世界の章

 ピピピピッ、ピピピピッ、と五回目のアラームが鳴る。私は再びスヌーズ機能を利用してアラームを再設定した。カーテンが閉じられたままの暗い部屋に、眼前にはテレビゲームの画面。それは今ではもうレトロゲーと呼ばれる類のものであったが、私が今よりもっと子供だった時は最新だったゲームだ。昔プレイできなかったゲームを成長してからプレイできる、それほど成長の旨味を感じたことはこれまでも、そしてこれからもないだろう。

「……よ」

 再びコントローラーを手に取りボタンを押す。私がコマンドを入力する度にゲームの中の主人公は移動し、冒険を進める。これがたまらなく楽しいのだ。未知なる世界、新しい武器、そしてまだ見ぬ仲間たち……それらが詰まったゲームはこの私たちが生きている世界を単純化した実に素晴らしいものだと思う。あぁ、本当にゲーム制作者とは何て天才的な人たちなんだろう。

「……てるよ」

 しかしながら、その冒険も終わりが近づいて来ていた。もうこのゲームの終わりが近いことはキャラクターの台詞や雰囲気から察せられていた。先月くらいからずっとプレイしていたゲームなので、終わりが近いともあれば感慨深い。

最終ダンジョンを通り抜けた先にはおどろおどろしい玉座の上に魔王が鎮座している。魔王は主人公に、そしてプレイヤーに問いかけてきた。

『お前は、本当にこの世界を救うのか?』

 そして四角い枠の中に表示される「はい」、「いいえ」の文字。何だろうこの問いは? そんなの、聞かれるまでもないだろう。私はずっと、この魔王に支配された世界を取り戻すために冒険してきたのだ。答えは、「はい」に決まっている――

「ご飯! 出来てるよ!」

「うわあああああ!?」

 乱暴にドアを開ける音と共にお母さんが部屋に乱入してきた。その手には様式美とも言うべきか、フライパンが握られており、更にその上には半熟に焼けた目玉焼きがちょこんと乗せられていた。

いつものことながら、この人はどれだけテンプレート的おかんをやれば気が済むのだろう。私は呆れながらもこれ以上何か言われてはたまらない、と即座にゲームの電源を落とす。

「あ! あんたまーたゲームばっかやって! ちゃんと寝たの!? 宿題は出来てんの!? あんたは本当昔からゲームゲームって、もう高校二年生なんだからね、ちゃんと進路に向けて勉強しないと……」

「あーもう、うるさいうるさい! 今日はちゃんと早起きしてやってるの! 宿題ってか課題も済ませてあるし!」

「そうなの? それならあんまりとやかく言わないけどね、取り敢えずご飯食べに降りて来なさいよ!」

「はいはい……」

 私が適当に返事をすると、それでようやくお母さんは満足したのか、再びフライパンとともに下の階に戻っていった。私はため息交じりにアラーム設定していたスマホの設定を解除してから通学用のリュックサックの中に突っ込む。

あともう少しでゲームクリア出来るところだったのに。お母さんはタイミングが悪い。しかしながらお母さんのお陰で学校に遅刻しなかったのも事実。あとの残りは今日家に帰ってからやればいいかと思いつつ、私も下の階に降りた。

 リビングへ向かうと、そこには既に朝食が用意されていた。黄色くこんがりと焼かれたパンにマーガリン、別皿に置かれた真っ赤なミニトマトの下には先程フライパンの上で手持ち無沙汰に待機していた目玉焼きが、今か今かと私に食べられるその時を待っているようだった。

『約一ヶ月後に見られる流星群は複数の群が重なり……』

 点けっぱなしになっているテレビを眺めながら食事を終え、食器を台所の流しへ置く。それから私は二階からリュックサックと体操着が入った巾着袋を持って玄関へと向かった。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 うちの両親は共働きではあるものの、普段からお父さんは私より家を出るのがずっと早く、お母さんは私より家を出るのが遅いために、いつも私が言うのは「いってきます」だけだ。

 お母さんに見送られながら玄関を出る。そして、いつものように車庫の端っこに止めてある白いママチャリを家の前へと出した。中学の時から変わらずに乗り続けているその自転車は、今はもうあちこちに出来た傷と乗る度についた汚れで、新品同様とはまるで言えないが、それでもいくつもの景色を共に見てきた私の愛車だった。高校へ入学する際に、お母さんから新しいものへと買い替えることを勧められたが、私はこのボロ自転車に寿命が来るまではそのつもりはない。

 カゴの中に持っていた巾着袋を入れ、目印に青い箱型キャラクターのキーホルダーが付いた自転車の鍵を差し込んで回す。その時ちょうど、隣に住んでいる顔見知りの奥さんがベビーカーを押して玄関の扉から出てきた。散歩にでも行くのだろうか。赤ちゃんと奥さんの頭にはこの初夏の暑さにも耐えられるようなつばの広い帽子が被せられている。私はニコニコと微笑む赤ちゃんに手を振って、自転車を漕ぎ出した。

 夏の始まり特有の、暑さを交えながらもどこか清涼とした風が耳の横を通り抜けていく。町の木々が揺れ、影と影の間を渡っていくように自転車を運転する。空は晴れ渡り、一筋の飛行機雲がその青色に拙い落書きするみたいに浮かんでいた。

