猫の章

 あるところに一匹の黒猫が居た。黒猫は老婆の飼い猫だった。黒猫は人間なんかこれっぽっちも好きではなかったが、餌をくれるのがその人間だけであるために、一生懸命媚を売って生きていた。

 ある日のことだった。黒猫は何かが倒れるような大きな物音が聞こえ、びっくりして机の下に隠れた。それからしばらくの間机の下にじっと息を潜めていたが、危険がないことを察すると、のそのそと机の下から這い出てきた。そして、物音の正体を確認するために、聞こえてきた場所へ向かって移動すると、老婆が丸まって眠っていた。

「にゃあ」

 黒猫は老婆に語りかけた。いつもなら老婆はすぐに目を覚まして、黒猫にとって意味不明な言葉で語りかけてくるのだが、そのときだけは何も語りかけて来なかった。黒猫は老婆の傍に丸まった。すぐに起きてくるだろうと思った。

 それから日がてっぺんに昇って、傾いて、見えなくなった。猫は瞳孔を大きくして老婆の姿を確認した。老婆はまだ眠っていた。

「にゃあ」

 黒猫は再び老婆に語りかけた。黒猫にとってそれは「餌を寄越せ」という意味だった。しかし老婆は目を覚まさなかった。

 それからもう一度日が昇って、日が傾いて、見えなくなった。老婆はずっと目を覚まさなかった。

 ずっとずっと、目を覚まさなかった。


 それから程なくして、三人の人間が黒猫の家にやって来た。一人は老婆よりずっと若い個体で、一人は大柄な個体、そしてもう一人は小柄な個体だった。三人は黒猫の住処を徹底的に荒らし始めた。寝るためのベッド、用を足すためのトイレ、お気に入りの玩具、それらを何処かへ隠してしまったのだ。

「にゃーうん」

 黒猫は「おいおい、そりゃないぜ」と言ったつもりだったのだが、人間たちは聞く耳をまるで持たなかった。これが老婆だったら、少しは聞いてくれたのかもしれないが。

 家の中にあったものを全て隠した後に、三人の人間は何やら話し合いを始めた。

「どうしましょう、この黒猫。何だか気味が悪いし、私たちに全然懐かないのだものねぇ」

「成猫だろう? 里親を探すのも難しいだろうな」

「ママ、怖いよー」

「よしよし大丈夫だからね……この子も怖がってるみたいだし、家では飼えないわ。仕方ない、外に逃がしちゃいましょうか」

 黒猫にはその言葉の意味は全く分からなかったが、絡みつくような人間たちの視線がただただ不愉快だったのは確かだ。

 それから黒猫は大柄な個体の人間に、ぽーんっと外へ追い出されてしまった。

「にゃぁぁん!」

 黒猫は「何しやがる!」と言ったつもりだったのだが、人間たちは聞く耳をまるで持たないばかりか、家に戻ろうとすると棒きれで突っついてきた。何度も何度も戻ろうとしたが、人間たちも負けじと棒で突き、しまいには叩いてくる。これでは住処に戻れない。黒猫は仕方なく家に戻ることを諦めた。

 こうして黒猫の家は黒猫の家ではなくなり、黒猫は野良猫となった。

 

 今まで老婆から餌を貰っていた黒猫にとって、野良猫というのは実に大変な生き方だった。毎日毎日歩いて餌を探さなければならないし、探したとて見つからないし、何故か餌をくれない人間が追っかけて来るし。もう散々だった。

 それでも黒猫は媚を売ることにかけては大ベテランだったので、程よく若い個体の人間ばかり狙って餌場を作っていると、ある時他の猫に鉢合わせた。

「うなーん?」

 その猫はトラ柄であり、黒猫よりもずっと図体がデカく、肥えていた。そして黒猫に対して明確な敵意を持って接してきた。「ここは俺様の餌場だぞ、よそ者はさっさとママの所へ帰りな」そう言いたいらしかった。

 しかし黒猫はそう簡単に引かなかった。背中の毛を逆立ててトラ柄の猫に威嚇する。トラ柄の猫は当然の様に威嚇し返してきた。

「ウウウー……にゃぁんッ!」

 こうして喧嘩の幕が開けた。黒猫はトラ柄の猫に向かって猫パンチを繰り出す。トラ柄の猫は大きな図体に似合わず俊敏な動きでそれをかわすと、黒猫を抑えつけて、その身体に噛みつく。

 黒猫は身体を抑えつけられてしまえばもう、抵抗する術はなかった。せめてとトラ柄の猫の胴体に蹴りを入れるが、戦い慣れしていない自身の弱々しい蹴りではトラ柄の猫に痛手を与えるまでに至らなかった。勝負は既に決していた。

 こうして黒猫は見つけた新たな餌場さえも追われた。黒猫にはもう、何処にも居場所はなかった。

 黒猫は繁華街の路地裏で目を瞑って眠ろうとする。トラ柄に噛みつかれた傷が痛んで眠れない。

 黒猫は思った。あの老婆に餌を貰っていた時期が一番幸せだった、と。それなりに媚を売らなければならなかったが、それでも最低限の生活は保障されていたし、こんな狭い路地裏で眠らなければならないこともなかった。今からでもあの老婆が目覚めて私を迎えに来てはくれないだろうか、と。

 でも黒猫は何となく分かっていた。もう老婆に会えないことに。それが分からないほど、黒猫は馬鹿じゃあなかった。

「……ちゅー」

 小さな鳴き声が目の前から聞こえて、黒猫は目を開けた。すると、目の前に一匹の小さなネズミが居た。ネズミは不思議そうにこちらを見つめている。

 餌が自分からやってきた。黒猫はそう思い、捕獲しようとパンチを繰り出した。しかしネズミは身を翻してそれをいとも簡単に避けた。逃がした。そう黒猫は思ったが、ネズミは一定の距離を取ると、少し離れた場所から自分の方を見ている。

「にゃあああ!」

 馬鹿にされている、と黒猫は思った。黒猫は身を起こし、ネズミを追いかけた。するとネズミは一目散に逃げ出した。黒猫は何処までも追いかけてやるつもりだったが、やがて疲れ果てて追うのを諦めた。ネズミの姿はもう見えなかった。もう二度と会うことはないだろう。そう思い、黒猫は眠る。そして翌朝になると、ネズミは一定の距離を保って黒猫の近くに陣取っていた。

「ちゅーちゅー」

 それからというものの、黒猫とネズミの奇妙な関係が始まった。

 気がついた時には黒猫の近くにネズミが居る、黒猫がネズミを追う、ネズミが消える、黒猫は追うのを諦める、気がついた時にはネズミがいる。この繰り返し。

 雨の日も、風の日も、晴れの日も、ネズミは黒猫の前に姿を現し続けたが、ネズミは決して捕まることはなかった。そうしている間に黒猫はもう捕まえることを諦めてしまい、最早ポーズとして追いかけることもあった。それでもネズミは毎日黒猫の元へ現れた。

