第4話 貴方がいれば

 その後、数日にわたってアスラン皇子の一行は真っ直ぐにコフチャズを目指した。つまりは皇帝スルタンの命令に従って、仮の御座所であるエドレネに向かう気配は欠片も見せずに、ということだ。


 この間に、バルトロの指導のもとでいくらかの馬術を修め、スィーラーンは覚束ないながらもひとりで手綱を握れるようになっていた。小姓の変装にも、いくらか説得力が増したはずだろう。


(これはこれで、疲れるけれど――良い気分でも、あるわね)


 馬の首筋を優しく撫でながら、スィーラーンは行軍を見回した。兵たちに比べれば小柄な彼女でも、騎乗すればかなり高い視点を持つことができる。


 槍の穂先や弓や銃が整然と並ぶ様は、畝を成す麦の穂のようでもあった。実用よりも権威を示すために装飾を施された槍の柄や銃身は陽光に輝き、はためく軍旗の刺繍がさらに眩さを添える。

 列を乱さず粛々と進む、垂れ布をつけた変わった形の帽子は、親衛隊イェニチェリに特有のもの。いっぽうの傭兵は装備も髪の色も様々で。

 糧食を載せた車馬もいれば、通過する街や村への伝令、物資の調達のために列を出入りする騎馬も絶えない。……その中の幾人かは、距離的にも時間的にも必要以上に本隊を離れ、皇子の動向を間諜に伝えているだろう。


皇帝スルタンは安心しているのかしら。でも、シェフターリのほうは違うでしょうね)


 エドレネに情報が漏れていることを想定しつつ、スィーラーンとバルトロはあえて放置している。シェフターリの焦りを誘うためだ。


 後宮ハレムに戻って母后ヴァリデ・スルタンの怒りに直面することを恐れた寵姫イクバルは、皇帝スルタンに囁いたはずだ。

 母君は、不甲斐ない長子を切り捨てて弟を帝位に就けるつもりだ。その証拠に、鳥籠カフェスから解き放たれたアスラン皇子は、真っ直ぐに兄の首を狙いに来るだろう。


(ゼーナが守るから大丈夫、とも言ったのかしら。どの道、カハラマーン様が武力で皇帝スルタンを連れ戻そうとした場合にも対応するつもりだったでしょうし……)


 だから、あからさまに歯向かってもあっさりと潰されるだけ。アスラン皇子を諫めた所以ゆえんだ。

 商売だろうと政争や戦争だろうと、敵対する者の予想通りの行動をしてはならないのだ。……そのほうが、嫌がられるから。


 皇子の行動を見れば、シェフターリが皇帝スルタンに吹き込んだは、嘘とは言わずとも的はずれなものになりつつある。弟のを確かめられてひと安心、これで心置きなく宮殿サライに帰れる――だなんて、絶対に言い出させてはならないのだ。


 そのために、あの女シェフターリがどんな手を打つかは――あるていどは、予想がつく。


だと思うから――だから、もう少し頑張ってくださいね)


 スィーラーンの視線の先では、バルトロが皇子とくつわを並べている。

 兄のいるエドレネを目指さない、と決めたことで、猛る若獅子の苛立ちがまた溜まりつつあるのだ。母君に鎖をつけられたまま、かの地で使をするしかないのか、と。


 遠目に伺うだけでも皇子の語気は荒々しく、時おりスィーラーンのほうへ金色の目を向けてくるのも不穏だった。夫の心労を、スィーラーンが密かに思い遣るうちに、今日も太陽は傾き、夜の闇が迫ろうとしていた。


      * * *


 夕餉を終えた後――スィーラーンは、バルトロとと連れ立って立ち並ぶ天幕の群れを離れた。夫婦にもかかわらずの密談、あるいは逢引の格好だった。


 帝国風の長衣カフタンに施された、刺繍や宝石の縫い取りを星の光で煌めかせて、バルトロは深々と溜息を吐いた。赤金色の髪もターバンに隠して、今の彼は完全に帝国の貴人の扮装だった。


「実のところ、皇子の機嫌はさほど悪くない。――拠点を得る云々と、仰っていただろう。結局のところ同じようなことになる、と考えておいでだ」

「皇子が軍を率いて近づけば、コフチャズの統治者は警戒し、態度を硬化させるでしょう。反発を反抗と強弁すれば、攻撃する理由にできますわね」


 コフチャズの政情不安を平定せよ、が皇帝スルタンの命令だ。恐らくはシェフターリに言われるがまま下したもので、かの地の実情など知らぬままなのだろうけれど。


(アスラン皇子が挑発して、それに乗ってしまえば――事実は後からついてくる。コフチャズに咎ありということになってしまう)


 アスラン皇子は嬉々としてコフチャズを落とし、そして晴れて反逆者となる。兄に攻められてもどうにかなる――どうにかすると、若く猛々しい獅子は思っているのだろうけれど。


 もちろん、商人としては帝国をふたつに割る内乱など望まない。皇子の闘志を収めるべく言葉を尽くしたのだろう、軽く首を振るバルトロは、だいぶ疲れた様子だった。


「くれぐれも軽挙は控えるよう、重ねて諫めたらさすがにご不興のご様子だった。――勘気を解きたくば、『皇帝スルタンが手に入れ損ねた至宝』を捧げよ、とのことだったが」

「まあ」


 では、あの金色の流し目は、そういうことだったのか。


(まだ執着なさるなんて。エステルの話を、そこまで真に受けていらっしゃる?)