 私はこういう何でもない朝に見られるようなこの風景が好きだった。この町が、というよりはこの世界が。私のような留学経験もない高校生にそんな大きな目線で物事を捉えられるかと言えば疑問が残るが、私の目の届く範囲だけでは何も問題はなく、つつがなく回っている。そんな世界の一部と同調できたような感覚が、私はたまらなく好きだった。

 とはいえ、私は何かこの世界のために大層なことを出来るような身分ではないし、それが出来ると思えるほどのおこがましさもない。昨日先生から出された数学の課題に四苦八苦しているような取るに足らない学生だ。私が出来ることと言えば、せめてペットボトルのラベルとキャップを分別して捨てることくらい。

でも、それくらいで良かった。それくらいでも、この緩やかな世界の一部になれているのだから。

 なんて、気取ったことを考えている内に、私が通っている高校の校門まで着いていた。同じ様に校門から入ってくる他学年の生徒たちと接触しないよう、それなりに間隔を保って乗り入れて行く。自転車が無数に並んでいるトタン屋根の付いた自転車置き場に私も他の生徒達と同じ様に自分の愛車を停めた。

「おはよーございます」

「はい、おはよう」

 何故か毎日毎日飽きもせず玄関前に立っている頭髪が寂しい校長先生に挨拶をしながら私は校内に入った。

ここに入った瞬間、グッと地球の引力以上の重力が両肩に掛かったような錯覚を感じる。やはり私も一般の学生らしく、学校というものは苦手で仕方なかった。ダルい。眠い。なんか嫌。この三拍子が揃っているのはこの学校という地形の効果によるものなのか。とにかく今日も早く終わってくれと思いつつ靴箱を開ける。

「……あれ?」

 ひらり。上靴を取ろうとすると、紙が一枚落ちてきた。

 メモ帳? ……じゃない、便箋だ。私は不思議に思いながら、三つ折りにされたそれを開く。素朴なデザインのそれにはボールペンの整った字でこのようなことが書いてあった。

名野流なの りゅうさんへ。放課後、屋上で待っています。妻鹿七星めが ななせ

 妻鹿七星……同じクラスの妻鹿さんの名前が文末に記されてる。もう一つ書かれている名前は私ものだ。一瞬、宛先が間違っているのかもしれないと思ったが、わざわざ私のフルネームまで書かれているのだ、その可能性はなさそう。

 私は妻鹿さんとまともな会話をしたことは一度もない。女子のグループが違うというか、そもそも私に友達が少ないのは元より、二年生で同じクラスになってから初めて知り合った。席が前後になった時プリントを渡したりしたことはあったような気はするが、特筆できることと言えばそれくらいなもので、逆に言えばそれほどまでに関係は薄い。

 でも、どうして妻鹿さんが私を呼び出したりするんだろう? 何か重要な用事……二人きりでないと話せないことがあるのだろうか? それってなんだか、告白みたいだ。

「…………え?」

 告白……? まさか、告白されるのだろうか? だってこれ、文面が、漫画とかで読んだ典型的なラブレターの文面だ。しかも靴箱にって、少女漫画でしか見られないようなベタな手法で。

 あれ……これって、ラブレター、か……?

「いやいやいや!」

 それはおかしい! だって、関係も薄い人に告白するなんて常識的に考えてあり得ようもない。そんな人は恋に恋をするような年頃の中学生でも居ないだろう。それに、よりにもよって相手は私だ。この私なのだ。地味で目立たなくてオタクと呼べるほどではないがそれでもゲーム好きで友達の少ない、私なのだ。それで告白される確率は? ゼロ。可能性ナシ。以上閉廷。

 いやでも……奇跡的に、本当に奇跡的に。私に何か特別な素質があって、そこに惚れてくれたという可能性も……

「流、何してんの?」

「ひょわあぁぁっ!?」

 背後から名前を呼ばれて咄嗟に、持っていた便箋をスカートのポケットの中へしまい込んだ。振り返るとそこには、私の唯一無二にして小学校からの友人である藤澤ふじさわが立っていた。藤澤は半袖のYシャツの上にベストを着用しており、脇に私と同じく体操着の入った巾着袋を抱えながら訝しげな視線を向けてくる。

「何その声。きも」

「き、きもくないっ!」

「ってかちょっと横ずれて」

「あぁ……ごめんごめん」

 私は一、二歩ずれて藤澤の靴箱の前を空ける。藤澤は気怠げに手で自身を扇ぎながら上靴を床に敷かれているすのこの上へと投げ置いた。

「数学の課題やった?」

「やった。あれ難しくなかった?」

「だから答え聞こうと思って」

「教室行ったら見せ合おうよ」

「りょーかい」

 それ以上、藤澤が私の様子について突っ込んでくるようなことはなかった。ただいつものように挙動不審なだけだと思われたのだろう。いや、私は普段から挙動不審なわけでは無いが。スカートの中の便箋が落ちたりクシャクシャになったりしないよう気を使いつつも、私は藤澤と一緒に自分の教室へと向かった。

「おはよー」

「おはー」

 二-Aの教室に入り、藤澤が別の友達に挨拶しているのを邪魔しないように、できるだけ影を潜めながら横を通過する。友達の友達は友達ではない。それを痛いほど実感するのが毎朝のこの瞬間であり、私がこれまで生きてきた十六年とちょっとの期間で学んだのはそういうことだった。別に私も彼女たちに挨拶してもいいのだが、何か気まずい。私と藤澤の友人達との関係はそんな微妙な関係性だった。

