第6話 名もなき侵食


 夢と現実の境目は、少しずつ曖昧になっていた。


 目を覚ますたびに、どこかを置き去りにしてきたような感覚。

 布団の中で目を開けながら、爽は確信する。


 ——これは、夢の続きじゃない。

 ——けれど、昨日の続きでもない。


 窓から差し込む朝の光が、妙に静かだった。

 風も音もない朝。

 世界だけが、ひとりでに進んでいる。


 時計の針が、狂っていないことに逆に不安を覚える。


 手を伸ばす。肌寒さが指に絡む。何かを忘れている——そんな実感が、鼓動を重たくする。



 教室。

 日差し。ざわめき。いつもの風景。

 その中で、芹那の姿を探す自分がいた。

 昨日、あれほど近づいたはずの彼女が——今朝はどこか遠い。


「ねえ、爽。聞こえる?」


 背後から声がする。

 それは芹那ではなかった。


 見たことのない女子生徒。肩までの髪、淡い声色。

 どこか影が薄いのに、存在感だけが鮮明だった。


「あの、昨日……話した気がして」


 声が遠い。思い出せない。

 けれど、何かが疼く。指先の奥、夢で掴み損ねた感触が。


 ——知らないはずの誰かを、知っているような錯覚。


「ごめん、俺……」


「ううん、大丈夫。忘れてるなら、それでいいの」


 微笑み。穏やか。でも、その奥にある“何か”が疼く。


「またね」


 そう言って彼女は去った。名も、残さずに。


 ——残らなかったのではない。

 最初から、名がなかっただけ。


 爽は、背筋を伝う寒気と共に、確信していた。


 ——今、現実に穴が空き始めている。


 窓の外、空は晴れていた。

 けれど、その青の中に、**うっすらと何かの“輪郭”**が見えた気がした。


 何かが、名を持たぬまま侵食してくる。

 そしてそれは、どこか懐かしい温度を孕んでいた。


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