 黒猫からしてみればネズミは、鬱陶しいことこの上ない、邪魔なやつだとしか思えなかった。しかしネズミを追うことで寂しさと空腹を紛らわせていたのもまた、事実だった。

 そんな生活も数ヶ月続いた後に、終わりが来た。正確に言えば、黒猫の終わりが来たのだ。

 無理もない。縄張りも餌場も持たない猫がそう長く暮らしていけるはずもない。黒猫は餌が取れず、町の路地裏の隅で餓死する寸前だった。そんな時、ネズミがやってきた。

 黒猫はもう、ネズミを追う気力さえなかった。が、しかし、気力を振り絞って黒猫はネズミを追いかけ始めた。そこに何があるのかは分からない。黒猫にはネズミが捕まらないことなんてとうに分かっている。しかし追わずにいられなかった。そこには何かがあった。黒猫にしか理解できないような、何かが。

 そんな黒猫の予想に反して、ネズミは簡単に捕まった。捕らえられた。捕らえられてしまったのだ。

 黒猫は困惑する。何故こんな死に体の私が今になってネズミを捕まえることが出来たのだろう? その理由はさっぱり分からなかった。ただ分かるのは、絶好のチャンスが到来したということだけ。

「ちゅー……」

 ネズミは一鳴きして、目を閉じた。それ以上、もがくことはなかった。黒猫はネズミを逃さないよう、その爪を持ってしてしっかりと抑えつける。

 目の前のこいつを食えば、自分はもう少し生きることが出来る。黒猫はそう思い、口を大きく開けた。

 もう何も迷うことはない。そのままかぶりつけばいいだけだ。

 そう、かぶりつけば……

「ちゅー……?」

 ネズミは不思議そうに鳴いた。黒猫はネズミから手を離していた。黒猫はそのままかつて老婆の傍に居た時と同じ様に丸まった。

 黒猫は思った。例えこいつを食ったとて、生き長らえる事ができるのはほんの少しだけ。そのほんの少しのためにこの小さな命を奪うこと、それに一体何の価値があるだろう、と。それは高尚な悟りか、もしくは捻くれた諦めか。どちらかは定かではないものの、結論として黒猫は、ネズミを捕るのをやめた。

「ちゅー……」

 ネズミは鼻先を猫の口元に近づけた。黒猫は鼻でネズミを押し返す。それ以上はもう、動けなかった。

 黒猫は過去を思い出していた。猫は大抵のことは忘れてしまう。しかし、覚えていることもいくつかあった。暖かかった母の元でのこと、そして引き取られ老婆の元で暮らしたこと、あとは……ネズミと腹の煮えくり返るような追いかけっこをしたこと。

 この生に何の意味があったのかは分からない。最後まで生にしがみつけば良かったのかもしれない。黒猫には正しいことは何一つわからない。

 ただ一つ、分かるのは――

 黒猫は最後に少しだけ目を開ける。そこにはネズミがその丸いボタンのような目でこちらを見つめていた。薄汚れた路地裏の隅で、ぼろきれのような見た目になった黒猫はそれでも思う。

 ――この世界を生きるのは、存外悪くなかった。

     *

 朝、私はいつものように目が覚めると、着替えて朝食をとり、自転車に乗って高校へと登校する。教室に入った瞬間、ぱちっと目があった。妻鹿めがさんと。彼女は何か言いたいようだったが、私はすぐに目を逸らして自分の席に鞄を置いた。これでいつも通りだ。何も変わらない。そう、何も変わらないはずなのだ。

「あの~、この教室って余ってる椅子とかないんですかね? このままだと私、りゅうさんが授業を受けてる間ずっと飛びっぱなしなんですけど! あと、暇なんで出来ればお茶菓子や娯楽品とかがあれば尚良いのですが……」

 私の横で喧しく喋っているこの使とやらを除いては。


 話は昨日の放課後にまで遡る。私が屋上で妻鹿さんと対面していると、突如目の前に雷が落ち、私は何者かに上空へと連れて行かれた。

「あなたが恋をすると世界が滅ぶんです!」

 私は何が何だかわからないままで手足を右往左往させていた。手足の全てが地面に接していないのはそれだけで多大な不安になることを、こんな状況になって初めて知った。ふと横を見ればカラスが私と全く同じ高度で飛行しており、更に恐怖感が増す。

「おっと、まずは説明しなければなりませんね。あるところに世界を見守る昼の神様がいらっしゃいました。昼の神様はお酒が大好きで……」

「説明とかいいから! それより先に早く降ろして!」

「あー、人間は空を飛べないんですもんね。何とも不便ですねぇ」

 そう言いながら飛んでいる何者かはゆっくりと高度を落としていき、私はやっと地上に降りて来られた。しかし降りた場所は何故か、沢山の木々が生い茂る森のような場所だったが。また面倒な所に降ろされてしまったと思う気持ちもあったが、とにかく最低限無事でいるこの状況に感謝した。

 私は後ろを振り返り、先程まで私を空へ連れてきていた何者かの正体を見る。

 それは人の姿をしているが頭に輪っかが浮いており、背中には鳥の羽根のようなものが生えている。全身は真っ白い神聖な服を身に纏っており、一般的に天使と聞いてイメージされるそのものだった。

「……誰?」

「申し遅れました。私は天使のクエタと言います。以後よろしくお願い致します」

「いや……う、うぅん……」

 私は迷った。天使と聞いてはいそうですかと納得するはずもない。しかし、先程までこのクエタとやらが空を飛んでいたのも事実。見たところ人一人分が浮遊出来そうな機械を持っている様子もない。それに彼ないし彼女の身体と頭に浮いている輪っかは今この時も原理不明に浮いている。

 私はクエタを信じるか信じないか悩んだ挙げ句、妙案を思いついた。

「それじゃあ天使っぽいことして見せてよ、何でもいいからさ」

「えぇー? 私が天使だということを信じていないんですか? これだから最近の疑り深い人間は……仕方ないですね。良いですか、あそこにある木を見ていて下さい」

「木?」

 そう言われたので、クエタが指さした十メートルほど離れた場所にある木を見た。「三、ニ、一……」とカウントが始まる。

「ゼロ」

次の瞬間、突如轟音が鳴り響いた。視界が一瞬真っ白に染まった後に、木の中心が赤く染まる。

「うわぁああああっ!?」

 雷が落ちたのだ。私は驚きのあまりその場にしゃがみこんだが、クエタは平気そうにニヤニヤと笑っていた。どうだ、と言わんばかりの勝ち誇ったような笑み。それを見た私は立ち上がってクエタに抗議する。

「当たったらどうすんの!?」

「そこはちゃんとコントロールしてますから大丈夫ですよ」

「コントロールって……」 

 そのコントロールとやらのおかげなのか、幸いにも木は燃えず、電流はそのまま大地へと流れて行ったらしい。こんな雲一つない晴れ間に自分の思った通りの場所に雷を落としたのだ。どうやらクエタが人知に収まらない存在だということは信じてもいいだろう。

 雷、で思い出したが、そういえば私は先程も同じ様に、屋上で目の前に雷が落ちたのだった。あれはクエタが落とした雷なのだろうが、妻鹿さんは大丈夫だっただろうか。

「妻鹿さんは? 大丈夫なの?」

「あぁ、妻鹿七星めが ななせなら平気ですよ。あの時は告白を阻止するために流さんと妻鹿七星の間に落としただけですから。それに、天使が自己判断で人の生死を操作するとクビになってしまいますからね」

「あぁ、良かった……それじゃあ私、学校に荷物置きっぱなしだから」

 私は妻鹿さんが無事であると知りほっと胸を撫で下ろすと、この森から出るために歩き出そうとした。するとクエタが慌てて私の襟首を引っ掴む。

「ちょ、ちょっと待って下さいよ! これからが大事なんです! ここから話を聞いてもらわないと……!」

「でもここ森だし……虫めっちゃ居そうだから早く出たいし……まずは帰らなきゃ」

「そもそもここは森じゃありません! ちょっとこっちに来て下さい」

「はぁ」

 クレタは地上から三センチ程度空けたところで飛びながら何処かへ移動する。私がそれに続いて歩くと、開けた場所に出た。視線の先には噴水やベンチがあり、広場ではサーカス団と思わしき人たちがショーを開催していた。

「ここ……日の丸県立公園じゃん。意外と学校の近くだったんだね」

「そうです。はい、それじゃあ説明しても良いですか?」

「あ、ちょっと待って、あそこのベンチに座ろう」

「テンポが悪いですね……」

 私はクエタの話が長くなりそうな気配を察して、視界に映っていた噴水近くのベンチに座る。ここからだと少し遠いがサーカス団のショーもよく見える特等席だった。サーカス団の周囲には子どもたちが沢山集まっており、どうやら平日ながらにそこそこ盛況しているらしい。

「それで話って?」

「ずばり、単刀直入に言います。名野流なの りゅうさん、あなたが恋をすると世界が滅びます」

「そ、それはさっきも聞いたけど……何で?」

「だから最初から説明する必要があるんです! 天界のあるところに、数多の世界を見守る昼の神様が居ました……」

 クエタの話を要約すると、こういうことらしい。

 あるところに昼の神が居た。酒好きな昼の神が飲んでいるところに、神に比べれば小さな悪魔が来てこう言った。『神様、賭けをしませんか?』と。平時の状態ならそんな悪魔の言葉には耳も貸さない昼の神だったが、酒に酔っていた神は悪魔の話を聞いてしまった。

『賭け?』

『唯一純粋な魂を持つ人間が恋により穢されるかどうかです。私は穢されるほうに賭けましょう』

 神様は盃を傾けながら悪魔を怒鳴りつけた。

『そんなこと、あり得るはずがないだろう! あの人間は何処までも人の幸福を追い、求めゆく探求者だ。そんな人間の魂が、恋などによって穢れるはずもない』

『なら決まりです。私が賭けに勝った暁には、大洪水を起こしてあの世界の全ての人間の魂を貰ってしまいますからね』

『くだらない。好きにすると良い』

 そうして賭けは成立した。賭けというにはあまりに一方的だったが、昼の神は自分が負けたときのことなど全く考えていなかった。勝つことが当然だからだ。当然なのだから、勝ったときの報酬も必要なかった。強いて言うならば、己の言葉の正しさを証明できることが唯一の報酬か。

 そして、賭けの題目となった“唯一純粋な魂を持つ人間”というのが――

「え? 私!?」

「そうです、名野流さん。あなたのことです」

「こ、困るよ、私そんな純粋じゃないし……」

「いいえ、あなたの魂の純粋さ、その輝き。それはどんな宝石にも及ばない、天界の太陽にすら匹敵する絶対的な光なのです。あなた以上の人はどの世界にも存在しない」

「ふ、ふーん……何か照れるなあ」

 急に神様とかこの世界で唯一とかスケールの大きな話で困惑するものの、褒められて悪い気はしない。もっとも、実感はあまりないが。

 視界の端ではサーカス団のピエロが巨大なボールの上に乗り、両手で色とりどりのボールをジャグリングさせていた。観賞している子どもたちがわぁっと大きな歓声を上げるので、つい私もそっちに気を取られてしまいそうになる。

「照れてる場合じゃないですよ! これを見て下さい!」

 そう言ってクエタが何も無い空間から取り出したのはタブレット端末だった。天界でもデジタル化が進んでいるのだろうか。天使の輪と羽のようなマークが背面に刻まれたそれは、私たちが使っている物よりも更に薄く、殆ど板に近い。

「これは天界ネットワークによる愛のキューピッド予報と呼ばれるものです」

 そうしてクエタが見せてきたタブレット画面に示されたのは、大きなハートマークと共に記されたとある数字だった。

「九十九・九九パーセント……?」

「この数字はあなたがこの世界で恋に落ちる確率、より厳密に言えば名野流が妻鹿七星と恋人になる確率を表しています」

「……え? えぇぇぇっ!?」

 私が妻鹿さんと恋人になる確率が九十九・九九パーセントだって? それはもう百パーセントに限りなく近い数字だ。もう恋人になっていると言っても過言ではない。いや、それは流石に過言だったか……。

 とにかく、それほどまでに高い確率で私は妻鹿さんと恋人になってしまうらしいということに衝撃を受けた。まだ私は恋の「こ」の字すら知らないのに。今日の朝からずっと急展開が過ぎる。私は内心焦りながらクエタに問いかけた。

「どうすればいいの!? このままじゃ九十九・九九パーセントでこの世界が滅ぶってことでしょ!?」

「大丈夫です! その残りの〇・〇一パーセントを掴むためにこの私、クエタが遣わされたのですから!」

「えぇー……?」

 目の前の天使を見る。確かに白くて羽が生えてて天使っぽくはあるものの、中身の神聖さは殆ど見当たらない。一番近い感覚で言うならば近所の子供と話している感覚と言えばいいだろうか。また、若干地上から浮いていて尚クエタの身長が私より僅かに低いことも、威厳のなさに拍車をかけている。

「あっ! その目! 信用してないって目ですね!? 安心して下さい、人間を幸せにするのが天使の使命! 絶対にこの世界を滅ぼしなどさせません! それにですね、人を幸せに出来ないと私も天使をクビになってしまいますからね!」

「そのクビってさっきも聞いたけど、天使ってクビになるとどうなるの?」

 私が何の気なしにクエタにそう聞くと、クエタは途端に嫌そうな顔になった。一々表情がコロコロ変わるところも人間っぽいなぁと思った。

「はぁー……天使をクビになってしまうとですね、人間になってしまうんですよ。いえ、決して人間が嫌いというわけではないんですよ? でも人間という業が深い生き物には絶対なりたくないですね。人間の感覚で言うとですね、子供を好きな人だって子供に戻りたいとは思わないでしょう?」

「いや、中にはそういう人もいると思うけどね。私もたまには小学生に戻りたいって思うし」

「え……人間のさらなる闇を知ってしまいました……」

 私に向かってドン引きするクエタ。そんな引かれた目で見られても困る。

 クエタは咳払いをすると、再びタブレットを何も無い空間にしまって人差し指を立てた。

「とにかく! 私があなたをサポートしますから! 絶対に妻鹿七星と恋人にならないようにしましょう! 頑張るぞー、おー!」

「お、おー……」

 本当にこの天使で大丈夫なのだろうか。一抹の不安が過ぎりつつも、この天使に任せるしかないのだと私は諦めた。

 そうして話もまとまったところで学校へ帰ろうとすると、ふと通行人の中の幾人かがこちらを見ながらヒソヒソ話をしていることに気がついた。

「ねえクエタ、早速だけど聞いて良い?」

「はい! 何なりと!」

「さっきから何か……人の目が気になるんだけど」

「あぁそれはですね、私は天使に関係がない普通の人には見えないですから。何も無い空間に向かって話しかけている流さんを不気味がっているだけです!」

「早く言ってよ!」

 

 回想終了。

 というわけで私は妻鹿さんを極力避けるように努力しなければならない。私とクエタは話し合った結果、それを遂行するための最も簡単な方法を採用することになった。

 それは、無視をすることだ。話さなければ、これ以上仲が深まることもないだろうという寸法だ。とはいえ、意識しなければ私は普段から妻鹿さんと話す機会など滅多にない。そう警戒しなくても大丈夫だとは思うが。

 朝のチャイムが鳴ると立派なあくびをしながら余田先生が教室へ入って来る。私はその脇に何故かはてなマークが書かれた箱が抱えられていることに気がついた。あれは一体……

「えー、突然で悪いが席替えをすることになった」

 その言葉を聞いた途端に教室がざわつき始める。大抵は喜びの声が多かったが、私は何故だか嫌な予感がした。

「席が何処になるかはくじ引きで決めるぞ、この箱に入ったくじを引いてくれ。じゃあ右の列から」

 そう言って生徒達は席を立って教団の上にある箱からくじを引いていく。紙には数字だけが書かれてあり、後から余田先生が黒板に書いた席の図に数字を書いて、どの席になるか決められるといった方式だ。

 私は箱に手を突っ込んで紙を手に取る。七番。位置で言うと教室中央の一番前の席だった。これは私的には、先生に近く居眠りも出来ないのでかなり悪い席だ。

 そして更に、悪い予感は当たった。私の隣に書かれたのは十四番。私は藤澤以外話す人がいないので、隣は誰でもいい、そう思っていた。しかし今だけは違った。

「よ、よろしくね」

「……」

 そう、その十四番のくじを引いたのが妻鹿さんだったのだ。隣の席になるということは必然的に接触する確率も高くなる。特に現代文やコミュニケーション英語の授業などがあれば隣とペアになって音読を行うのは必至。更に音読し合うだけの現代文ならまだしもお互いの好みや日常の出来事を語り合うコミュニケーション英語はそのまま雑談に移行する可能性も十分にある。

 私は時間割を確認した。一時間目は数学だった。私はほっと胸を撫で下ろす。

 余田先生が教室から出ていくと入れ替わりに数学の先生が入ってくる。いつものように号令をし終わると、隣の妻鹿さんが鞄の中を漁って居ることに気がついた。その様子は慌てふためいているようであった。私はもしやと察するものがあったが、それに気づいていないフリをしていると、妻鹿さんはおずおずと手を挙げた。

「すいません先生……教科書を忘れてきました……」

「そうか、隣に見せて貰え」

 やっぱりか! 私は緊張しながらも教科書を二人の机の間に置いた。すると隣に居たクエタが突然怒り始めた。

「ちょっと!? 無視するんじゃなかったんですか!?」

 私は授業中の静かな教室の中で、更に誰にも聞こえないよう小さな声でクエタに答える。もしも一人でブツクサ喋っているともなれば、遂に想像上のオトモダチと喋り始めたヤバいヤツ扱いされかねないからだ。

「いやいや……! 流石にこの状況で見せないのは意地悪すぎるよ……!」

「なーにを言ってるんですか! 完全に無視をするくらいでないと! あなたは自分の立場が分かっているんですか!?」

「わ、分かってるよ……」

 クエタは小さな声で喋っている私に気を遣うことなく耳元に向かって大きな声で喋るので耳がキーンとした。

 分かってる。私が恋すれば世界は滅ぶのだ。私は気を引き締め直した。無視だ、無視。何を言われても無視しなければ……!

 その時ふと、私の右手が妻鹿さんの左手にぶつかった。

「あっ、ごめむ……」

 私は気を引き締めたばかりにも関わらず謝りそうになるのを口をキュッと引き結んで耐えた。そのおかげで訳の分からない言葉になってしまったが。何故か彼女とぶつかったところの手の感触が残ってしまい、妙に意識してしまっている自分がいることに気づいた。

 そっと妻鹿さんの様子を伺う。

 すると、妻鹿さんも私の方を見ていた。顔は下の教科書に向いているが、目線だけがこちらに向いているため少し上目遣いになっている。その耳が、少し赤くなっているような気がした。

 私はこの人と九十九・九九パーセントの確率で恋人になる。

 そう思うと落ち着かない気持ちが溢れてきて、私はしきりに手を組んだりしてまごついていた。


 時間は飛んで、六時間目のホームルームの時間になった。幸いにもそれ以上妻鹿さんと話さなければならないような機会は訪れず、今日一日は平和に終わらせることが出来ると、そう思っていた。

 私はホームルームなど授業をスキップするためにあるボーナスタイムだと思っているため、完全に気を抜いていた。

「今日は遠足についての話し合いをする」

 余田先生がそう言うと黒板に数個の丸を書き始めた。

 遠足。その存在について私はすっかり頭から抜け落ちていた。この学校の遠足というのはいわゆる炊事遠足のことを指す。炊事遠足というのは文字通り炊事を行う遠足のことで、各自で調理器具や食材などの荷物を公園などに持ち込み、現地で調理を行って食べるという実に回りくどいことをする行事だ。年間のカレンダーなどで周知はされているものの、いざその時になって初めて私は思い出した。それは学校行事というものについてそもそもあまりいい思い出がないことが原因だろう。

「遠足は各グループに分かれて料理を決め、それぞれが持ってくる調理器具を誰が持ってくるかなどを話し合って貰う」

 私は朝に引き続き再び嫌な予感がした。それは朝とは違う種類の嫌さだった。

 炊事遠足の目的というのは仲間内での結束を高め合うことにある。グループ、仲間。これらは私が恐れる単語であり、嫌な予感の原因だった。そして余田先生はやはりと言うべきか、今までの話の流れに従ってある悪魔の言葉を言った。

「はい、それじゃあグループを作れ」

 終わった……。私は天を仰いだ。

 グループなど作れるわけがなかった。グループを作れということはつまり、数人の友達で集まれという意味とほぼ等しい。少なくとも一般的な高校生ならそうするだろう。何故ならば、グループを作る際、気の置けない仲である友人で組むのはメリットがあるのに対し、気の知れない他人と組むことにメリットはないからだ。

 しかし私はどうだろう。友人は藤澤一人だけだ。グループを組むには足りない。

 そうだ、藤澤。天を仰いでこの世の諸行無常を嘆いている場合ではなかった。グループは組めないにせよ、一人でも友達の居る状態のグループに入るのと、誰も知り合いのいない状態のグループを入るのとでは天と地ほどの差が出る。友達は一人でも居る方が楽しい。やはり、持つべきものは友達か。

 私は半泣きになりながら藤澤の元へ歩み寄った。

「ふ、ふじしゃわ……」

「藤澤~、組むべ~」

 私が声をかけたのと、藤澤の友人が声をかけたのはほぼ同時だった。刹那、硬直する。藤澤は明らかに戸惑っている様子だった。もう長い付き合いだ、その惑いは手に取るように分かった。

 手作りおにぎりに大小あれど友人に優劣なし。意味が全く分からないが、これが藤澤のモットーだった。とにかく友人にどっちのほうが仲が良いとか悪いとか、そういう差別をしないのが藤澤だった。それ故に、友人のどちらを優先するとかいうこともない。藤澤は悩んだ挙げ句、答えを出した。

「じゃあ……二人共一緒に組む?」

 それが最も良い落とし所だろう。少なくとも私はそれでも構わないと思えるし、恐らく藤澤の友人もそれで良かったのだと思う。

 しかし、ベストではなかった。

 藤澤の友人たちは流石、藤澤の友人というだけあって優しい。きっと私がグループに入ったならば、輪に馴染めない私にも優しくしてくれ、気を遣って話しかけようとしてくれるだろう。そして私も慣れないながらに懸命に話をしようとして、会話はそこそこ盛り上がった風に終わるだろう。

 それじゃあ駄目だ!

 それはあくまでも盛り上がった風であって、決して心から盛り上がってはいないのだ。どうしても心と心は馴染まないのだ。私は結局のところ、遠足の間中、藤澤友人達に気を遣わせ続けるだろう。そうすれば彼女達の、青春の思い出の一つが不完全なものになってしまう。私が居ることによって、欠けてしまう。私一人のせいで、そんなことがあって良いのだろうか?

 いいや、良くない。あって良いはずがないのだ。

「……と、思ったけど! 私やっぱいいや! ほら、遠足まで藤澤の顔とか見たくないし! それじゃ!」

「あっ、おい! 流!」

 私は適当な理由をでっち上げると、藤澤に背を向けてその場を去った。それは今生の別れにも等しい。私は涙が出そうになるのをひた隠しにしつつ教室前方へ向かった。

「流さん……どうするんです? 天使ネットワークに記載されているあなたの友人数は一人。このままだと何処のグループにも入れないと思いますが……」

 今の様子を余す所なく見ていたクエタが横槍を入れる。その目は「何やっているんだこの人」とでも言いたげだった。それは私のほうが聞きたい。何やっているんだ私。しかしながらそれでも私は強がりの笑みを浮かべつつ小声でクエタに答える。

「大丈夫。まだ秘策なら、ある」

「え!? その方法って……」

 驚くクエタをよそに私は教壇の前に立つ。皆がグループ決めでワイワイと盛り上がる中、私は至って冷静だった。そして、目の前に私が来たことに気づいた余田先生は不思議そうな顔でこちらを見る。そして私は秘策を実行した。

「先生、余りました」

 隣にいるクエタが「えぇ……」と呆れたような声を出した。呆れるな。これでも精一杯やっているんだこっちは。そうして余田先生の顔に浮かんだ表情は、困惑そのものだった。

「お前、プライドとかないのか……?」

「ありません」

「……いや、まぁ、良い。お前の勇気は認めよう。でも、必ず何処かのグループには入って貰うからな。多分時間が経てばお前のように余るやつも出てくるだろう、そいつらと組ませるぞ」

「分かりました、ありがとうございます」

「礼を言われるようなことではないんだが……」

 そして私はクラスのグループ決めが落ち着いてくるまで余田先生の隣で待った。それは授業中、先生に立たされている状況にも似ていて、すごく居心地が悪かった。

 その心情を察してか、余田先生は私に雑談のようなものを持ちかけてくれた。良い先生だ。私は余田先生に対する印象を改めた。しかし先生が気を遣って雑談してくれているという事実が余計哀れに思え、私の心を抉った。

 そうして余ったのは、私を含めた女子二人と男子二人の計四人という構成だった。男子のほうは密かに女子人気が高いと風の噂で耳にしたことがあるイケメンの寺石くんと、クラスのお調子者の井出くんだった。一見、二人は馬の合いそうにない真逆の性質を持っているように見えるが、その実仲が良く、二人で話しているのをよく見かける。二人共余るといった事柄とは無縁そうだったが、「どこでもいい」と言っていたが故に最終的に余ってしまったらしい。

 ここまでは良い。何の問題もない。しかし問題なのは私を除いたもう一人の女子のほうだった。その女子というのが……

「さ、三人とも、よろしくね」

「よろしく」

「よろしく~」

「……」

 ……妻鹿さんだ。何故妻鹿さんが余っている? ひょっとして、私が余っていたから彼女も同じ様に私と組みたくてわざと余るように振る舞ったのだろうか? 最初はそう思ったものの、周囲の女子の反応を見る限り違うらしい。

 どうやら妻鹿さんは全ての女子グループと日常的に上手く付き合っていた結果、何処のグループも妻鹿さんを誘うんじゃないかと遠慮し合ったため、余ってしまったようだ。私とは真逆の理由だった。これが人気者が故の苦労か。

 グループ分けが終わると、次は現地で作る料理の献立を決めることになった。しかし、今日はグループ決めで大半の時間を使ってしまったため、案を出し合うというだけになるのだが。

「だからさ、うちらの班は四人しか居ないから簡単なメニューが良いと思うわけ! 皆はどう?」

 井出くんが率先して話し合いを進めてくれる。こういうとき、一人は場をまとめて進行してくれる人がいると話し合いが楽だ。それに続いて寺石くんが、そして妻鹿さんが意見を述べる。

「それでいいんじゃないか。俺なんかは料理をしないからそっちのほうが助かる」

「私もそれが良いと思う。……名野さんはどうかな?」

「私も――」

「ちょっと! 流さん!」

 隣で様子を見ていたクエタに声をかけられハッとした。そうだった。私は妻鹿さんと会話をしてはいけないんだった。つい流れで返事をしてしまいそうになる。

 しかしこのまま返事をしないわけにもいかない。私はどうすればいいか悩んだ結果、井出くんに話しかけた。

「井出くん! 私も良いと思うって妻鹿さんに言って!」

「え? いーけど……私も良いと思うだって」

 私は額の汗を拭う。これで世界の平和は守られた。しかしながら妻鹿さんは不思議そうな顔でこちらを見ている。私は内心で謝った。ごめん、妻鹿さん。これも世界を救うためなんだ。許して欲しい。