 私と違い、藤澤は昔から人間関係を構築するのが得意な方だ。自身ではコミュ障を自称しているがその実、自分から人に話しかけることが出来るという本物のコミュ障からすれば最強のスキルを持っており、友人には事欠かなかった。その上、一度懐に入ってしまえばお得意のジョークで相手を虜にさせてしまうのだから隙がない。

 私は一度「お前のようなやつがコミュ障を自称するな、私に謝れ」と言ったことがあるのだが、藤澤は悪びれる様子もなく「上手く見えているようだけどね、私でも上手くいかない色々があるんだよ、色々」と言っていた。本当にそうなのだろうか? それでも私よりはよっぽど上手くいっているようだが。

 そして、ここから先はあまり大きな声では言えないし、絶対本人に直接言うことはないだろうが、私はそんな藤澤を密かに尊敬している。それは藤澤が人間関係で努力していることの証であって、私には決して出来ないことだからだ。本人にその意識があるのかは知らないが。得意にしている相手を笑わせるためのジョークだって、一朝一夕に身に着けたものではないだろう。

 ……いや、やっぱり今の言葉は取り消そう。尊敬などしていない。時には私の些細な言動や習性についてからかって来る嫌なやつだ。騙されるな、自分。

 私は席に着くとマジシャンも見惚れるような手捌きでスカートの中の便箋をクリアファイルの奥の奥へとしまう。これでもう他人に見られる心配はない。私はそのクリアファイルを更にリュックサックの奥へしまうと、続いて数学のノートを取り出し藤澤の席へ向かった。

 二人で課題を見せ合う。すると、私達の解答はそれぞれ異なっていた。それから朝礼のチャイムが鳴るまであーでもないこーでもないと問題についての議論が行われたが、結局分かったのは答えが何なのかまるで分からないということだった。

「なんだよ意味ねーじゃん」

 藤澤と肩をどつき合いながらも席に戻る。そして教室に入ってきたのは担任の谷久保先生……と、思っていたのだが、違う。谷久保先生と同じく女性ではあるものの、その先生は髪の長い、眼鏡の奥に見える目つきが鋭い人が入ってきた。正直に言ってしまえば、ちょっと怖い。なんていうか、先生なのに煙草が似合いそうな感じ。アウトロー、とでも言えばいいのだろうか。初対面の人にこういうことを思うのは失礼極まりないだろうが、なんだかやさぐれていそう、というのが私の素直な感想だった。

 クラスメイトたちはその先生を見ると、途端にざわつき始める。

「おい、静かにしろ。おい……よし、静かになったな。産休に入った谷久保先生の代わりにこのクラスを担任することになった、余田よただ。教科は化学。よろしく頼む」

 カツカツカツ、とチョークの音を響かせながら先生は余田吉蝶きっちょうという名前を黒板に書いた。

「えー、谷ちゃん先生が産休?」「でもめっちゃ美人じゃね、あの先生」「余田先生ー、彼氏いますかー?」などと好き勝手言っている生徒たちに対し、余田先生は特徴的な歯切れのよい発音でズバズバと質問に答える。

「いない。募集もしてない」

「えー、余田先生美人なのにもったいなーい」

「でもちょっと怖い感じある」

「今言ったやつ誰だ、ぶっ飛ばすぞ」

「ひょえー」

 あはははは、と教室中に笑い声が響く。先生は見た目とは裏腹に親しみやすい性格であるらしい。生徒の言うことに乱暴ながらもツッコミを入れる。

 この数分の会話で余田先生はもうこの教室に受け入れられたようだ。私は何だかそれが如何にも人心掌握に長けていそうな、詐欺師のような手法に感じられて少し印象の怖さを増した。

「時に諸君。私はぼーっと生きているやつが嫌いだ。日常の平和にかまけてぬべらっとしているやつのことだ。今日生きることに必死にならない奴に一体何が掴めるのだろうと、そう思わないか? ……なぁ、名野?」

「え!? い、いやぁ……どうですかね……?」

 いきなり指名されて私は肩をビクリと震わせた。取り敢えず薄ら笑いを浮かべながらそう答える私を、余田先生は猛禽類を思わせる鋭い目つきでこちらを見つめる。

 何で私? クラスの皆からも「何で名野?」という疑問が聞こえてきそうだった。

「……いや、たまたま目についただけだ。これと言って深い意味はない……が、そのへらへらした顔、お前は完全に覚えたぞ。今日からビシバシ厳しくしてやるからな」

「えー先生、俺はー?」

井出いで、お前は倍厳しくしてやる」

 マジかよー、と言っているクラスのお調子者のお陰で私はそれ以上衆目にさらされることはなかった。急に名指しされたのでしばらく経っても心臓がバクバクしていた。驚きで顔は赤くなってないだろうか。私はひっそりと心の中で、何だか一筋縄ではいかなそうな先生が入って来たなぁと思いつつ、朝のホームルームを聞き流した。

     *

「ねぇ、藤澤。もしも私がラブレター貰ったって言ったらどう思う?」

「嘘過ぎる、と思う」

 二時間目が終わった後、迷ったものの私は藤澤の席へ向かった。それとなく相談してみることにしたのだ。ただし、もしもの体で。実際に私がラブレターを貰ったと分かったらどんな反応をされるか分かったものじゃない。最悪の場合、死ぬほどからかわれた後に根掘り葉掘り聞かれるだろう。それに、こっそりと靴箱に入れるくらいなのだから、他の人にバレたとなっては妻鹿さんにも申し訳が立たない。

「いや、嘘過ぎない場合!」

 それを聞いた藤澤はふむ、と顎に手を当てて考え始めた。首を十五度程度傾けて、出てきた答えがこれだ。

「いじめか?」

 私は振り返って自席に戻る素振りをする。

「もういい」

「拗ねんなって、冗談だよ」

 にへらと口を横に歪めながら藤澤は私の手首を掴んだ。まあ私としては引き止められる気満々だったのだが。元通り藤澤の席の横に立って私が次に続く言葉を待っていると、藤澤は両腕を組んで「でもなぁ、」と続ける。

「ラブレターを貰ったってことは付き合ってくださいってことでしょ? 付き合うって、仲が良いから、とか。一緒に居て落ち着くから、とか。そういうことが理由になるんじゃないの? その点、流ってどう? この学校……いや学校じゃなくてもそこまでの関係になれるほど仲の良い人って私以外に居る? ……いや、それが悪いって言ってるわけじゃないんだけどさ。でも居ないなら、確率は低い……ってか告白されるなんて夢のまた夢だと思うけどな」

「き、綺麗な正論だ……」

 私はフックが来るかと思っていたら顔面に右ストレートパンチを受けたようなダメージを食らった。藤澤が言ったことは何から何まで正論だ。先程まで浮足立っていた気持ちが一気に打ち落とされたような気分だった。私はがっくりと肩を落とした。

「何? 恋したいの?」

「…………」

 そんな私の様子に、藤澤が不思議そうに尋ねる。恋がしたいか否か、それに否と即答できるほど私は大人びていなかった。しかし、したいと言えるほど恋に夢を見ている思春期の子供でもなかった。

 ……いや、どちらかというと、面倒に思っているのではないだろうか? 私は一般的な人間の水準と比較して、人との関わりは避けてきたほうだという自負がある。それなのにいきなり恋愛だなんて、ハードルが高すぎる。

「あ、チャイム」

 キーンコーンカーンコーン、と三時間目の始業ベルが鳴った。私は数学の先生が来る前に、藤澤に別れを告げてから急いで席に戻る。私が席に着いたのと同時くらいに、数学の先生がネクタイを若干緩めながら教室に入ってきた。

「いやー、今日は暑いなー。日直、号令を」

 日直の号令と共に授業が始まる。私はノートの最新のページ……つまり課題がやってあるページを開いた。しかし、あまり授業に集中出来る気はしない。先程藤澤に言われた言葉について考えていたからだ。

「はい……課題の答え合わせから。答えたいやついるかー? ……いないな。じゃあ今日は……」

 数学の先生が空中に数字を書き始める。誰に当てようか、彼なりの法則によって生徒を指名するらしい。

 次に当てられるのは、今朝藤澤と意味のない議論を交わした難しい課題のところだ。私は当たりませんようにと願いながらノートに向かって俯いて自身の存在感を消す。先生は数字をぶつくさと唱え、最終的に導き出された解法に従って一人の生徒を当てた。

妻鹿めが、頼めるか」

「はい」

 妻鹿さんは静かに席を立ち、黒板の前に立った。受け皿にある短くなったチョークを手にとって、答えを記していく。私はその様子を、無意識の内に見つめていた。

 妻鹿さんは品行方正、成績優秀といった四字熟語が似合う、いわゆる“デキる人”だった。しかし、それを鼻にかけることは決してない。

 私と違って彼女の周りには常に人がいる。それこそグループ別け隔てなく。妻鹿さんが人の輪の中に入って楽しそうに談笑している姿をよく見かける。彼女は笑顔のよく似合う人だった。それなのに他人の悪口を言ったりしない彼女はきっと、男女問わず皆から人気を集めているだろう。

 私も彼女について詳しく知っているわけではないが、良い子だなぁという印象を持っている。藤澤とは大違いだ。もし彼女が私と会話をしても、私のことをからかったりはしないだろう。 

 そんな彼女と私と比べてしまえば、月とスッポンだ。遠く、欠けることのない美しい月である妻鹿さんが私に告白など、あり得るのだろうか?

「……よし。正解だ。戻っていいぞ」

「はい」

 答えを書き終わった妻鹿さんがこちらに歩いて来る。ちなみに答えは私のものとも藤澤のものとも違っていた。

「――――っ」

 一瞬、目があった。私は咄嗟に目を逸らす。

 ……見ていたこと、バレただろうか?