 作り事だと看破しておきながら、それでも皇帝スルタンにゆかりのを求めずにはいられないのだとしたら。鳥籠カフェスでの日々は、思いのほかに皇子の心に影を落とし、かつ歪めているのかもしれない。


 あの御方がスィーラーンに向ける視線の熱と粘りは傍目にも明らかなようで、彼女は今や「皇子のお気に入りの小姓」としてちょっとした有名人になってしまっている。


 困惑は胸に秘めて、スィーラーンは軽く笑い飛ばそうとした。


「……困った御方ですね。それで、どのようにお答えになったのですか」

「渡さない、と」


 けれど、闇の中にも輝くバルトロの金茶の目は、真剣そのものだった。母后ヴァリデ・スルタンや皇子よりは柔らかな色みのはずなのに、星灯りの下だからか、なぜか鋭く見える。


「以前、皇帝スルタンが相手だろうと、と言っただろう。皇子ならなおのこと、憚る必要はない」


 スィーラーンの手を捕える力も強くて、痛みを感じるほどだった。強引に引き寄せられて――背にも、手を回される。スィーラーンは、驚きに声も出せないまま、バルトロの言葉に聞き入った。


「正直言って、エステル・キラは残酷なことをしたと思う。貴女をものとして扱った。価値を高めるためだとしても、あの話は貴女を縛ったのだと見える。今も、ずっと……!」


 どうやら、バルトロは怒っているようだった。けれどそれは、彼女に対してではない。むしろ――


(私はものではない、と――この人はずっと、言ってくれていたわ)


 自分を商品に仕立てたエステルや、至宝として求める皇子に怒っているらしい。そうと気付いて、スィーラーンの胸に何か温かいものがじわりと広がった。


「出会った時は、あの作り話に救われました。私は――あのシェフターリと共に後宮ハレムに献上されるはずだったから。自分でやった、にしないと、そう信じ込まないと、とても……!」


 その温かい何かは、彼女の心の底に凝り固まっていた怖れをも、溶かした。亡き養母を庇いつつ明かしたに、バルトロが大きく目を見開く。


(本当に皇帝スルタン寵姫イクバルになれたかもしれない女だとは、信じていなかったのかしら。――いいえ、もうどうでも良いことだけど……!)


 もしも、の話を誇りとするなんて愚かなことだ。拠りどころを失くしたあの時のスィーラーンは、新たな支えを必要としていた。それは間違いのないことだ。


「でも、もうあの逸話がなくても大丈夫――だと、思います。貴方がいてくれれば、貴方が認めてくれれば、それだけで」

「スィーラーン」


 バルトロの眼差しが揺れた隙に、スィーラーンは彼の胸にもたれかかった。なぜか、彼の熱をもっと感じたいと思ってしまう。


「……どうすれば貴方に報いることができるのでしょうか。アスラン皇子を帝位に就けて、イストリアの利権を保証する? 絹や香辛料、磁器の商談をまとめて巨額の財をもたらす?」


 彼の胸に指を這わせるのは、よく躾けられた女奴隷の手管ではない。何を言おうとしているか、どうしてこんなことをしてしまうのか――自分自身でも分からないもどかしさの表れだ。


「そんなことでは、とても足りないのでは、と。だから、どうすれば良いか――」

「では、貴女の心が欲しい」


 言い募る言葉は、性急な囁きによって遮られた。いったいどういう、と。問い返す前に、苦しいほどに抱き締められてスィーラーンは小さく吐息を漏らす。


「ものではなく、人として、女性として貴女が欲しい。命じられた形だけの夫婦、商売や利害の上で手を結ぶだけではなく……!」

「私、は――私、の心……?」


 これでは、まるで愛の告白のようだ。――違う。それ、そのものだ。たっぷり数秒はかけてようやく理解すると、スィーラーンの胸は、今度は熱く燃える。かつて彼女の頬を焼いたのよりもずっと激しい熱は、けれど喜ばしく幸せな感覚をもたらした。


(ああ、だから……?)


 彼女がバルトロに触れたくなる理由も、そういうことだ。取引相手としての信頼とかいう話ではなく。そんなしがらみがなくても、イストリアから得る利益なくても、スィーラーンだって同じことを望んでいる。


「バルトロ。私……っ」


 やっと気付いた喜びを、言葉にして伝えることはできなかった。


 星が流れたのでは断じてない、剣呑な銀の煌めきが視界の端に見えた。闇に身を潜めて近づいた何者かが、輝く白刃を抜き放ったのだ。

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