「えっと、じゃあ、それを踏まえてどんなメニューが良いと思う?」

「……」

「……って、名野さんに聞いてくれるかな? 井出くん」

「どんなメニューが良いかだって」

「焼きそばとか、カレーとかが良いと思うって伝えて」

「焼きそばとかカレーだって」

「そっか、名野さんは普段料理するの? ……って伝えてくれる?」

「料理するの? だって」

「ちょっとはするって伝えて」

「ちょっとはするって」

「いや、お前ら井出を介すんじゃなくて直接話せよ……」

 寺石くんが呆れ顔で突っ込む。結局私はこの献立決めの間、妻鹿さんと話すときは井出くんを介しながら喋った。井出くんは忙しそうにしていた。申し訳ない。

     *

 それからというものの、私は徹底的に妻鹿さんを無視する日々が続いた。

 そして彼女の行動原理を読んで、必要がない場合はなるべくすれ違ったり近くに行ったりしないようにするために彼女のことを観察もした。その過程で彼女と目が合うことがしばしばあったが、それも視線を先に逸らすことで彼女に気がないことを完璧にアピールした。

 しかしながら無視というのは、している側もかなり胆力を使う。本来、自分と同じ人間が居るにも関わらず、それを居ないものとして扱うのは不自然なことであるし、良識ある人間として良くない行いであるからだ。私は彼女に対する申し訳無さから、完全に気を病んでしまっていた。藤澤にさえ「最近のお前、変だぞ……」と言われてしまう始末。状況は消耗戦に近い様相を呈していた。

 ……そして、ここから先は私のように徹底的なまでに彼女を観察していなければ気が付かないことだが――彼女にはどこか影があるように見える。

 影、というのは何も彼女の性格に欠点があるというわけではない。寧ろ観察すればするほど彼女の欠点のなさが余計浮き彫りになる。それはもう、不気味なほどに。

 しかしながら彼女はいつも笑顔でいられるほど完璧ではないらしい。稀に、本当に稀に、彼女はどこか寂しそうな表情をする時があるのだ。彼女の笑顔の中に一瞬垣間見えるそれは、普段が温和で欲望を発露することがない彼女だからこそ、まるで悲痛な叫びのようで。その表情を見た瞬間、私の心にはチクリと棘が刺さったように確かな痛みが与えられる。

 そしてここからは……私の気の所為、というより完全な思い上がりなのだが、それには唯一の例外がある。それは私の傍に居るときだけは、その悲痛な表情が少しだけ和らぐ気がするのだ。その顔は悲しみも喜びもないまぜにしたような複雑な表情だった。

 私は出来るならば、彼女が垣間見せるその悲痛な表情を見たくはないと思っていた。しかしその顔をさせてしまっているのは私の所為であるのかもしれない。そのことが余計に私を心苦しくさせた。

 そんな精神を擦り減らす毎日が続いたある日、私は昼休みに余田先生に職員室へと呼び出された。

「お前、妻鹿のこと無視してるだろ」

 単刀直入だった。もっとオブラートに包んで言えないのだろうかこの人は。職員室のデスクに腰を掛け、指先で何処かの鍵のキーチェーンを弄びながらも余田先生は話を続けた。

「何でだ? ……と聞きたいところだが、それはお前にも事情があるのだろう」

「……まぁ」

 事情ならある。山よりも高く海よりも深い事情が。でも、それを正直に言って「世界が滅ぶのを阻止するためです」なんて言えば、私は頭の検査と称して病院送りにされてしまうだろう。しかしながら先生はそれ以上深く事情を聞いてくるようなことはしなかった。

「しかし、だからといってそれを見過ごせはしないな。私にとっても困るんだよ、そういうことがあっちゃあ。だからほら」

 そう言って余田先生は持っていた鍵を投げ渡して来た。やけに細長いその鍵は、この学校で使われている教室の鍵と同一規格のもののようだ。

「これ……なんですか?」

「化学準備室の鍵。もう妻鹿には伝えてあるから、お前たち二人で授業の準備をしてこい」

「授業って……私たち文系クラスには関係ないじゃないですか」

「いいから。これは先生からの“お願い”だぞ。断れるはずないよな?」

 お願いじゃなくて脅しに近いその言葉を断るような度胸は私にはなかった。余田先生は不気味にニコりと笑うと、一枚のメモ用紙を渡してきた。ここに書いてある実験器具を用意しろということらしい。

 私は追い出されるように職員室を出た。これも九十九・九九パーセントの運命力なのだろうか? 閉じた職員室の扉と持っている鍵を交互に見据えた末に、既に到着しているであろう妻鹿さんが待つ化学準備室へと向かった。


「あっ、名野さん。鍵、持ってきてくれたんだね。ありがとう」

「……」

 私は極力妻鹿さんを視界に入れないよう無言で鍵を回す。そして、扉を開けようとしたが、扉は途中でつっかえてしまい、腕が入りそうな隙間ほどしか開けられなかった。何とか開けようと試行錯誤していると、妻鹿さんが「私が開けるよ」と言ってきたので、私は素直に横にどいた。

「この扉、古くなっててね。開け方にコツがいるんだって」

「……」

 そう言うと、妻鹿さんは扉の上部のほうを抑えて、上下に揺する。すると、扉はガラガラと大きな音を立てて開いた。私は妻鹿さんにお礼も言わず中に立ち入る。化学準備室に立ち入った途端、正体不明の化学薬品の匂いが鼻を突いた。

 学校のニ階にある化学準備室は多様な薬品が保存されているためか、他の準備室とは違って少しだけ広い作りになっている。クエタは中に入った途端、人間の臓器が露わになった人体模型を物珍しげに眺めていた。

 私は貰ったメモをこの部屋に一つしかない机の上に置き、何も言わずに準備を始める。そうすると、妻鹿さんもメモに気づいたのか、一人でに準備を始めてくれた。

ビーカー、丸型フラスコ、ガラス管……それぞれメモされたものを手に取っていく。化学準備室は嫌に静かだった。これは恣意的な静かさであって、この前の保健室のときのように偶発的な静かさではない。無理やり抑えられたような重圧の中、妻鹿さんがもがくように口を開いた。

「……ねぇ。やっぱり、私のこと無視してる……よね。私なにかしちゃったかな? もしそうだとしたら謝るから」

「……」

「……ごめんね」

 違う、妻鹿さんは何もしていない。しかし違うと言えない自分が歯がゆかった。

 妻鹿さんは明らかに傷ついている様子だった。妻鹿さんは何も悪くないのに、私が傷つけてしまっている。

 私はいつまでこんな風に、他人を傷つけるままで生活していくつもりなんだろう? 遠足が終わるまで? それとも卒業するまでずっと? こんなのが本当に純粋な魂の在り方だって言うのだろうか? 私は疑問に思った。

「……!」

 その時だった。ふと、カタカタとガラス同士がぶつかる音が聞こえ始めたかと思うと、地面が揺れ始めた。

 地震だ。私はそう思い、その場で揺れが収まるのを待とうとした。日本でこの程度の地震は日常茶飯事だ。そう慌てることもないだろう。

 ふと、妻鹿さんに目をやると、妻鹿さんの傍の棚の上に置いてあるビーカーが落ちそうになっていることに気がついた。

「危なっ……!」

 私は妻鹿さんの腕をひっ掴んでこちら側まで引き寄せる。

「えっ……!?」

 次の瞬間、ビーカーが床に落下し、音を立てて割れた。周囲にガラスの残骸が散らばる。これがもしも妻鹿さんに当たってたらと思うとゾッとした。偶然だが気づけて良かったと私は安堵した。

 未だ揺れが続く中、この化学準備室は物が沢山置いてあって危険かもしれないと判断した私は、妻鹿さんを机の下に押し込んだ。続けて私も同じ机の下に入り、揺れが収まるのを待つ。

「あ、ありがとう名野さん」

「……」

 妻鹿さんにお礼を言われ、私は何も答えられないので気まずくて目を伏せた。机は化学室にあるものと同じ物で、普通の教室にある机よりは横が広い作りになっていたが、それでも二人で下に入るとギュウギュウといったくらいの大きさだ。傍にいる妻鹿さんから洗剤かシャンプーの自然な良い匂いが漂ってきて、何だか無性に気恥ずかしく感じる。妻鹿さんのほうを見ると彼女も意識しているのか、顔が真っ赤に染まっていた。何だか私も釣られて赤くなりそうになるのを顔を抑えて隠す。

 しばらくの間二人で机の下に避難していると、長く続いた揺れは次第に収まっていった。

「長かったね……」

 確かに長い揺れだった。大きさ自体は左程ではなかったものの、ここまで長い揺れは珍しい。今すぐに地震についての報道を確認したかったが、生憎スマートフォンは教室の鞄の中だ。

「少し、教室のほうを確認しに行こうか? それに割れたガラスを片付けるための箒も持ってこなきゃだし……」

 妻鹿さんはそう言って化学準備室の扉まで歩いていく。それが良いだろうと、私も妻鹿さんに続いて準備室を出ようとした。

 が、しかし。

「あ、あれ……?」

 妻鹿さんが扉を開けようとすると、ガタンガタンと音を立てるものの、扉はピクリとも動かなかった。おかしい、さっきまでは腕の隙間くらいまでは開いた筈だ。妻鹿さんは扉を上下に揺すって開けようとする。開かない。妻鹿さんに代わって私が開けようとする。開かない。今度は二人で力を合わせて開けようとする。開かない。まさか先程の地震で扉の枠が少し変形してしまったのだろうか。

「どうしよう……もしかして私たち、閉じ込められちゃった……?」

 妻鹿さんがそう言った。

 閉じ込められた……? 私はその言葉の意味を咀嚼する。閉じ込められたということは、ここから出られないというわけで、ここから出られないということはその間ずっと妻鹿さんと二人きりになるということだ。

 それはマズい。

 私は最悪の場合を想像した。

 このまま二人で閉じ込められる、四半世紀が過ぎる、それだけの時間を共に過ごしていれば自然と仲が縮まる、恋に落ちる、世界滅びる。

 終わりだ! 私は焦った。何としてでもここから早急に出なくてはならない。

 幸いにも暑いため窓は開けっ放しになっていた。ここからクエタを外に出すことは出来る。

「クエタ! クエタ!」

「はい?」

 私は妻鹿さんに気づかれないようにクエタに呼びかける。クエタは呑気そうに返事をした。天使は飛んでいるため地震の影響を受けないからなのだろうか? だとしても危機感くらいは持って欲しいものだが。

「教室から私のスマートフォンを持ってきて!」

「出来ません。私が無機物を持つと一般の人間から浮いているように見えますから」

 クエタは淡々とそう返した。確かに、スマートフォンが一人でに浮遊している所を目撃されたら事件になるかもしれない。もしかすると、学校の七不思議の七番目に追加されてしまうかも。いや、クエタに釣られて呑気なことを考えている場合ではない。

「何とかならないの?」

「一般人からも見えるモードになることは出来ますが……それだとただ校内に侵入して来た不審者になってしまいますが」

「分かった……じゃあ廊下に出て、近くに誰かが通りかからないか教えて!」

「分かりました」

 そう言うとクエタは窓から飛び出して行った。しかし、このままじっとしているわけにもいかないだろう。誰かが通りかかるのを待つのは受け身すぎる。もしかすると四半世紀……いや、それは間違いなくないだろうが、最悪今日の放課後までずっとなんてこともあり得なくはない。私にはその間に恋に落ちないと言い切れる自信がない! だって相手はあの妻鹿さんなのだ。可愛くて、すこぶる良い人で、成績優秀。しかも九十九・九九パーセントの確率で恋人になるとまで言われている人相手なのだ。何かの拍子に好きになってしまうことは十分に有り得る。

 ……それに多分、これは自惚れだが今までの反応を見る限り、妻鹿さんは少なくとも私のことは嫌いじゃない……というか、好きまであり得るかもしれないし。うん。

 とにかく、今すぐ脱出出来る方法を探さなければならない。例えばロープを伝って降りるとか。

 私は化学準備室の中を探し始めたもののロープなんてものはなかった。あるのはカーテンだけ。これを結べばロープ代わりになるだろうか。いや、長さが足りないだろうし強度にも不安がある。私はキャンプをするときのように解けないちゃんとした結び方は知らない。

 そうやって私がうんうんと悩んでいると、ふと窓の外の木に白猫が寝ているのを見つけた。人間のことなど知らず、お気楽な様子だ。猫は悩みなどないのだろうか?