 妻鹿さんはそのまま私の横を通り過ぎると、後ろの方の席に座った。それ以上は、何もなかった。

「えー……ここはだな……」

 モヤモヤとした気持ちを抱えている私をよそに授業はつつがなく進行していく。私は後ろの席が気になって集中出来なかった。


 藤澤と一緒に昼ご飯を食べた後、私は一人で校舎の外へと向かった。

 藤澤は昼休みはその日によって、ずっと私と一緒に居てくれることもあれば、他の友だちとの付き合いを優先するときもある。今日は他の友達の元へ行く日だった。そういうとき、私は一人で居なければならないので心もとなくなる。正直言って、めちゃくちゃ寂しい。それは私が寂しがり屋だからというわけではない。けれどもクラスの皆がそれぞれの友達と喋ったり遊んだりしている中、一人で居るというのは中々に辛いものがある。この気持ちは私と同様に友達が少ない人ならば、誰しも一度は味わったことがあるだろう。何かの本にも書いてあったが、孤立というのは孤独とはまた一味違った痛みを与えてくるそうだ。

 私が幸いだったのは、このクラスには孤立している人が居るからといって、いじめてくるような人が居なかったことだ。孤立というのはそれだけで自身がコミュニケーションに不得手で十分な人間関係を構築することが出来なかったという弱さの証明でもある。その弱さにかこつけて「こいつはいじめてもいいやつだ」と認識し、実際その通りにしてくる奴らも一定数いるらしい。私は実に幸運なことにそのようなことをされたことはまだ一度もなかったが、そういう対象になってもおかしくない人間であるということは十分に自負している。だから、こうして昼休みの間中、一人とはいえ自由に行動できるのは、周囲の人に恵まれたということでもあった。

 さて、私が藤澤の居ない昼休みをどう過ごしているかというと、大抵は校舎の外の花壇へ水やりをしに行っている。花壇とはいっても、学校に備え付けのレンガに囲われた立派なものではなく、横長の少し大きな鉢植え数個に植えられた小さなものだ。

 これは元は校長先生が自分から持ってきたものである。そんな風な話を朝の全校集会の時に言っていた。そんな話、大抵の生徒は聞いていない。ただ、ぼーっとしているか眠りこけているために校長先生の話などは耳に入って来ないのである。私がその時聞いていたのも、その日の朝は偶然シャキッと目覚められたからに違いない。

 校長先生は校舎の西側(何故よりにもよって西側なんだろう? 南側に置けばいいのに)に、花壇を作ったので見に来て欲しいと言っていた。実際、それからしばらくは校長先生も熱心に花を育てていたものだが、数ヶ月後のスピーチで今度は「昼休みに校内の見回りをします」と言い出した。一つ増えれば一つ忘れる。それが脳の悩ましい機能性だ。そうして結局のところこの花壇の存在は校長先生の頭の中からすっぽりと忘れ去られ、今に至るというわけだ。

 私は特段花が大好きというわけではない。むしろ、虫が大の苦手なため、虫を寄せ付ける花は必然的に苦手になる。しかしこのまま枯れていくだけの花を、そのままにしておくというのも気が引ける。小さいながらも命は命。同じ生命として失われていくのをただ黙って見過ごすわけにはいかなかった。

 校舎北のグラウンド側にある倉庫から所々割れた部分のあるジョウロを取り出して水を注ぐ。割れているとはいえ、底の部分から水が漏れ出すようなことはない。十分に使える。

 私は西側の花壇の前に戻ると、ジョウロで水をあげ始める。ここ最近は雨も降らず快晴の日が続いていたため水も美味しいだろう。こんな風に初夏なら尚更だ。

 植えてある花の種類は、マリーゴールドにチューリップ、あと何か分からんやつ。いや、その、マリーゴールドとチューリップは花に詳しくない私でも分かる。有名だから。でも何か分からんやつはこれといって見当がついていなかった。でも他の花と同じように綺麗なことには変わらない。特に何か分からんやつは、花びらの中心から外側にグラデーションになっていて他二つとはまた違った種類の美しさがある。

「よーしよし、沢山飲めよー」  

 まるで犬に話しかけるような独り言を呟くが、花は何も返事しない。これが花の欠点とみるか、美点とみるか。けれども話すことが出来たなら、校長先生に水やりを忘れられることはなかっただろうが。

 私はニ種類の花に水をあげ終わり、最後の何かよく分からんやつの鉢植えに水をあげようとした。その時だった。私のゲーマーイヤーが僅かな足音を逃さなかった。その足音は校舎南側からこちらへと向かってくる。私はジョウロをその場に置き、急いで北側の角に隠れた。

 いや、隠れる必要はない。隠れる必要はないのだが……ここで想像してみて欲しい。もしここで他の先生なんかに鉢合わせたらどうなるだろうと。多分、恐らくだが例えば保健室の上島先生だったりすると「まぁ~偉いのねぇ~」何て言って褒められるだろう。それは何か嫌だった。私は先生の点数稼ぎや褒められるためにやっているわけではないのだ。ただ己の道徳が言う正しさを元に行動しているだけなのだ。それが他者から褒められた途端、そのためにやっていることになるのではないかと思ってしまうと、どうにも隠れざるを得なかった。

 校舎の角からそっと様子を伺う。ジョウロは置いてきてしまったが、ジョウロを持ったままだときっと隠れるのに間に合わなかったのだから仕方ない。

「……」

 やってきたのは先生ではなく生徒だった。それなら隠れることもなかったかと思うかもしれないが、生徒に見つかると今度は「昼休みに何してんだろうコイツ、友達いないのか?」と思われるかもしれない。それはもっと嫌だった。

 私はよくよく目を凝らしてその人を見る。あの背中まで届く長い髪……もしかして、妻鹿さん?

