第9話「親ガチャ」
*
親ガチャという言葉がある。
ガチャとは、恐らくガチャポンの略称で、当たり外れのランダム性を持った何かに対して、「~ガチャ」と付随させる現代語である。どちらかというと――というか間違いなく負の意味を有する。
まあ要するに「生まれてくる親を間違えた」と子供側から物申したい時に、「親ガチャに失敗した」と用いられる。
生む親に対するエゴを追及した子供側からの視点の言葉だが、最近しばしばこの言葉を目にする機会が増えてきたように思う。
愛されない子供が増えているのか、はたまた子供側が傲慢になっているのか、それともSNSなどインターネットの普及によって今まで埋もれていた子供の感情が、心が、言葉が表に――その言葉通り表現されるようになったのかは、定かではない。
まあ、産んでおいて「政府が少子高齢化を危惧しているから産んだ」「児童給付金目当てに産んだ」「だから私は悪くない」などという親もいるのだから、その言葉を「若気の至り」と一蹴するには、少々
私なんかは、高校時代辺りからそんな言葉を聞くようにはなっていたけれど、無縁であったように思う。
だから――恵まれていたのだ、私は。
そして恵まれたまま探偵になって、世の中を知った。
親ガチャなんて目でもない。
規制に規制を重ねなければ表現できないような言葉が、世の中では使われていた。
死ね。
殺す。
たった2つの文字。
だけれどそれはネットで検索すれば、すぐにヒットする。
あいつ死んでほしい。あいつ殺したい。あいつ死ねばいいのに――等々。
小学校の道徳の時間でも教わらないくらい、当たり前のことである。
人に死ねと言ってはいけません。
親は子供にそう言い聞かせるけれど、そんな親は、人に死ねと言わないのだろうか。
成人した人間を適当に集計させたとき、一日に一度も「死ね」が出ないことはないだろう。
どこかで誰かが、「死ね」と言っている。「殺す」と言っている。
実際に殺せもしないくせに。
百など余裕で超える。
親は、子供をそんな風に叱ることのできる程の立場にはいない。
親は、世界じゃない。
親は、絶対じゃない。
それを知って子供は、大人になってゆくのだと。
私は思う。
探偵としてではなく。
1人の人間として。
(続)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます