第5話 軍の研究所
門に足を一歩踏み入れると、そこは軍の世界。
つまり、日常を超えた文字通りの異世界だった。
元々森林地帯であり、民営時代(公園だった)の名残の自然と緑は豊かに残されている。
その中に実験棟や研究棟などの厳めしい建物がいくつも点在している。
正門から真っ直ぐに進むと、ほどなくして本館が見えてきた。
受付で“兄”が許可証を見せる。
閑散とした建物内。
職員はみな一様に無口で、この2人の闖入者には目もくれない。
まるで存在しないが如きだ。
「ヘマはしないでね、“兄さま”。何があっても助けないからそのつもりで」
“妹”は小声で、冷厳に言い放つ。
「姫」
広央がこれまた他の人間に聞こえないくらいの、小さな声で囁く。
「銃は…持ってきてるの?」
「ええ、スカートの下よ」
広央は思わず姫の制服スカートを凝視、睨まれたので慌てて視線をそらす。
因みにバッグの中は検査されるが、身体検査まで無いという事は事前に情報を得ていた。
「姫、実はどうしても聞きたいことがあるんだ…」
広央の尋常ならざる真剣な眼差しに、異変を感じた姫。
周囲に気付かれないよう身構え、次の言葉を待つ。
「気のせいだといいんだけど…なんか俺の事ちょっと嫌ってる…?」
…放置された粗大ごみでも見るような目で姫が答えた。
「ちょっとじゃないわよ。私はあなたの事が“死ぬほど”嫌い」
簡潔かつ率直な答えは、広央に広範囲なダメージを与えた。
この“兄妹“、広央と姫はこうして軍の施設へと侵入した。
程なくして、施設内を案内する担当者が現れた。
施設内における「余計な詮索をしないよう見張る」係である事は明々白々だ。
地味な私服の上に白衣をまとい、眼鏡をかけた中年の女性職員が担当だった。
首には名前と顔写真入りのカードホルダーを提げ、白衣のポケットには数本のペンや鉛筆が無造作に入れられている。
「今日案内する
即席のネームホルダーを手渡す時、小宮は眼鏡の奥から広央の目をちらりと見つめた。
内部協力者を得ているの。
小宮という女性研究員よ。
姫の言葉を脳内で反芻し、目の前の女性と視線をそれとなく交わそうとしたが、そうする前に小宮は視線を逸らせてしまった。
小宮の案内に従い、本館を出て研究棟に向かう。
敷地の方々に大きな池や森林が点在している。
施設は総面積が350ヘクタールにも及び、使用している箇所だけでも約215.2ヘクタール。
確かに案内してくれる人間がいないと、迷子にでもなりそうだ。
そして視界に時折入る、銃を持った兵士の姿。
遠目では入館許可証は確認できないだろう、うっかり撃たれでもしたらたまらない。
この異空間の中を小宮を先頭に進み、白い(といっても、古さで淀んだ色になっているが)コンクリート造りの厳めしい建物にたどり着く。
「あれは何?」
ふいに姫が尋ねる。
建物の左側は幾種類もの花が植えられ、庭としてのスペースがあるのだが、その真ん中に古ぼけた巨大な石灯篭が立っていた。
「ああ、あれは戦前からあるのよ」
下のところが黄ばんでるのは、GHQの人間が酔っておしっこを引っかけたらしいからだと、小宮が説明する。
「いくつかあるのね、向こうにも」
あるものは自生した笹に囲まれ、あるものは植込みの脇にひっそりと。
古びた石灯篭がいくつも点在している。
幾年もの年月も風雨も、この灯篭の存在を脅かしはしなかったらしい。
欠ける事も崩れることもなく林立している。
「ここから先は会話をしないで。何か聞かれた時にだけ敬語で答えて。勝手に何かを触ったり、職員に質問したりしないで」
小宮の表情から、この警告は大仰でも大袈裟でもないことが知れた。
コンクリートの建物は、中に入るとひんやりとしていた。
小宮を先頭に広央、姫とリノリウムの廊下を進み「遺伝子工学棟」へと足を踏み入れる。
ある研究室まで来ると、小宮は専用のカードをかざして入り口の頑丈なドアを開けた。
中は簡素で無機質な造りだ。
ぴっちりと並べられたスチールの机と、資料が詰め込まれた棚や器具や大きなデスクトップ。
それらが部屋を狭苦しく、息苦しさを感じるさせるものにしていた。
だが、その息苦しさは古びた什器類だけが原因ではなかった。
部屋に鳴り響く男の怒鳴り声、そして机を蹴る大きな音。
軍服を着た(階級章から上級幹部と分かる)男。
彼が部屋の空気を異様なものにしている原因だった。
男の後ろには、同じく軍服を纏った女性が直立不動の姿勢で控えている。
おそらく職務に邪魔にならないようにだろう、髪を短く切りそろえている。
華奢な体の軍服姿はアンバランスさがあり、顔にはまだあどけなさが残っていた。