 それから更に観察してみたが、その人は妻鹿さんで間違いないようだった。どうして妻鹿さんがこんなところに?

 妻鹿さんはジョウロと花壇を交互に見た後、辺りをキョロキョロと見渡す。私は見つからないように再度慌てて隠れる。しばらく妻鹿さんはそこに立っていたが、一分くらい経過した辺りで、置いてあったジョウロを手に取り、まだ水のあげていなかった何かよく分からんやつに水をあげ始める。水をあげ終わると、妻鹿さんがこっちへ向かって歩いて来るので、私はダッシュで倉庫と倉庫の隙間に挟まるように隠れた。それは相当間抜けな格好になる。頼む、絶対に見つからないでくれ、と思っていると妻鹿さんは倉庫の前の水飲み場に余っているジョウロの水を捨てた。それから私が隠れている場所のニ個隣にある、ジョウロが元々置いてあった倉庫にそれを戻すと、妻鹿さんは元来た道を戻っていった。

「……」

 見つからなくてよかったと思いつつ私は倉庫の隙間から這い出て、少し砂埃で汚れた制服のスカートを払った。

 ……これは、前から度々あったことだが、私が水をあげに来たときもう既に誰かが水をあげていることがあった。その時は、私の他に花マニアでもいるのだろうかと思ったものだが、まさかそれが妻鹿さんだったとは知らなかった。最初はもしかするとたまたま今回初めて水をやりに来ただけかとも思ったが、普通の生徒は触ることもないジョウロが元あった場所を知っていたことからも度々来ていたことは確証付けられる。

 私以外に花を気にかけていたのが妻鹿さんだと知って、私はシンパシーを感じた。普段から品行方正な人は、皆が見ていないところでもそれは変わりないのだろう。素振りだけではなく、本当に妻鹿さんは優しい心の持ち主なのだ。

 他の人は知り得なかったであろうその秘密を胸にしまいつつ、私は妻鹿さんと鉢合わせないよう教室へ戻った。


 昼休みが終わる前から早々に、私は体育館へと向かう。二年生の教室から体育館まではそこそこの距離がある。とはいえ一年生よりは近いものの、体育の先生に怒られないためには、昼休みの時間から着替えて準備をする必要があった。

 更衣室で着替え終わると、体育館には既に前の時間で生徒たちが使っていたであろうバレーのネットがそのままにしてあった。そして、それが片付けられていないということは、私達が受ける授業もまた、バレーであるということだった。まぁそれは今までの授業の流れから予想出来ていたが、それでもネットが出ているというその確証は、バレーが得意ではない私を憂鬱とさせるのには十分だった。

 それに、他にも憂鬱なことがある。もうすぐで便箋に書いてあった放課後になるということだ。もしもラブレターだったとして、私は恋をしたいのかという問い。そしてそれを踏まえて告白を受けるのかという当惑。そもそも本当に妻鹿さんに告白されるのかという疑問。この三つが知恵の輪のように絡み合い、私を混乱させていた。そのいずれも答えが出ないものだった。

 そうこうしている内に第一の懸念であるバレーの授業が始まる。授業の進行度が深いため、よりにもよってこの時間中ずっと試合形式で授業を進めていくらしい。

「はぁ……」

「どうした? 溜息なんてついて」

「いや……ちょっとね……」

「あー、まぁお前バレー苦手だもんな」

「それもそうなんだけど……」

 自分のチームが待ち時間の間、バレーコート外の端に座っていると、同じく待機している藤澤が話しかけてきた。いつもならバレーとは全然関係ない雑談を繰り広げるところだが、そういう気にもなれない。

 考えるのに疲れた私は目の前のバレーの試合集中しようとしたものの、それすら出来ず、どうしても身が入らなかった。

 いっそのこと、便箋など見なかったことにしてしまおうか? 私の中の悪魔がそう囁くのを首を振って必死に振り払う。それは一番やっちゃいけないことだ。内容はどうあれきっと妻鹿さんは、私にしか話せないようなことを話そうとしているはず。それを無下にするなんて、そんなことをすれば私は自分を許せなくなる――

「危ない!」

「へ?」

 大きな警告の声。その声に気がついたときにはもう、眼前に大きな影が迫っていた。

「ひでぶっ!」

 顔面に衝撃が走る。次の瞬間、バレーボールが私の顔面に弾かれて転々とコートに戻っていった。

「おぉ、ナイス顔面レシーブ」

「どこがじゃ!」

 ちゃっかりとボールの軌道を避けたらしい隣の藤澤に向かって抗議する。すると、コートで試合をしていた内の一人が私の元へ駆け寄ってきた。

「ご、ごめんなさい! 私のレシーブが飛んでいっちゃって……」

 その人は、偶然にも妻鹿さんだった。私はどきりとしたが、何事もなかったように返事をする。

「大丈夫、大丈夫……あ」

 人中に温かい液体が垂れてくる。鼻血だ。鼻血なんて、何時ぶりに出ただろう。

 鼻から垂れてくる赤い血を、体育館の床にこぼさないよう手で受け止める。その様子を見た妻鹿さんはオロオロとした様子で矢継ぎ早に喋り始めた。私はそんな彼女を初めて見たので意外に思った。いつもはもっと、可憐というか、落ち着いている印象だったから。

