遠征《エクスペディション》-5
観光船の邪魔をしないようになるべく岸に近い方を漕いでいるが、時折観光のクルーズ船とすれ違う。引き波に気を付けなければならないが、それよりイヴは乗っている観光客の目が気になるようだ。甲板に大勢の観光客が見えるが、シーカヤックを見つけてスマホを向ける人や手を振る人がいる。
イヴはパドルで漕ぐ手を休めてパドルを天に掲げて大きく振って観光客に応える。小さな子が両手を振ってジャンプして全身で応えてくれた。
「ふふ、かわいい」
「子ども好き?」
先のゲストの男の子とも仲良くしていたことを思い出す。
「わかりません。考えたこともないので」
どういう意味合いで自分が聞いたのかも、そしてイヴがどういうつもりでそう答えたのかもクライブは考えないことにする。微かに脳裏を過ったのはイヴが自分の子どもを産んでくれたとき、その子どもを好きになれるかどうか、という妄想だったからだ。ホンのコンマ数秒の思考だったが、クライブは自分の妄想に激しく動揺した。
そうだよ。きっと彼女は結婚なんてことを考えたこともないんだ。
メガロポリスでは仕事漬けの毎日だったはずだ。その忙しさと重圧と人生の設計プランの果てしなさに疲れる毎日でもあったと想像する。かつての自分と同じだ。
しかし今はこうして一緒にシーカヤックに乗って旅をしている。
人生はわからないものである。
漕ぐ手を止めて慣性で進み、少しずつ休みながら1時間漕ぎ、本格的に休憩。休憩するときはお互いのパドルをそれぞれの艇に固定すると2艇が互いのアウトリガーの役目を果たして安定感が大幅に増す。
クライブは防水パックから喫茶用道具一式を取り出し、デッキに小さなテーブルをセットするとガスストーブでお湯を作り、コーヒーをいれる。
「シーカヤックの上でもコーヒーなんて!」
「人類はコーヒーに出会うために進化してきたのだ」
「真顔で言ってる……」
クライブはコーヒーを2杯いれ、1杯をイヴに。イヴは呆れつつもシェラカップに口を付け、コーヒーを飲む。
「落ち着きますねー」
「シーカヤックの上なのに君からそんな台詞が飛び出すなんて」
「あなたとコーヒーを飲む時間が、ですよ」
イヴはそう言った後、照れたように俯いた。
クライブはこの先のことを考えないようにしようと思う。イヴの休暇――いや、避難生活は1ヵ月を見込んでいる。それまでに先輩が彼女のストーカー問題を解決する。そういう約束だ。もちろん警察がどのくらい動いてくれるかにもよるが……この遠征が終わってほどなくして彼女はメガロポリスに帰る。
「……ホストとしてはありがたい限りのお誉めの言葉です」
クライブは笑って見せた。
コーヒーを飲み干し、喫茶一式を片付けて再出発する。
結局、2時間半ほどでパッセージ運河を抜け、非常に複雑な海岸線と無数の島々を持つプリンス・ウェールズ湾に出る。運河の出口すぐに木製の浮きドックが見えてイヴが聞いた。
「あれはなに?」
「水上機の船着き場だよ」
「本当だ~」
フロートを付けた小型の飛行機が停泊しているのが見える。
「この州はシーカヤックの国であり、また軽飛行機の国でもある」
「わかる」
イヴは納得していた。マギーのことを考えているのかな、とも思う。マギーはこの北の国に住む人々の日常の足として、日々空を飛んでいるのである。
「さて、ここで質問です。この辺には3カ所の国立公園があってキャンプサイトがあります。1つはメジャーで整備されたトレイルとキャンプサイトがあって、トイレもあります。けど、この時期、人は多いです。残りの2カ所はキャンプサイトだけでなにもありません。さあ、どうしましょう」
「……残り4泊がトイレも何もないところであることを考えると、初日くらいメジャーなところで」
「人は多いよ」
「メガロポリスと比べればいないも同然では」
「それでいいなら」
クライブは南に針路をとる。
1時間ほど漕いで、サプライズ湾海洋公園に到着する。
「本当にいっぱいいる」
小川が流れ込んでいる小さな浜辺には10艇以上のカヤックが停泊していた。
「でもシーカヤックじゃない……普通の川用のカヤックですよね、あれ」
「うん。ここまで船でカヤックを積んできて、カヤックでこの辺を散策してキャンプするツアーがあるんだ」
中にはクライブたちと同じように自力で来たシーカヤッカーもいる。
「でも人がいるっていってもこんなものでしょう」
「この州のキャンプサイトじゃ大勢だ」
クライブは笑いながら答える。
キャンプサイトにはもう4張もテントが張られているが、場所は有り余っている。距離を取ってテントを2張たてる。
「さあ、お腹を満たしたらいろいろ散策しよう」
クライブはバイダルカから下ろした調理器具で簡単にパスタを作って、まずは腹ごしらえをする。
「散策ってどこを?」
「もうすぐ潮が引き始めるから潮だまりで浅瀬の生き物が見られるし、小川を上ってトレッキングして湖を見に行ってもいい」
「両方しましょう」
「そうだね」
先に倒木がおおくある小川を1キロほど上り、針葉樹に囲まれた美しい湖を眺め、その後、潮が引いた頃合いで岸辺に戻り、海の生物を観察する。いろいろな小魚やエビ、カニなどを見ることができる。
「当たり前に生きているんですね」
「知識だけだと実感が伴わないよね」
「この潮だまりだけで1つの『世界』ですよね」
「人間の世界なんてちっぽけなもんだ。特に認識なんてあてにならない。人間もこの自然のシステムの一部だってことを忘れたらとんでもないことになる。というか今、なっているけどね」
イヴは頷いた。
ゆっくり自然観察をしたあと、キャンプ地に戻り、夕食を2人で作る。シーカヤックに積んできているものなので簡単なものしか作れないが、それでもキャンプ地で食べる食事は特別な味がするものだ。そして何よりイヴの笑顔があった。
イヴは食べ終えたあと、折りたたみ座椅子でうとうとし始めた。クライブは寝袋を広げてかけ、自身は焚き火台で焚き火を始める。乾いた流木は山ほどある。
焚き火を起こし、ゆらゆらと赤い輝きを放つ炎を見つめる。その輝きにイヴの頬が照らされ、赤く火照ったように見えた。
「……ダメだな」
彼女との別れを考えたくない自分がいる。
先輩から話を聞いたときは、自分がこんな強い気持ちを抱くなんて思いもしなかった。普通のゲストとして、自分はシーカヤックガイドとしての役目を十全に果たせればいいだろうとくらいにしか考えていなかった。
クライブはもう彼女を自分の一部に思い始めていた。
イヴが目を覚まして、クライブの視線に気付いた。
「……クライブ?」
「他のキャンパーが気になるなら、僕と一緒のテントで寝ようか」
イヴはきょとんとした顔をしたあと、小さく何度か、ゆっくり頷き、数秒後、答えた。
「その方が安全だと思います」
それはどうだろう。
クライブは細い流木を手にし、焚き火の中の薪をかき混ぜると、炎が高く舞い上がった。
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