗は心配そうな表情で悠斗を見つめていた。自分の席は窓際の後ろから二番目。麗はその一つ前、玲於奈はすぐ隣だ。席に着くと、玲於奈が顔を寄せ、声を潜めて言った。
「さっきの、マジで危なかったわね……。アンタがいなかったら……」
普段のクールな様子とは違い、わずかに声が震えている。やはり相当怖かったのだろう。
「う、うん……怖かったね……ゆうくん、本当にありがとう」
麗も同意し、改めて悠斗に感謝の言葉を述べた。白い指先が、きゅっとスカートを握りしめているのが見える。
「まあ、無事でよかったよ。本当に――」
危なかった、そう言いかけた時、先ほどの山田が興奮した様子で近づいてきた。
「おいおい、大変なニュースだぜ! 聞いたか?」
「なんだよ、山田。朝から騒々しいな」
悠斗は内心のざわつきを抑えながら、努めて普段通りに対応する。
「それがさ、俺らの担任の越谷先生、急に学校辞めたんだって!」
「えっ!? 越谷先生が?」
予想外のニュースに、悠斗だけでなく、近くで聞いていた玲於奈と麗も驚きの声を上げた。越谷先生は少し口うるさいところはあったが、熱心なベテラン教師だ。辞めるような素振りや話など全くなかったのだが……
「ああ。なんでも一身上の都合らしいんだけど、なんか急だよな? それでさ、新しい担任は、この春にうちに赴任してきた新任の先生だってよ!」
山田が誰よりもいち早く仕入れた情報を得意げに披露する。クラスの他の生徒たちもその話題に気づき始め、あちこちで「マジかよ」「誰だろうな」といった囁き声が広がり始めた。
「新しい担任……」
その言葉を聞いた瞬間、悠斗の胸に、漠然とした不安が湧いた。先程の事故の衝撃がまだ尾を引いていたのだろう。親しんだ越谷先生の突然の退職。そして、新任の教師。変化よりも平穏を望むタイプの悠斗にとって、今朝のこれらの出来事は、心にさざ波を起こすには充分過ぎた。
「……なんか、嫌だな」
ぽつりと呟いた悠斗の声は、教室の喧騒にかき消された。その時、始業のチャイムが鳴り、その後に、
『始業式を始めます。新二、三年生は、体育館に集合してください』
との校内放送が流れる。入学式は明日なので、新入生はまだ今日はいない。
放送を聞いたクラスメイトが廊下へと出ていく中、悠斗は心の中の言い知れぬもやもやを打ち消すことができずに、なんとなく窓から外を見た。
春の穏やかな風景。日差しは暖かで柔らかい。
「……頼むぞ、これ以上何も起こらないでくれよ」
広がる青空を見上げ、神頼みをするようにそう呟いた。
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