「鼻血……! ご、ごめん! 本当にごめんね! ほ、保健室行こう……!」

「え? 妻鹿さんって図書委員じゃ……」

「ぶつけちゃったのは私だから……あ、私が嫌なら保険委員に……」

「嫌とかじゃない! 行こう」

 私は少し戸惑ったものの、本心から別に嫌というわけではなかったので、妻鹿さんに保健室へ付き添いをお願いすることにした。クラスメイト達の心配した視線に見送られながらも、私は体育館を後にした。


 体育館と保健室は一階にあり、建物の端と端ではあるもののそう離れてはいない。保健室に着くと、先生は居らず、もぬけの殻だった。しかし幸いにも鍵は空いていたので、入らせてもらう。保健室に入った途端、妻鹿さんはテキパキと動き始めた。

「大丈夫、私鼻血の対処法なら分かるから。そこに座って。保冷剤を用意するから、鼻をつまんで俯いてて」

「分かった」

 妻鹿さんに言われたとおり、保健室のソファに腰掛けて顔を下へ向ける。未だ鼻血は止まる様子はなく、数滴が着ていたTシャツに垂れてしまった。血痕が洗ってとれるだろうかなどと思っていると、妻鹿さんがタオルに包んだ保冷剤を持ってきてくれる。

「これを目と目の間に当てていれば止まるから……」

「あ、ありがとう」

 妻鹿さんは保冷剤を自分の手に持ったままそれを当ててくれた。自分で持とうかとも思ったが、恐らく私が鼻を押さえているために片手が塞がっていることを気遣ってくれたのだろう。私はその気遣いに甘えてただじっとその場で静止する。

 これで一つの懸念であったバレーの時間が潰れたことを、私は心の中でこっそり喜んだ。このまま体育が終わるまで保健室に居ようかとも思ったが、それは流石に不自然だろうし、良心が痛むのでやめた。妻鹿さんは心配そうに私を見ている。

「ごめん……Tシャツ、汚れちゃったね……」

「そんなに謝らなくても大丈夫だよ。本当に、私は気にしてないから。それに苦手なバレーが潰れてラッキーっていうか」

「うぅ……でも、よりにもよって今日にこんな……」

 今日。その言葉を聞いて一瞬呼吸が止まる。それを聞いた時、ようやくこの人が私に手紙を書いた張本人であることを強く意識した。手紙のことを、妻鹿さんもちゃんと覚えていてくれたらしい。いや、そりゃあ差出人だから覚えていないとおかしいわけだが、何だか私ばかり気にしていると思っていたから。

「……」

「……」

 静かだった。二人共黙っていた。少し遠くに女子がバレーをしている音が聞こえる。グラウンドでは男子が野球をしている打球音が聞こえていた。その熱気すらも遠ざけるように、窓から入って来る風が保健室を通り抜ける。

 私は聞きたかった。何で私に手紙を? 用事って何? そういうことを。いっそのこと、本当に聞いてしまおうか、今ここで。ちょうど二人きりだし、何の問題もないのでは?

 少しドキドキする心臓を抑えつつ、私は口を開いた。

「ねえ、あの手紙なんだけど……」

 ――次の瞬間、妻鹿さんの顔がみるみる内に赤くなっていった。

 え、と声を上げそうになる声を留める。

 私は次に何て言おうと思ったのかも忘れてパクパクと口を動かした。まるで餌を求める鯉のように。

 気のせいじゃない。妻鹿さんの色白の肌に朱が差しているのがよく分かる。顔が赤くなるということはつまり、そこに意味があるということで……その意味っていうのは……あぁ、でも、とにかく何か言わないと。

 さっきまでは私を心配そうに見つめていたのに、今は目を逸らしている妻鹿さんに向かって私は言った。

「……あれって本当に、私宛て?」

「……うん、そう」

「……そっかぁ」

 言うに事欠いて、今更聞くまでもないようなことを聞いてしまった。そんなこと、朝からずっと分かっていたじゃないか。

 何だか気まずくてそれ以上の言葉を紡げないでいると、ソファが音を立てるほど勢いよく妻鹿さんが立ち上がった。

「鼻血! ……と、止まったね!」

「あぁ、うん。妻鹿さんが手当てしてくれたからだよ、ありがとう」

「そんなっ、元は私が原因だから!」

 何処かぎこちない会話をしつつ、妻鹿さんは保冷剤とタオルを片付け始める。私は手持ち無沙汰にそれを待つことしか出来なかった。

     *

「起立、礼、さようなら」

「さようなら」

 ついに、この時間が来てしまった……。終礼のチャイムと共に生徒たちがこぞって教室を出ていく。掃除をする人の邪魔にならないように私も出ていかなきゃいかないわけだが、そうすぐに屋上へ行くのも何だか気が引ける気がした。

りゅうー、一緒に帰らない?」

 藤澤が呑気にそう話しかけてきた。そうしたいのは、やまやまだ。いつものように藤澤と駄弁ってふざけ合いながら帰りたいが、私には課せられた使命がある。屋上へ行かなければならないという使命が。

「ごめん藤澤、今日は用事がある」

「おっ、何。帰宅部のお前が? それって先生からの呼び出し?」

「あのねぇ……ま、似たようなものだけど」

 先生からの呼び出しも、告白も、呼び出しという点を考えれば似たようなものとも呼べるかもしれない。けれど呼び出された側の心境としては、どちらもドキドキするがドキドキの種類が違う。

