第4話 いつの間にか私たち、結婚していたみたいです

いつの間にか私たち、結婚していたみたいです-1

 シーカヤック体験の翌朝、イヴの両腕はきちんと筋肉痛になっていた。水をパドルで掴むというパドリングという作業はしっかり筋肉を使う運動だった。重いものを持ったことがないイヴにとって重労働だったが、その日も1時間ほどクライブと一緒にパドリングの練習をした。シーカヤックの挙動と乗っているときの光景にも慣れた。シーカヤックからの目線はとても低い。歩いているときよりずっと低いくらいだ。だから同じ場所でも陸から見るのとはまた違う場所に見えることもある。それも面白い。あと、水鳥の近くまで行けるのも面白い。シーカヤックに乗るということは、ただそれだけで終わらない楽しみがあることだと気付いた。

 とてもいい気分転換になる。

 パドリングの練習以外の時間は読書をした。料理の本も眺めた。作ってみたいと思ったレシピにはクライブがつけた付箋がついたままになっていて、面白いなと思った。簡単そうだからという理由かもしれないが、好みが似ているのかもしれない。

 翌日はシーカヤック体験のお客さんを迎え、お客さんに交じってイヴも練習した。3日目なのでなんとか1人で漕ぐことができた。お客さんは家族連れで、イブがクライブと親しげに話をするのを見て、ちいさな子どもがイヴに聞いた。

「インストラクターのオジさんとお姉さんは恋人同士ですか?」

 イヴは大きく首を横に振った。出会って4日しか経っていないのに、知らない人にはそういう風にクライブを見ているように思われたらしい。

「ううん。私もただのお客さん。ここのコテージに滞在してるの」

「そうなんだ。ふーん」

 いかにも意味ありげな「ふーん」を子どもにされて、イヴは自分の頬が火照るのが分かった。

 夕食の時、クライブがイヴに聞いた。ちなみに今夜のメイン料理はカリブートナカイのステーキだ。かみ応えがあって丁寧に熱を加えたので実に味わい深い。これぞ肉、といった感じである。

「明日もシーカヤックに乗る? それともちょっと気分を変えてみる?」

 また気を遣って貰ってしまっているようだった。

「シーカヤックももちろんいいですけど……」

「トレイルを歩いてもいいし、例の保護センターを見に行ってもいい……ってあんまりやることないね。アンカレッジまで戻ってもいい」

「どれも魅力的ですが、アンカレッジに戻るのはクライブにも用があるときにしたいですね」

 イヴはちょっと考えたあと、続けた。

「この街の射撃場に行きたいです。案内してくれませんか」

「射撃場か……」

 クライブは考え込んだように少し視線を落とした。イヴとしてはメガロポリスにいたとき、定期的に拳銃射撃の練習に通っていたので、腕を落としたくないだけなのだが、彼はそれをどう受け止めたのだろうか。

「僕も久しくいっていないな。そんな立派な射撃場があるわけじゃないけど、一応、決められたエリアがある。明日、行ってみようか」

 意外に普通の答えが返ってきてイヴは拍子抜けした。考えてみればここに来たのはボスの紹介で、受け入れたクライブはある程度の事情を知っているわけで、自分が射撃練習くらいすることは想像の範疇だったのだと思い至った。どこまで話を聞いているのだろうか。ここまで追いかけてきて彼にまで危害を加えないとは限らない。その意味では申し訳なくて仕方がない。

「……どうしたの?」

「いいえ。あなたの場合はライフルなんでしょうね」

 シーカヤックにキャンプ道具を積んで海岸でキャンプすることもあるという。食べ物を求めてキャンプ地に近寄ってきた熊に襲われる事故は跡を絶たない。そんな場合、自衛手段としてライフルは絶対に必要だろう。

「うん。ライフルも拳銃も持ってる」

「意外と銃好きなんです?」

「銃規制は賛成派だけど、現状は手放しで銃規制できないよね」

「私も総論賛成各論反対です」

「君が現実的で良かった。口論せずに済んだ」

 全くだ。国中に銃が溢れている以上、銃の恐怖に備えなければならないのがこの国の現状だ。そのために射撃の練習をしなければならないというのも本末転倒な気がする。

 クライブがワインを開けてくれて、イヴは1杯だけご相伴させていただく。久しぶりに口にするアルコールは解放感を大きくするには十分だった。上機嫌でイヴはクライブに話しかける。

「美味しいです」

「よかった」

「あなたはいつも飲んでいるんでしょう?」

「いや。ほとんど飲まないね。何があるか分からないから」

「じゃあどうして今夜はコルクを開けたんですか?」

「君と1度飲みたかった。それ以上はないな。せっかくならキャンプで開ければ良かったかな」

「それこそ熊が来たら大変。酔った腕でライフルが扱えるかしら」

「正論だ。なら今夜開けたのが正解だったわけだ」

 クライブも機嫌が良さそうだ。

「ホント、良くしてくださって感謝しています」

「そうかな?」

 機嫌がいい、ではなく、上機嫌のようだ。

「ええ。私のボスとどういう関係なんですか?」

 よほど良好な関係でなければ自分にここまで配慮してくれないだろう。なので聞いておきたかった。

「先輩のことだね……学生時代には世話になったんだよ」

「そうなんですね」

「先輩はメガロポリスで弁護士事務所を主宰して……本当にすごいよな」

「でも、あなたはここの生活が本当に根っから合っているように私には見えます。人それぞれではないでしょうか」

 そうイヴが言うとクライブは嬉しそうに笑った。

「そうかな?」

 しかし2度目のそうかなは、イヴには少し疑問符が強めに思えた。

「確かに毎日楽しいし、お陰で君とも出会えた」

 彼はこの出会いも楽しいものだと思ってくれているのだろうか。はっきりは言わないが、きっとそうだろうと、そうであって欲しいとイヴは思う。

 軽くチーズなど摘まみ、晩酌を終え、お風呂をいただいてほろ酔い気分でコテージに戻る。すぐにベッドに倒れ込み、いろいろ考える。

 すっかりここの生活が気に入っているし、すぐに眠れるようになって驚くばかりだが、これが本当の私の姿なのだろうか。違う環境で舞い上がっているだけのような気もする。そしてクライブにお姫さまのように扱われてうっとりしているだけなのかもしれない。クライブは王子様というにはいささかヒゲが過ぎるが、美女と野獣の野獣と比べれば断然男前だし、心の優しさだって野獣に負けていないと思う。

 うん……そろそろ認めないといけないな。反証はできないな。

 今まで恋らしい恋をしてこなかった自分だが、いざ恋に落ちるとこんなにもたやすく心を奪われてしまうことに驚くと同時に自分の本当の心に気付かされ、感動すら覚える。まだ自分にこんな熱い感情があっただなんて思いもよらなかった。

 しかし恋をしても冷静に考えればクライブと自分の未来が同一線上にあるとは思えない。自分はきっといつかメガロポリスに帰る。ここでは暮らせない人間だ。彼がいなければ北の国の夏のこの過ごしやすい季節ですら、1人で過ごすことはできないだろう。情けない自分が悔しい。そしてきっとメガロポリスに帰り、そして弁護士を続けるのだ。その過程で正義の弁護士を目指すことができるのならばそれはそれで素晴らしいことではないか……

 そう考えているうちにまた自然とイヴは眠りに就いていた。

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