その彼女が無表情のまま、この男の後ろでまるで耐えるかのように控えている。
小宮は一瞬「しまった」という顔をした。
この男がいるとは想定していなかったらしい。
部屋にいる、白衣を着た十数人の研究員は女性ばかりだった。
ある者は顔を背け、ある者はPC画面に集中しているフリをしている。
この嵐が過ぎ去るのをただただ祈っているように見えた。
「午前中に報告書出せって言ったよな!?なに忘れてんだよ!」
男は軍靴で机の脚を蹴り上げた。
研究室内の女性が、全員びくっと身体を震わせる。
責められている女性は、罵声に耐えてどうにか返答しようとしていた。
「あの、小林主査からデータを頂いてから提出しようと思っていたんですが…まだ来なかったので…」
「ああ!?まずこっちに連絡しろってんだよ!?何、勝手に自分で判断してんだ…なんで小宮がいるんだよ?」
男は部外者3人の姿を認めたが、イラついた態度と表情は変えようともしない。
「見学の学生さんです」
小宮の説明を胡散臭そうに聞き、面倒そうな視線を広央と姫に投げかける。
大体机の上が汚いんだよ、だからこんな簡単な報告もできないんだろと怒鳴り、苛立ちまぎれに机の上の物を手でなぎ払う。
コーヒーを入れたマグカップが倒れ、叱責されている女性の白衣に盛大にかかった。
まだ湯気の出ている液体をかけられた女性は、小さく悲鳴を上げた。
「おい…!」
広央が思わず男を咎めようとするのを。
「兄さま!」
姫が鋭く広央を止める。
広央の身体を手で押さえ、決して余計なトラブルは起させないように。
「あ?
コーヒーを掛けられた女性は、まだ動くことすらできずにいた。
怯えなのか怒りなの、ひそかに身体が震えている。
「何にもできない兄と、優秀な妹か。うちとは正反対だな?
後ろで不動の姿勢を取っている女性軍人に、侮蔑の言葉を投げかける。
言われた妹は、この侮蔑に表情一つ変えなかった。
この上官の言葉を、あくまで冷静に受け止めている。
その毅然とした態度が面白くなかったのか、周囲に聞こえるよう舌打ちすると、やっとこの傲慢な軍人はその妹と共に研究室を後にした。
「兄さま、外にコーヒーメーカーがあったわ。新しく持ってきて差し上げて」
姫にナチュラルに命令され、広央に反論の余地はない。
研究室から少し離れた場所にある、自販機コーナーのところに行く。
ウォーターサーバーの隣にマシンが設置されていて、コーヒーは無料のようだった。
抽出されたコーヒーを手に持ち振り向くと、作業服を着た人間とぶつかりあやうく零しそうになる。
作業員は謝りもせず、水の入ったボトルを台車で運ぶ。
そのまま黙々と補給作業を終えると、また台車を押して来た道を戻っていった。
広央がコーヒーを片手に研究室に戻った時。
一瞬、何が起こったのかと思った。
無機質な内装の研究室。
面白味もない灰色のスチール机。
その机の一つに、姫は腰掛けていた。
優美に足を組み、天板にそっと添えられた手は細く繊細で、爪は桜貝を嵌めたようにきらりと光っている。
本当に、綺麗なお人形さんのようだ。
異様だったのはその周りに白衣の女性研究員たちが、一斉に一人残らず集まっている事だった。
広央にはまるで聞き取れない、密やかな小声の会話。
姫の一言一言に、皆が頷きあい、感嘆しあい共感を巡り合わせ深めていく。
共感と結束と自分たちを迫害する者への反発が、一つの輪のように循環し始め、それが次第に大きくなる。
その輪は次第に研究室の机、椅子、床、壁、天井全てを飲み込みある一つの空間を生み出した。
姫という存在を頂点にした、絶対王政、ヒエラルキー。
ある女性は跪いて、頬を紅潮させ姫を見つめ、ある女性は姫の足元にひれ伏している。
(まるで女王様みたいだ…)
広央にはその空気は既視感があった。
(父さんみたいだ…)
アルファという、特別な種別の絶対感。
「あら。兄さま、ありがとう」
ぱちん、と空気が弾けた。
女王がコーヒーを運んできた小姓に対し、労いの言葉を掛けた、という風情だった。
女性陣の目が一斉に注がれる。
場の空気を乱した、異物に対する非難の目。
広央は瞬時に内臓がすくむのを感じる。
母親の通夜の日、自分に注がれた視線によく似ていた。
余計者の辛さを、しっかりとその身に感じた。
そんな広央の事は無視して、姫が今や臣下となった者たちに言葉をかける。
「私は“収容施設”に行きたいの。反軍の人たちが監禁されている場所よ、この施設のどこかにあるはず」
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