「そうか、頑張れよ」

「あぁ……ありがと」

 藤澤はそんな私の心境を知ってか知らずか激励の言葉を投げかけてくれた。私はそれを素直に受け取り、教室を出る。

 どのタイミングで行こうか迷った挙げ句、一階の自動販売機でジュースを買い、掃除の時間が終わるまでそこら辺のベンチでジュースを飲みながら時間を潰した後屋上へ向かうことにした。心の準備をする時間が欲しかったのと、もし私が先に来て相手にワクワクしているとでも受け取られたら格好がつかないと思ったからだ。

 屋上への階段を一歩ずつ踏みしめる中で私は考える。

 保健室での妻鹿さんの様子……きっとこれは告白に違いない。いや、多分。恐らく。間違いなく。だってそうじゃなきゃ照れる必要がない。

 だからといって、どうすればいい? こちとら十六年間恋愛経験など皆無だ。記憶を辿る限り告白された経験はおろか告白した経験も一度もない。全くのゼロ。それに妻鹿さんのことだって詳しくは知らないのだ。

 あぁ、どうして世の中は難しい数学の問題を教えてくる学校はあるのに、難しい恋愛のことを教えてくれる学校はないのだろう! どうして私はそこに通っていなかったのだろう!

 世の中の一般的な少年少女は一体どうやって恋を学んでいくのだろう? きっと小学校から地道に、着実に恋をしていくんだ。その過程の中で付き合ったり失恋をしたりして成長していくのだ。

 しかし私はどうだ! 今までずっとゲームしかしていなかった。恋というのも、二次元の美少女を相手としてだけ! 選択肢がある問いに答えていけば良かっただけなのに。突然無数に選択肢があるこの世界で恋愛イベントなんて!

「あーもう!」

 私は声を出して両頬を叩いた。しっかりしろ。恋愛イベントだなんて、相手に失礼じゃないか。妻鹿さんははっきりと、自分に思いを伝えたくて今屋上で待ってくれているはず。私はそれに真摯に答えればいいだけ。きっと、答えは彼女と対面すれば自ずと分かるはずだ。

 さぁ行くぞ!

 私は腹を括って屋上の錆びついた鉄扉を開けた。

 一陣の風が吹く。

 日差しで温くなったその風は、先に来ていた彼女の長い髪の毛と紺色のスカートを揺らした。

「あ……」

 妻鹿さんがそう呟いた。何故か彼女は目を丸くして、幽霊でも見るかのように私のことを見つめていた。少しの間沈黙が流れる。真昼よりも低くなった太陽が、私たちの様子をじっと見守っているようだった。

「もう……来ないかと思った」

 妻鹿さんは笑ってそう言った。その表情は心の底から嬉しそうで、私は少しだけドキッとした。妻鹿さんは笑顔のよく似合う人だ。その笑顔が今、私に、私だけに向けられている。

「いや、その……遅れてごめんなさい」

「ううん、来てくれてありがとう」

 緊張で口の中が渇く。私は今から目の前の彼女に告白される。間違いない、そう予感していた。再び風が吹いて、妻鹿さんは髪の毛を抑えた。私は髪を吹かれるままにして彼女の言葉を待つ。

「あのね……聞いてくれる?」

「う、うん」

「わ、私……」

 その時、妻鹿さんの手が震えていることに気がついた。声を出すのもいっぱいいっぱいといった様子の彼女を前に、緊張を増す。額から汗が流れる。ゴクリと唾を飲み込む。

 そしてようやく、彼女は口を開いた。

「私と――」

 ――轟音。そして、視界が真っ白に染まる。

「え――!?」

 目の前が光で溢れ思わず目を瞑った。私の耳には未だ、空を引き裂くようなけたたましい大きな音が届いていた。ゴロゴロと鳴り響くそれは獰猛な獣の唸り声にも似ている。

 ――これは、雷鳴?

 現状把握に努めた私は、その音と光から自身の目の前に雷が落ちたのだと理解した。先程まで雲一つない快晴だった。それなのにどうして突然落雷が? そうして考えている内に、雷が私の目の前に落ちたということは妻鹿さんに当たったのかもしれないということに気がつく。

 そうだ、妻鹿さんは――

 私は妻鹿さんの姿を探すためようやく目開ける。

 すると、ずっと遠くに小さくなった学校の屋上と、町並みが見えた。人物が見えないくらいに小さく、豆粒以下になったそれは、空中からドローンで地上を撮影したときの光景と全く同じだ。

「え?」

 私は今、地上からはるか離れた上空にいる。

「え。えぇぇぇえええっ!? そっ、空ぁっ!?」

「ふぅー……危ないところでした」

「なっ、何!? 誰!?」

 私の頭上から綺麗なソプラノの声が聞こえ、それと同時に自分の背中がその声の主に掴まれていることに気がついた。多分、私が空を飛んでいるのではなく、空を飛んでいる何者かに捕まえられているのだ。

 私が物理的に地に足のつかない状態で、反射的に足をジタバタさせ地面を探していると、頭上の声は言った。

「あなたが恋をすると世界が滅ぶんです!」

 何だって? 一体何が何だか分からない。私は頭の中を混乱させたまま、ただユーフォーに捕らえられた牛のように空中飛行をさせられた。

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