 そこでふと、私はある一つの案に行き着いた。

「木を伝って脱出しよう」

「えぇっ!?」

 いつの間にか声に出ていた私の案を聞いたらしい妻鹿さんが驚きの声を上げる。そんなに変なことを言っただろうか。むしろ名案だと思うが。これ以上の案などあるだろうか? いや、ない。

 私が早速白猫が寝ている枝の隣にある比較的丈夫そうな枝に飛び移ろうとすると、妻鹿さんが窓から身を乗り出した私の胴体を掴んできた。

「えっ!? 何!?」

「『何!?』じゃないよ! それはこっちの台詞! 何しようとしてるの、危ないでしょ!」

「大丈夫、大丈夫! ほら、何かの本にも書いてあったけど、飛び降りは七階くらいで死亡率ほぼ百パーだけどニ階だと当たりどころが悪くない限り死なないって言ってたし!」

「当たりどころが悪かったら死んじゃうんだよね!?」

「それに、あるゲームでも陸上部の女子がニ階から飛び降りてピンピンしてたし!」

「それはゲームのやりすぎ!」

 私と妻鹿さんは口論になった。木に移りたい私は窓から飛ぼうとするが、妻鹿さんはそれを必死で抑えつけてくる。何が彼女をここまでさせるのだろうか。

「うぐぐ……あっ!」

「え――」

 私達は引っ張り合いになった末、最終的に私が窓枠にかけていた手が滑り、思い切り後ろにひっくり返る形になってしまった。二人の身体が準備室内に折り重なるようにして倒れる。

「いてて……ご、ごめ――」

 妻鹿さんの身体を下敷きにしてしまった私は身体を反転させて起き上がろうとした。

 視線が交差する。私はいつの間にか、妻鹿さんを押し倒す形になってしまっていることに気がついた。

「あ……」

 それはもう、鼻と鼻が触れ合ってしまいそうなほど近い距離だった。まつ毛の長さまで分かる距離だ。他人のまつ毛なんてまじまじと見たことはないが、彼女は結構長いほうだと思う。美人さんだ。

 私は完全に混乱していた。これって、もしかして、将棋やゲームで言う“詰み”なのだろうか? ドクンドクンと鼓動する心臓の音が聞こえる。大きな音だ。これは彼女のものか、私のものか、もう判断がつかない。

 妻鹿さんは顔を真っ赤にさせて視線を右往左往させていたが、やがてギュッと閉じた。その様子は小動物を思わせる可愛さを秘めていた。

 え、これはもう、そういうことなのか? チェックメイトなのか? 世界、終わるのか?

 私は唾を飲み、ゴクリと喉を鳴らした。顔を少し傾ける。そして――

「流さーーーーーーん! 余田先生が来ましたよー!」

 ――クエタの大声が聞こえて瞬間的に飛び上がった。それはさながらキュウリを見つけた猫のようだった。それから私は猫の次は死にかけのセミのように、仰向けの格好になって妻鹿さんの隣に倒れ込む。 

 危なかった……!

 私はタイミング良く声をかけてきたクエタに心から感謝した。完全に、何か強力な地場のようなものが私を支配していた。それは抗い難く、常人ならば負けていたことだろう。私が並外れた精神力を持っていて良かった。

「……お前達、大丈夫か?」

 扉の外から余田先生の声が聞こえる。助かった。私は立ち上がって扉の傍まで歩き、余田先生に答える。

「先生! 扉が開けられなくなってしまって……!」

「分かった。人を呼んでくるから少し待っていてくれ」

 恐らく用務員さんか男の先生が来てここを開けてくれるのだろう。

 冷静になってよくよく考えれば、この後化学の授業があるんだからそれまでに準備できていなければ、余田先生が見に来るのは当然だった。私はどうやら焦り過ぎていたらしい。

 この後何故か消防隊が来て、事態はかなり大事になってしまった。私達は怪我がないか確認された後、教室に戻ることになった。


 放課後の帰り道。私は妻鹿さんと帰り道を歩いていた。傾き始めた太陽が町をオレンジ色に染めていく。自分の自転車を押して歩きながら、私は妻鹿さんと歩幅を合わせた。一緒に帰りたいと言い出したのは私からだった。

 あの理科室の一件で、妻鹿さんを無視する作戦と言うのは失敗に終わった。あの騒動の中でいつの間にか会話をしてしまっていたためだ。クエタには「一度話してしまったとはいえそれでも無視を続けるべきです」と進言されたものの、もう私は耐えられなかった。堪え性がないとでも何でも言えば良い。とにかく、これ以上彼女を傷つけてしまうことを私は良しとしなかった。

「あの……無視してごめん」

 私がそう謝ると妻鹿さんは目を丸くしたかと思うと、すぐにふっと笑った。

「ううん、いいの。名野さんも無視したくてしてるわけじゃないって、何となく分かってたから」

「え、何で分かったの?」

「だってすっごく辛そうな顔してたし。それに、君が優しい人だってこと、知ってるから……」

 そう言って彼女はまた、寂しそうに笑う。どうやらこの表情は私が無視をしているからではなかったらしい。では、一体何が彼女をそうさせるのだろうか?

 私はどうにか、彼女の笑みからその寂しさを拭うことが出来ないかと思って、周囲を見渡した。自転車用のスロープがついた歩道橋の上で、私はピタリと足を止める。それに気づいた妻鹿さんも、釣られて足を止めた。

「見て!」

 私は真横を指さした。

「夕日」

 真っ直ぐに伸びていく道路の先にあったその夕日は、橙色の光を四方にばら撒きながら沈んでいく。光の先には買い物帰りの主婦や家路に着くサラリーマン、友人と並んで歩く小学生など、人がそれぞれの道を歩いていた。木々は影を持ってそのコントラストを明確に浮かび上がらせており、ビルは光を受けて、また別の方向へと反射させていた。それは輝きの中に町全体が調和していくようだった。

 私はその光景を彼女にも見て欲しかった。彼女なら、この光景を一緒に見てくれるだろうと思った。

「――うん」

 それは永遠だった。

 いや、本当は一秒にも満たない一瞬の時だ。私の瞼が開いて、もう一度閉じるまでの間に、彼女の姿だけがコマ送りになったかの様に錯覚した。風に揺られる淡い髪、それを抑える仕草、そして困ったように笑うその表情が、私の網膜に焼き付いてしまった。この瞬間、彼女は誰よりも永遠であり、そして――

「綺麗」

 ――美しかった。

「……? どうかした?」

 妻鹿さんが私の目の前で手を振る。その瞬間急速に時間が取り戻されていくような感覚がして、私は慌てて答えた。

「ううんっ、何でもない!」

 まさか「見惚れてました」なんて口が裂けても言えないだろう。私は今が夕暮れで本当に良かったと思った。夕暮れは色を分からなくさせるからだ。

 私が誤魔化すように頬を掻いていると、妻鹿さんは学生鞄を後ろ手に持って私と向き合った。

「……あのね、前に屋上で言おうと思ってたこと、今言っても良いかな?」

 私は一瞬固まった。屋上で言おうと思っていたこと、それは私があの時聞きそびれたことであり、恐らく彼女にとって重大であろう言葉だ。

 早鐘を打つ心臓の音を聞きながら、私は答える。

「うん」

「あのね、私と――」

 一息置いて、彼女は言う。

「――私と、お友達になってください!」

 ……お友達? 私は勢いよく顔面からすっ転びそうになった。お友達、そうかお友達になりたかったのか。私は身構えていた所を予想外の突きで崩された格好になった。

 お友達になりたいってことを言うためだけに屋上に呼び出さなくてもいいのでは。そう突っ込みたい気持ちもあったが、妻鹿さんにとってはそれでも十分に勇気のいることだったのだろう。そのことは彼女の顔が真剣そのものであることからも読み取れる。

 私はすぐに答えを出した。

「喜んで」

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